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カナダ・エクスプレス

多倫多(トロント)在住の癌の基礎研究を専門にする科学者の自由時間ブログです。

第一回アジア太平洋NMR会議

2005年11月11日 | サイエンス
第一回アジア太平洋NMR会議が11月9日ー11日横浜で開催されました。日本、韓国、台湾、香港、シンガポール、オーストラリアが中心になって始まったこの会議は、国際的な場所で若い研究者に発表の場を与えることを大きな目標に掲げています。参加者は550人程度、うち外国人が130人程です。二日ともびっしりのスケジュールで、各国の発表者が独特のアクセントの英語で熱心に講演します。会が進むにつれて、若い研究者が質疑討論に参加する光景が増えていきました。これは非常に歓迎するべきことです。言葉の障害を越えて、もっと、もっと各国の研究者が交じり合うことこそが、こういう国際会議の一番の目的だと私は思います。二日間とても楽しい会議でした。二年後、この会議は台湾で開催されます。アジアの各国を訪れることができることも楽しいですね。

念願の総説を脱稿しました

2005年11月04日 | サイエンス
私の生涯の友なりつつある蛋白質分子カルモデュリンの総説をP誌に書き終え、ちょっとほっとしているところです。この総説は昨年から暖めてきた視点を今年になって練り上げ、総説を書こうと思い立ったのは春ごろ。いくつかジャーナルのエディターを当たって、ようやくP誌に落ち着き、8月から少しづつ書いてきました。なかなかまとまった時間が取れないので、時間がかかりました。総説といっても、ちゃんとしたピアレビューがあるので、まだ予断は許せませんが、返事がかえってくるまでは、少しこの件は一休みです。論文を投稿して審査結果を待つのは、子供が生まれてくるのを待つのと感覚としてよく似ています。難産もあれば、スムーズに行くこともあります。出産の本当の痛みはもちろん知りませんが、審査員のコメントが突き刺さるように痛い思いをすることはあります。今度はどうかなあ~。。。

カナダ科学事情

2005年10月29日 | サイエンス
10月8日の日記で『蛋白質核酸酵素』1月号に書くエッセイのテーマを「募集」しましたところ、"一読者MY"さんから、カナダの科学事情を米国と比較して書いてみないか、というサジェッションをいただきました。この問題は、それぞれの国の事情やお国柄を反映して興味深い点が多々あり、私も前々から、その違いを考えるのは面白いなおと思っていました。大国アメリカを背にするカナダのお国柄は、日本と似たところがあります。私は91年にカナダに移るまで、米国に4年弱おりましたので、米国人とカナダ人の気質の違いも、ある程度感触として持っています。それで、早速このことを書く事に決め、PNEのエッセイとしてまとめることができました。仮タイトルは、「サイエンス in カナダ ― 米国との違い」としました。"一読者MY"さん、ご意見ありがとうございました。12月下旬に発行されるPNE新年号をご期待ください。

2005年 Gairdner Award

2005年10月27日 | サイエンス
カナダの医科学研究の最高峰的賞とされているGairdner賞の授賞式のイベントが明日からトロント大学のキャンパスで始まります。今年の受賞者は、肥満に関係するとされる成熟脂肪組織ホルモン・レプチンの発見に貢献したJeffrey M. FriedmanとDouglas Coleman、RNAiの発見の貢献したCraig C. MelloとAndrew Z. Fire、それから、記憶のメカニズムの解明に貢献したBrenda MilnerとEndel Tulvingの計6人です。興味のある方は、Gairdner Foundationのサイトをご覧ください。同賞の受賞者は、先日話題に出たLasker賞と同様に、ノーベル賞の受賞者(もしくは候補者)となるケースが多いとされています。

増井禎夫先生の特別セミナー

2005年10月20日 | サイエンス
今日は増井禎夫先生(トロント大学名誉教授)に当研究所まで来ていただいて、セミナーをしていただきました。増井先生は、申すまでもなく、卵成熟促進物質の発見できわめて著名な先生で、細胞周期の分野でまさにパイオニア的仕事を残されました。1988年、Paul Nurse、Lee Hartwellと共にラスカー賞を受賞されています。今日は、じっくりとMPFの発見までの話しをエピソードも交えてお伺いすることができ大変有意義な一日でした。それに、用意したセミナー室が一杯であふれかえるほどの大盛況で、若い人たちの熱気が感じられ、ほんとうにうれしく思いました。増井先生の業績の紹介は、様々なところに出ていますが、たとえば生命誌研究館の増井先生のページをご覧ください。

ポスドクになるまで III 到着してから

2005年10月19日 | サイエンス
しばらくの間、この件に関して書かずにいて申しわけけありませんでした。それでは、第3部「到着してから」について書いてみます。

88年のことですが、成田からワシントンDCまではデトロイト経由のノースウエスト便で行きました。そのフライトで今でも覚えているのは、エコノミークラスのイヤホンが有料だったこと(確か3ドル程度)、そして購入後イヤホンをつけてビデオが始まるのを待っていると、しばらくして機内放送があり、「システムの故障で映画上映は行えません」とのこと。音楽は聴けたので、確か返金はなかったように記憶しています。こういうサービスでしたから、食事も推して知るべしです。本当に苦痛のフライトだったのを覚えています。それ以来、ノースウエストは敬遠していますが、今はよくなっているのでしょうか?そして、デトロイトで荷物の受け取りやら税関等で手間取り、国内線の乗り換えに間に合わず、DC到着が確か3,4時間遅れたのを記憶しています。それにもかかわらず、私のボスであるB博士は、空港で出迎えてくれました。子供連れで、夜遅くの到着になったので、彼の暖かい出迎えに本当に感謝しました。そして、B博士の車ですでに予約してあったNIH近くのホワイト・フリントにあったモーテルに無事到着しました。

部屋でくつろいでいると、突然電話がなりました。英語での電話会話は、日本人なら誰でも最初は億劫に思うことですが、ましてや長いフライトのあとですから、電話を取るのに少し躊躇しました。しかし、電話を取ってみると、驚くことに相手は日本語で、「伊倉先生ですか?無事到着されましたか?ベセスダにようこそ!」という暖かい女性の声で、ほんとうに驚きました。その方は、NIHのIntnernational Women's Clubの日本人の方で、日本からやってくる研究者の家族をサポートするボランティアの仕事をされているとのことで、その後も色々お世話になりました。ご本人のご主人も当時NIHの研究者で、以後個人的にも家族ぐるみで大変懇意にしていただきました。実はこの方は、現在和歌山医科大学の教授をされているS博士です。モーテルに電話を下さったその奥様Aさんは大変利発で活発な方で、とても素敵な方でした。ほんとうにお世話になりました。あのころを懐かしく思い出します。

このモーテルで1週間ほど仮住まいをした後、我々家族はボスのB博士が手配してくれた貸家に移ることになりました。この貸家は、NIHと隣接する閑静な住宅街にあり、たまたまサバティカルを1年取られたユダヤ人のC博士の家で、格安の値段(確か月700ドル前後)で素晴らしい家に住まわせてもらうことができました。当時としても破格の家賃で、しかも家具付き、何もいうことはありませんでした。これでいよいよNIHでの研究生活が本格的にスタートすることになりました。

到着当時の私は、できるだけ日本人以外の人たちとの付き合いを優先して、日常的に必要な英会話をマスターすることを心がけていました。ただし、B博士の研究室は米国人はゼロでボスも含めてすべて外国人、色々なアクセントの英語を聞かされていました。面白いことに、私にとっては、外国人が話す英語のほうが、米国人の話す英語より理解しやすいという状態にまで陥ってしまいました。とにかく、英語での会話に慣れることを心がけ、それに書く英語の向上を第一優先にして、自発的に周りからの刺激をプラスにしようと考えていました。

何かとりとめもないことを長く書いてしまったので、この辺でやめますが、この記事を書いているとポスドク時代の色々な思い出がよみがえってきて、ほんとうに懐かしくなりました。今ではすべてがいい思い出ですが、これからポスドクで北米や欧州に行かれる方、ぜひとも、あなたの研究者としての生涯にとって、素晴らしいポスドク時代にしてください。

アラスカの白ふくろう

2005年10月14日 | サイエンス
北米からも日本のテレビ番組がかなり見られるようになったことを前にもお話しましたね。先日NHKの番組で北アラスカの白ふくろうの生態について紹介していました。真夏でも気温が零度前後で、その厳しい環境の中で生きている白ふくろうの繁栄は食料となるレミング(小さなネズミの一種)の繁殖のよしあしにかかっているということでした。そしてレミングが少ない年は白ふくろうの赤ちゃんも育たず、数年に一回のチャンスで、毎年生まれてくる赤ちゃんが大人になれるということでした。その営みが毎年繰り返され、白ふくろうは今日まで途絶えることなく子孫を増やしてきたのですね。生命と地球が一体であって、生命と生命は互いに依存して存在する様子が実感としてわかる、いい番組でした。ご覧になった方もいらっしゃるでしょうね。自然は偉大です。

蛋白質核酸酵素10月号

2005年10月08日 | サイエンス
PNE10月号のリレーエッセイに、「科学する心―アリンコ提言」というコラムを書きました。興味のある方は読んでみてください。これは私の二稿目で(一稿目は6月号の「トロントはシルクロード」)、2週間ほど前に出版されたばかりです。と思っていたら、次の締め切りが10月末ですとの連絡が編集部から入り、ちょっとあわてています。私の出番は3-4ヶ月ごとに回ってくるのです。このブログに書いてきたことの中からひろうこともできますが、活字として出版される雑誌に載るものですから、すこし書き手のスタンスも変わってきます。何かサジェッションはありませんか?これまで、書いてきたブログの記事の中で、この問題をもう少し書いてほしいとか、それともまったく新しい問題に関して、私の考えを展開してほしいとか、何でも結構です。コメントがあれば教えてください。次の原稿はここ3週間以内に書かなければなりませんので、今回ご期待に添えるかどうかはわかりませんが、このリレーエッセイはしばらく続きそうですから、次の機会ということもあります。よろしくお願いします。

ポスドクになるまで II 出発に向けて

2005年09月24日 | サイエンス
ポスドクの話しの第二部です。渡航先がきまり出発の日に向けて準備をする段階のことを、私の経験を思い出しながら書いてみます。

ところで、ひと昔前(私の時代より前です)、交換レートが1ドル360円のころ、アメリカにポスドクで数年行ってくると大きな貯金ができるという時代がありました。設備がまだ不十分だった日本の研究環境にくらべて、アメリカのそれは圧倒的に進んでいましたので、いい環境で研究をしながらお金が儲かる、という時代があったのです。今ではまったく事情が異なり、日本で大型プロジェクトのポスドクについた方がはるかに給料はいいし、設備面でもかえって日本のほうが進んでいるという状況に変わりました。驚くべき変化です。(ただ、日本のポスドクのポジションの方がよくなったと言いたいのではありませんので、ご注意ください。)その当時、海外へポスドクへ行くことはある意味であこがれであったとは思うのですが、一方で、日本に確定的な帰還先を持たずに渡航することは大きな賭けでもありました。特に渡航期間が長くなればなるほど、周りからは同情の目で見られるような雰囲気がそこにはありました。私がNIHに行った18年前は、給与面でのメリットはすでになくなり、設備面でもかなり日本がアメリカに迫まりつつあったので、上に書いた「ひと昔前」とは状況が変わりつつある時代だったと思います。すなわち、周りの雰囲気は同情的感情のみが支配するようになり、渡航する本人の気持ちを揺さぶる雰囲気があったように思います。現在でも、そんな雰囲気はあるのかも知れませんね。どんな状況でしょうか?

私の場合は、まったく迷いはなく、アメリカでの新生活に心を弾ませていました。異文化圏での生活に抵抗を持たなかった一つの原因に、高校一年の時のアメリカでのホームステーの経験があったのかもしれません。15歳の学生の目には、生活水準差、開放的な雰囲気、などがすべて良く見えたのでしょう。ましてや、お客さんの立場で行ったのですから、悪いはずがありません。第一印象は大切ですね。人生の進路まで左右します。

「ポスドクになるまで」の第二部でも話しましたが、当時(1988年)のNIHのポスドクの標準的給料は22000ドルでした。私がオファーを受け入れる旨の返事を送った後のB博士からの最初の手紙にも、給料が安いけど本当にいいのかと心配する一文が書かれていました。そればかりか、実際書類手続きが進む段階で、NIHのポスドクのカテゴリーで一つ上のVisiting Associateとして採用するように便宜を図ってくれました。それによって、実際給料もかなり上げてくれました。ここまで渡航準備に関しては、すべてうまく行っていました。ところが、1987年から88年ごろアメリカでは日本との貿易不均衡が大きな社会問題となり、スーパー301条という法律が可決されつつありました。それと同時に日米科学技術協定の改定が難航していて、詳細は忘れましたが、NIHの日本人研究者の採用にも影響を及ぼしていました。当時、ゲッパート上院議員の日本たたきの演説などをテレビで見ながら、本当にNIH行きが実現するかどうか、大変不安な日々を送ったことを今でも記憶してます。幸い私の採用は取り消されず、ビザがおりる旨連絡があったのは、出発予定の1ヶ月前のことでした。こういう社会問題によって、我々科学者の進路や人生も左右されることは、いつの時代にもあります。現在でも、アメリカのテロに対する政策のため、大学院生や外国人ポスドクに対するビザの発給がかなり制限されているというような話しも聞きます。

今では考えられないことですが、当時、書類手続き等に関するB博士とのやり取りは、ほとんどが航空便の手紙でした。そして、出発直前の緊急を要するやり取り(到着便の連絡等)は、テレックスで行っていたいました。今でしたら電子メールで簡単なことですが、当時は本当に待つ時間が長く感じられました。そして、無事1988年4月25日、デトロイト経由ワシントン・ナショナル空港行きのノースウエスト便に、私は家族と一緒に搭乗しました。


2005年度ラスカー賞

2005年09月20日 | サイエンス
今日は私にとって大変嬉しいニュースがあります。私の所属するオンタリオ癌研究所のErnest McCulloch博士とJim Till博士が今年のLasker賞を受賞しました。ご存知の通り、基礎医学の分野ではノーベル賞に次ぐ権威のある賞です。二人は、幹細胞の発見とその機能に関してパイオニア的研究を行ったことで知られています。二人とも現在は名誉教授で、すでに現役を退いていますが、研究所にはよく来ています。Jim Till博士はカーリング同好会でよく一緒にプレーしました。もちろん彼がスキップ(4番目にプレーするリーダー)で、私はセコンドでした。先ほど研究所で彼らの受賞を祝福するレセプションが盛大に行われました。両博士と同じ研究所で研究する一研究者として、彼らの功績に敬意を表するとともに、今回の受賞を心から祝福したいと思います。

ポスドクになるまで I. 打診の手紙を書く

2005年09月13日 | サイエンス
ポスドクに関する私の経験をこのブログで紹介すると約束しました。そこで、私がNIHのポスドクになるまでの過程を3部に分けて、ご紹介します。まず第一部は、打診の手紙を書く、と題して、渡航先への問い合わせから受け入れが受諾されるまでの過程を書きます。この後、第二部では、行き先が決まって、実際渡航するまでの過程を私の場合を例として紹介します。第三部では、到着後の最初の三ヶ月ぐらいのことを、書く予定です。これは、もう18年も前の話ですから、現在の状況と異なることもあると思います。その点を考慮の上、参考にしてください。

ポスドクのポジションに関して打診した先生と当時交換した手紙を私は今でも保管しています。それをこの機会に読み返してみました。忘れていた当時のことがよみがえって懐かしく思うと同時に、今の私の目で見たときの新しい発見もいくつかありました。

当時、私は海外でポスドクをする目的を大きく二つ持っていました。まず、私の専門分野の範囲の中で、学位取得までとは違ったやり方の研究に接すること。研究者としてのはばを広げるためには、異なる環境で異なる思想や発想に接することが、重要と考えていました。そして第二に英語の上達を目指すこと、でした。その頃の私の書いた手紙を読み返してみて、何とプリミティブな英語だったことかと、驚愕しています。自分で書いた英語ですから、意図することはわかるのですが、意図とは反して誤解されかねない表現や文法的な誤りがいくつか見当たりました。たとえば、「I am looking forward to hear from you in the near future.」と書いています。初歩的な文法の誤りですね。これは、「I look forward to hearing from you at your earliest convenience.」とすべきですね。それから、文末を丁寧なことに「With my best wishes」と「Sincerely yours」の両方で結んでいます。相手は気を悪くはしないと思いますが、英語的にはどちらかだけで十分です。おそらく、当時の「英文手紙の書き方」のような本から取ったものなのでしょう。こういうことは細かいことですが、現在の私がポスドク候補者から手紙を受け取ったとき、文章の正確さや履歴書のフォーマットの綺麗さなどを、考慮の一つに入れますので、18年前の自分の手紙のミスを見るにつけ、冷や汗が出てきます。

そんな手紙にもかかわらず、NIHのB博士からはすぐに返事が来ました。当時はメールなどなく、航空便でのやり取りですから、片道1週間から10日は軽くかかっていました。私の手紙の日付が2月10日、B博士からの返事の手紙の日付が3月3日でした。そして、驚くべきことに、彼の手紙にはすでに給料の額も含めたポジションのオファーが記されていました。まだ、推薦状も請求されていませんし、私と直接インタビューをしたわけでもありません。今ポスドクを採用する立場になって、B博士のこの無謀とも思えるこの即断即決に驚くとともに、感謝するのみです。私には真似のできない大きな賭けを彼はしてくれたのだと、今つくづく思います。オファーの内容は、年棒2万2千ドルで、契約は一年更新だが通常二年から三年は簡単に延長できる、というものでした。さらに、給料の額について、独り者には十分だけれども、子供がいる家族にはちょっと足りないかもしれないよ、という思いやりのある一文も込められていました。

実は、私がポスドク受け入れの打診の手紙を送った相手は、B博士だけではありませんでした。候補地に選んだ研究室は、アメリカ、イギリス、スエーデェンなど全部で5ヶ所でした。この5ヶ所のどれでもいいと思っていたわけでなく、それぞれに異なるシナリオを考えていました。イギリスやスエーデェンに行くことになった場合は、2年程度の短期的なものを考えていました。そして、そのあとアメリカに移りたいと考えていました。ヨーロッパは学問の分野においても伝統と歴史があり、それに触れることは貴重であるとは思っていましたが、やはり研究予算の面ではアメリカに敵わず、開放的で自由なアメリカの方が長期的な職が得やすいだろうと思っていたからです。他の4ヶ所からの返事は、ある程度予想できたことですが、フェローシップやグラントが確保できたら喜んで受け入れる、というものでした。もし私が18年前の私の手紙を今受け入れ先の立場で受け取ったとしたなら、やはりそのように返事したと思います。その意味で、B博士の返事は今でも驚きです。当時の私にとっては、圧倒的に引き付ける力を持っていました。B博士の研究室は、私の第一候補でもあったので、もちろん直ぐにオファーを受ける旨、返事を書きました。

今思うと、やはりタイミングと、いい出会いがすべてであると思います。それから、これと思ったものに出会った時に直ぐに実行に移すことの大切さも感じます。私の手紙がもし一年、いや半年遅れていたら、B博士は他のポスドクを見つけていたかもしれません。何事も前向きに進む心の準備があれば、進む先には何かが開けてくるということではないでしょうか?このあと、渡航までの期間の準備や受け入れ先とのやり取りについて、次の機会に書きます。

最後に、皆さんの経験もこの場で共有しませんか?ぜひ聞かせてください。コメントお待ちしています。

ポスドクに関する質問の件

2005年09月03日 | サイエンス
8月23日のポスドクの記事に、6件のコメントをいただきました。ありがとうございます。一度にすべてはお答えできませんが、答えられる範囲でご返事します。

Yamadaiさん:私の場合、大学4年の研究プロジェクトから始まって現在まで28年間研究してきましたが、まだまだ勉強しなければならないことがたくさんあると感じています。今でも修行中です。将棋の升田幸三が念願であった名人になった時、「たどり来て、未だ山麓」と心境を語りました。私は研究の名人ではありませんが、彼の心境には共鳴します。何かのことに長けるためには、それだけの努力が必要であり、時間がかかります。哲学的になってすみませんでした。私のポスドク体験談は別に書きますので、ご期待ください。

とあるposdocさん:共感をもっていただいて、またそれを教えていただいて、ありがとうございました。私の体験談は、皆さんの役に立つのであれば、徐々にこのブログで書くことにします。

思いつきさん:ポスドク選考の基準?これはいい質問ですね。まず一般的に好まれるポスドクの要件を話しますと、ほぼご指摘の通り、(1)外部フェローシップを取れる業績があるか?(2)複数の推薦状がすべてよいか(3)必要な技術をもっているか?(4)人間性、性格はよいか?といったところですね。私ももちろん1―3は最低条件として考えますが、個人的には4を最大重視します。性格、それから私との相性、それにラボの皆との相性はいいか?これは重要なポイントと考えています。よく言われますが、一人の"bad citizen"が混じるとラボ全体が混乱します。これは避けなければなりませんので、重要なポイントと考えています。採用前に、それをどのように判定するか?私はできる限り候補者にラボに来てもらって、セミナーを聞き、ラボのメンバーと話す機会を持たせ、その様子を観察します。一日ではすべてはわかりませんが、おおよその手がかりはつかめます。ダイアモンドの原石を見つけられるか、それをダイヤモンドに磨き上げられるかどうかは、あまりにも多くのファクターがありますので、一様には記述できないのではないでしょうか?

roadman2005さん:ポスドク制度がどのように欧米で確立したかは知りません。面白いポイントなので調べる価値はありますね。何かわかればまた書きます。ポスドク制度の良い点、悪い点についてですが、私の個人的な見解は、良い点の方が多いと思います。前回述べたように私自身ポスドク時代を楽しみましたし、現在ポスドクを指導する立場になっても、その存在に心から価値を見出してます。それは、期限を限定された関係でお互いに緊張感があること、ラボのダイナミックスを保つことができること、などが上げられます。悪い点をもし上げるとすると、北米の場合、収入面や保険面でポスドクは必ずしも優遇されていません。徐々には改善されてはいますが、もう少し優遇してあげるべきだと思います。特に成果を上げて真剣にサイエンスと向き合っているポスドクには、格差をもって対応できるシステムであるべきです。もちろん、そういう優秀なポスドクは遅かれ早かれポジションを見つけて、次のステップに進みますが。満足のいく返事になっていないかもしれませんね。悪しからず。

taketakeさん:ご親切なコメントありがとうございました。こういう応援があると、またこの件で記事を書く気持ちになります。ありがとうございました。

匿名希望さん:フェローシップの申請書類には、必ず受け入れ研究機関および研究室の設備、スタッフの構成等を書き込むところがありますね。指導教官の業績(論文、指導業績も含む)も添付しなければなりませんね。候補者がいかに良くても、受け入れ先が適当でないという判定が下ることもあります。グラントを出すほうとしては、資金がいかに有効に運営されるかという観点から判定しますから、ベストマッチな候補者と指導教官をペアで考えるのは当然です。コメントにあった「研究者不況」という言葉を始めて聞きましたので、その意味合いと日本での現状に関して危惧を感じます。最後におっしゃった通り、PDFに限らず日本の若い研究者・学生の方々が、もっと自己主張していくべきだと私も思います。それから、日本に留まらず、ぜひとも世界の舞台に出てきて、活躍してほしいと心から願っています。能力や才能の観点から考えて、日本人研究者は勝りこそすれ、劣っているとは少しも思いません。国際学会やシンポジウムでもっと若い日本の研究者の話が聞きたいものです。もちろん言語の問題を克服する必要はあります。この点についても、また記事を書きます。

コメントをくださった皆さん、記事を読んでくださった皆さん、ありがとうございました。

学位審査会

2005年08月31日 | サイエンス
今日は私のラボの博士課程の学生I君の学位審査会でした。7月11日の記事で他の大学の学位審査の例を紹介しましたが、トロント大学医学生物物理学研究科の場合は、外部評価委員一人、研究科外審査委員二人、そして学生のアドバイザー教官二人、座長一人、そして指導教官である私を含めて七人の構成です。40分のパブリックセミナーの後、別室に移り2時間15分の質疑討論が行われました。この学生は、第一著者でNature一報、Molecular Cell一報、BBAの総説一報を発表しています。研究内容に関してはまったく問題なし。ただ、学位論文の手直しを中心にいくつか注文は着きました。そして、無事合格。その後、外部評価委員として参加していただいたQueens大学のD教授のセミナーを拝聴したあと、夜はD教授とラボの皆で楽しい会食をしました。学生が一人づつ育っていくのを見送るのは、感慨深いものがあると同時に、仕事を一つ終えたという満足感があります。I君は米国有数の某バイオテク会社でポスドクをする道を選びました。大きく羽ばたいてくれることを願うのみです。

一人の科学者にとってのポスドク時代の意義

2005年08月23日 | サイエンス
今日は、ポストドクトラルフェロー(PDF)について書いてみます。日本でも、ここ10年ぐらいで、この制度がかなり浸透してきて、読者の中にもPDFとして研究をしている方々がおいででしょうね。私も88年から91年まで、米国の国立衛生研究所(NIH)でポスドクをやりました。そして、その3年と8ヶ月の間に、研究者としてかけがえのない素晴らしい経験をして、PDF制度の恩恵を受けた一人だと思っています。学位は言ってみれば運転免許みたいなもので、免許をとっても一人前の研究者になるにはまだまだ先は長いのです。一人の科学者が経験を積み成長していく過程で、ポスドク時代がいかに重要かということをここで考えてみます。

まず第一に、PDFは基本的に自分の研究だけをすればよいという暗黙の了解があります。研究者にとってこの上ない幸せな職種なのです。極端な言い方をすれば、本当に研究が好きなら、お金を払ってでもやりたくなるポジションです。グラントを自分で書かなくても、研究に必要な設備が与えられ消耗品が使えます。こんな時期は他にありません。学生時代のような授業もなければ試験もない、それに、講義もしなくていいし、雑用もほとんどない。研究者としてこれほど自由な時間が多い時期というのは、前にも後にも他にありません。研究にどっぷりと浸かることができる素晴らしい時期なのです。研究を生涯の職業に選んだ方は、まずそのことを念頭において、ポスドク時代を満喫してほしいのです。与えられた時間を生かすか、無駄にするかは本人しだいです。

次に、適切な研究環境でPDFをすることは大切です。すなわち、大学や研究所の科学に対するビジョンがしっかりしているかどうか?あなたの分野の科学に対するサポートは十分あるか?私の場合、周りの環境に大変恵まれていたといっても過言でないでしょう。NIHには研究第一の精神が漂っていたと思います。そして、私がNIHに行った88年当時は、NMRによる蛋白質構造解析をNIHが本腰を入れて始めようと、新しい研究室を二つと既存の研究室の協力体制を整えようとしていたところでした。その一つに私は入りました。やると決めれば、研究費をどんどん投資して、いい研究者を集める。そんなカルチャーに接することができたことは、言ってみれば、栄養豊富な恵まれた胎盤の中で研究者として成長することができたということになります。その経験を通して、自分自身の科学に対するスタンダードをどのレベルに定めるか、ということにも大きく寄与する結果に結びつきました。一研究者の生涯研究の遂行にとって、これは大きいと思います。

環境は、建物や設備などの入れ物だけでできているのではありませんね。環境は人が作ります。周りにいる研究者との接触、相互作用が、全体の環境に及ぼす影響は計り知れません。私の場合、直接の上司をはじめとして非常に多くの優秀な同僚に出会うことができ、実験の詳細や新しいアイデアなどを議論しながら互いに刺激しあう貴重な経験をしました。同じ分野の研究室間の交流も非常に盛んでした。同じ科学を志す研究者の同僚には、組織の壁は必要ないと強く感じました。そして、その時一緒にポスドクをしていた友人は今では世界中で活躍していて、そのネットワークは大きな財産になっています。人との出会い、そしてそのタイミングが大事です。科学のホットトピックスは時々刻々と変化していますから、それを的確にとらえ、時代とともに成長する進路決定は得にこそなれ損にはならないはずです。

結論は、学位を修めて科学者として次のステップを考えるとき、PDFはこの上ないありがたいポジションです。科学者の一生に一度しか回ってこないこのチャンスを生かすも殺すも、あなた次第です。進学する大学や大学院を決めるときよりも、その後の研究者としての人生にとってもっと重要な選択になるかもしれません。自分の研究方向を見定め、それをさらに発展させて行くためには、どこへ行けばいいか?どんな研究環境に自分の身を置くことが、あなたの研究者としての人生にとって最善手なのか?そういうことを真剣に考えて、学位取得後の進路を考えるといいのではないでしょうか?変化を恐れず、前向きにホップステップジャンプする方針を定めれば、必ず幸運が訪れるはずです。そう信じて進むのみです。

この記事を読んだ若い研究者の諸氏は、もしかしたら、具体的にどうやって海外のポスドク受け入れ先を見つけるか、という疑問を持つかもしれませんね。どうでしょうか?もし興味があれば、私の経験を披露して参考にしてもらうことも考えています。この記事が役に立ったかどうか、私の例をもっと知りたいかどうか、教えてください。コメントをお待ちしています。


お盆休み

2005年08月12日 | サイエンス
日本はお盆休みですね。科学雑誌『蛋白質・核酸・酵素』のリレーエッセイのための原稿を数週間前に書き終え、そのゲラ(この日本語はおそらくgalleyからの派生語ですね?)刷りが回ってきたので、この週末はそれに目を通します。タイトルは、「科学する心―アリンコ提言」です。10月号に載る予定です。乞うご期待!