かつての東京モーター・ショーの目玉になる車は、ハイ・パワーで高出力を争ったものだ。
人々の車へのアプローチは、単に人を移動させるための道具(大衆の免許取得率の高まりに合わせ)から、その人の生活状態や性格のあらわれが垣間見えるステータスを証明するための表現方法(バブル前後)。
近年では、家族と物を運ぶ実用性(社会の形態が郊外に進出したことが大きな要因)を経て、高燃費を実現した環境への配慮へと変わりつつある。
また、ぶつかっても安全な車体から、ぶつからない試みへの変化にも興味がわく。
たぶん、11月の5日過ぎには、モーター・ショーを見たままの感想を、レポートできるかな?
今回の私のテーマは、駐車場から駐車場への移動道具としてこれまでの車が、将来はどのような形状でコンパクトになり、室内から室内への移動の可能性を持ち、高齢化社会の足代わりとしての道具となりうるかを確かめることになりそうだ。
今後の避けようのない超高齢化社会の中で、個人の思考判断の遅れや、運転技術(俊敏性)の低下がもたらすだろう事故の増加をどのように防ぐのか?
まず考えられることは自動車の車体を小さくすることによってハンドルの切り回しを楽にすることや、移動して近づいてくる物体を個人の認知判断を越えて検知するシステム。
さらには、究極の技術としての自動運転システム。
技術の進化は同時に、過去の技術と並行に時代進行するため、新型車両のぶつからないシステムと、既存のぶつかる自動車との接触に対する安全性の確保。
10年前のモーター・ショーには、夢物語であり、誰も車に対して求めていなかった技術が、2年前のモーター・ショーでは、個別には実現の可能性をも示唆し、今回のモーター・ショーでは、どのくらいまでの技術進歩が進んでいるのかホントに楽しみだ。
車に求めるものは、人それぞれ。
私が車に求めるものは、無駄の削除と安全性の確保。
そのためには、法定速度を超えるスピードはいらない。
でも、まだ半数以上の人が速度の必要性を訴えるだろうな。
速度を無視できれば、あらゆる車の可能性は増える。
燃費の向上も、環境への配慮も、人々が車に求める大きさ(衝突に対する大小の安全性神話に基づく)と、速度に対する意識(最高速性能や加速性能の数字に求める一般公道では実用性に乏しい自動車の良否基準)をコントロールできればそれほど難易なことではない。
車は、個人を安全に移動させるための道具。
私は、そう考えている。
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