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カナダ・エクスプレス

多倫多(トロント)在住の癌の基礎研究を専門にする科学者の自由時間ブログです。

PNEエッセイ「サイエンスinカナダ」

2006年11月14日 | サイエンス
今日は『蛋白質核酸酵素』2006年1月号に掲載された「サイエンスinカナダ」というエッセイを紹介します。

カナダは大国アメリカの影にいつも隠れて、日本の皆さんにはなじみがうすいと思います。たとえば、カナダには私立の大学が存在しないことをご存知でしたか?病院もすべて公立です。この稿では、カナダとアメリカのサイエンス世界がどのように異なるのかについて書いてみました。グラントのことや大学の教員の評価システムなど、日本の研究者の方にも興味を持たれると思われることを中心に書きました。

この稿を書いて一年が過ぎましたが、アメリカ同様、現在カナダのグラントの状況は一年前と比較しても芳しくありません。アメリカのNIHに相当するCIHR(Canadian Institutes for Health Research)の予算の削減が、基礎研究者にとっては深刻な問題になってきています。今後いい方向に進展してくれることを願っています。

PNEエッセイ「科学する心-アリンコ提言-」

2006年11月10日 | サイエンス
今日は『蛋白質核酸酵素』2005年10月号に掲載された私のエッセイ「科学する心-アリンコ提言-」を紹介します。(タイトルをクリックするとPDFファイルがダウンロードできます。)

このエッセイを書いた後、細胞周期の研究で著名な増井禎夫先生(トロント大学名誉教授)に見ていただいたところ、共鳴する旨のご返事をいただきいたく感激しました。この稿でも、ビッグサイエンスの件に関して私なりの考えを紹介したつもりです。科学は人すなわち頭脳が生み出すものであって、科学する感性を育てることが、研究者の育成にも大事だと痛感しています。

若い人たちは、どうか自分なりの科学する心に磨きをかけることを第一に考えて、自分の道を邁進してほしいと願います。すでに敷かれてあるレールを探すのではなく、自分の行くべき道を自分で見つけだすことが大切だと思います。失敗を恐れずに前進あるのみです。信念を持って突き進めば、必ずや道は開けることでしょう。

PNEエッセイ「トロントはシルクロード」

2006年11月09日 | サイエンス
昨年から今年の夏にかけて、『蛋白質核酸酵素』(PNE)誌(共立出版)に数回にわたりエッセイを書きました。「研究の森の中から」というリレーエッセイシリーズで、日本の数人の先生とともに数ヶ月に一回のサイクルで書きました。内容はこのブログ同様気ままな話題が中心ですが、サイエンス誌ということもあって、できるだけ若い研究者に興味をもっていただけるような話題、刺激になるような話題を選んだつもりです。

出版社からの許可を得て、私の書いた五つのエッセイを今後順番にこのブログ上で紹介していきます。一人でも多くの研究者に読んでいただけたらと思ったからです。

第一回は「トロントはシルクロード」です。(タイトルをクリックするとPDFファイルがダウンロードできます。)

このエッセイでは、私が住むトロントの町がまるでシルクロードのように活気のある他民族社会であって、その効用がサイエンスにも反映しているということを書きました。またこの素晴らしい町をたくさんの方に知ってもらおうという気持ちもこめて、そこに住む一科学者の生活の様子も紹介したつもりです。

他のエッセイをご覧になりたい方は、トップページへお越しいただくか、カテゴリーからサイエンスの項目を選択してみてください。ご笑覧いただければ幸いです。

ビッグサイエンスの弊害

2006年10月07日 | サイエンス
9月28日の『Nature』誌(Vol.443,pp382)の「'Big Science'Protein Project under Fire」の記事を読みました。ようやくこの問題に光が当てられたのかという感じですね。ちょっと、私なりの考えを書いてみます。

科学者にとって科学に研究資金が回ってくることには誰もが歓迎することです。ゲノム科学、プロテオミックスのブームに乗って巨大な研究予算がこの分野に集まってきました。DNAシークエンスや蛋白質の立体構造をゲノムスケールで決めるためです。懸念はありましたが、当初は誰も大声で文句は言いませんでした。サイエンスにお金が入ってくるのですから。確かに、人の遺伝子や様々な生物のゲノム解析が進んだことでプラスの面は大きいと思います。

同時に「High Throughput」というキーワードの名のもとに、研究室は工場化し、すべての試験管がバーコードによって管理され、研究用ロボットを操作するオペレーターまでバーコードによって管理するという世界を生み出しました。

本当にこういう研究環境から新しい発見が生まれるのでしょうか?科学は科学者が頭脳を駆使して考えることから生まれると私は信じます。ゲノム科学に頭脳がないとは言いませんが、日常の実験の中で頭脳をすり減らして新しいものを生み出そうという情熱や研究環境は、工場の中には見えてきません。

こういう研究環境の中に若き才能を埋もれさせて、その才能・頭脳を無駄にしてしまう事態が現実問題として起こっています。お金のあるところに職が生まれ、そこに多数の若い人材が投入される。エコノミーの力学です。ただここで問題は、人材育成という観点から、工場のようなところで科学者としての頭脳は育たないということです。考える土壌、頭脳を駆使しようという環境を与えてあげなければ、若い才能や頭脳の発達は大きく妨げられます。

それから、ビッグサイエンスにお金が流れれば流れるほど、従来の研究方法(仮説をもとに研究を進めるやり方)で研究をするその他大勢の研究者への研究資金の流入が抑制されるているという現実があります。国の研究予算レベルで、科学研究投資が数パーセント増えたとしても、それはビッグサイエンスが吸い上げているだけで、後者の研究者たちには逆に減少になっているというのが現実です。

米国では今NIHの研究資金助成が大変厳しい状況にあります。グラントの採択率が10%を切るという状況です。中近東でお金を使いすぎているという政治的背景もありますが、ビッグサイエンスの弊害が大きな問題となっています。そして、一番大きなしわ寄せは、初めてのグラントを書く若い科学者に及んでいるのです。なぜなら、新規のグラント申請の採択率は更新グラントの採択率にくらべてさらに悪くなるという現実があり、彼らにとっては大変厳しい状況です。

MITのボブ・ワインバーグ博士が『Cell』誌(Vol.126,pp9-20,2006)に「A Lost Generation」というタイトルで、現在のグラント問題に関して私見を書いています。この中でもNIHのグラント配分の問題が取り上げられています。新しいジェネレーションを育てていくためには、その生育期間において、よりよい肥料や栄養を与えていかなければまりません。もしそうしなければ、その成長は極端に阻害され、きれいな花を咲かせたり、大きな実をつけることができないということは、庭や花瓶で花を育てている人なら誰でも知っている自然の原理です。ビッグプロジェクトに大きく偏った予算配分をするべきではなく、長期的な観点からバランスの取れた予算配分を行うことが必要であるという考え方に私も賛成です。

日本の場合特に、官僚(もしくは政治家)の手柄のためサイエンスの方向性が大きく曲げられるケースがあることを否定できません。それによって、若い力の育成が阻害されているという現状(意図的ではないにしても)があるとしたら、それは回避せねばなりません。影響力のある研究者の人たちも、言い方は不適当かも知れませんが、出生主義第一の一部の官僚に調子よく加担するのではなく、また利己的な資金集めだけに走るのではなく、もっと大局的な観点でサイエンスの方向性を考えて、次世代のためによりよい伝統なり、よりよいシステムを残していくことを考えてほしい。「言うは安く、行うは難し」と言われるかもしれないが...

冒頭で紹介した『Nature』誌の記事で紹介されている横浜RIKENのNMRパークの例は、あまりにも象徴的です。巨大な予算や人材・設備を投入しても、一人の人間であつかえるテーマには限界があります。年齢を問わず有能な科学者たちに適切な予算を無駄なく配分し、そして協力的で且つ競争的な環境の中で自由を与えることが大切です。それによって、オリジナリティーのある多様なアイデアや発見が生まれるでしょう。科学は人が生み出すものです。

ノーベル化学賞単独受賞

2006年10月06日 | サイエンス
今年のノーベル化学賞はスタンフォード大学のロジャー・コーンバーグ博士の単独受賞となりました。受賞理由は、「真核生物転写の分子機構の解明」です。

転写の分野に光が当てられることは何年も前から噂されていました。ただ、コーンバーク博士の単独受賞になることを予想した人は少なかったかも知れません。これはどの分野においてもよくある話しですが。私も、転写が受賞の対象であれば、ロックフェラー大学のレーダー博士が必ず入ると信じていました(他にも候補者はいましたが、ここでは触れません。)RNAポりメレースのタイプ1から3まですべてを発見したのは彼ですし、その後の転写の分野での貢献は計り知れません。そして60歳を超えた今でも活発な研究活動を続けています。何よりもレーダー博士の継続的な情熱には頭が下がりますし、とても好感が持てます。友人としての個人的な感情ですが、本当に残念な結果でした。

最後になりましたが、私と同じ構造生物学者であるコーンバーグ博士の目覚しい研究成果に対しては、本当に感歎と敬意を表するとともに心からお祝いいたします。

サイテーションインデックスについて

2006年09月29日 | サイエンス
cogitoさんからご質問のあったサイテーションインデックス(CI)と業績評価について、ちょっと触れてみます。

まず、CIとは何か?それは、ある論文が別の論文で何回引用されたかを指数としてまとめたもので、こういう集計をしている会社がいくつかあります。このシステムでは、引用されればされるほど、インパクトが高い論文という位置づけになります。このCIを個人の発表論文についてまとめて、その研究者の影響力に関する「物差し」にしようというわけです。

私の所属する研究所でも、すべての教授陣について集計されたCIを「監視する」部署があります。そして、毎年の業績評価を割り出す際に、部門長や研究所長はその数字をある程度参考にしています。ただし、この簡単な物差しには、様々な落とし穴があり、一概にこれだけで評価を下すことは危険です。

たとえば、ある研究者はほんとうに価値のある論文を、主たる研究者として単独で、年に一報しか出さないとします。一方ある研究者は多数の研究者に協力して、共著者として年に50報の論文に自分の名前を連ねるとします。論文あたりのCIが、前者が100で後者が平均10だったとすると、合計では前者が100ポイント、後者は500ポイントとなります。

さて、どちらが本当の意味で科学に貢献したのでしょうか?単純にCIのみで言うと、後者の研究者は前者の研究者よりも5倍も「働いた」もしくは「価値がある」ということになります。これでいいのでしょうか?

ここで、もう一つ注意しないといけないのは、後者の場合、共著者は多数いて、CIポイントは共著者となった他の研究者へも同様に配分されています。1ポイントの「比重」が、前者と後者では異なります。

ちょっとこの例は極端ですが、一つの問題点を浮き彫りにするためにあえて選びました。念のため付け加えますが、私は共同研究が悪いとか、共著で論文を出すことが悪いと言っているのではありません。CIをどう読むべきかを考えるときの「落とし穴」の例を述べたまでです。

要するに、CIだけで研究者を評価することは危険なのです。それではどうするべきか?やはり、専門家による専門家の評価が必要です。そして、そこには公正で厳粛な評価の精神がなくてはなりません。以前にも書きましたが、「conflict of interest」を完全に除去した真の「peer review」が必要なのです。評価の問題は簡単ではありません。

研究所のレトリート

2006年06月14日 | サイエンス
今日は、研究所のPIレトリートが一日あり、朝8時から5時までしっかり同僚の講演を聴きました。新しいディレクターになるN博士もボストンからやってきて、彼の歓迎ムードを盛り上げる大きな効果もあった会になりました。やはり、こういう会を持つと、「ファミリー」感覚が増します。夕方からは、現ディレクターのP博士の家で、レセプションがありました。このパーティーも盛り上がり、大変よかったと思います。ミーティングのオーガナイザーも勤めたので、一日神経を使い、ちょっとばかり疲れましたが、会が最初から最後までうまくいって、ほっとしました。

科学の流行語

2006年06月10日 | サイエンス
どこの世界にも流行というのはある。ファッション界に毎年違った色やデザインの衣類が紹介されて、それが流行になることはしばしばだ。人は違ったもの、新しいものを求める。あきやすいのだ。ただ、どんなに工夫を凝らしても、上着には二本の腕を通す部分があり、胴体をおおう本体がある、という点では、どんなデザインの服も共通点を持つ。骨格は同じなのだ。

サイエンスの分野でも流行があることは否めない。私が大学に入学した70年代には、分子生物学が登場し、化学、生物学、生化学という名称にくらべて、とても新鮮で魅力的な響きを持っていた。その後、遺伝子工学とか蛋白質工学とかいう流行語も登場した。80年代後半には、構造生物学が登場し、その響きは、同分野で研究する私にとって、きわめて親しみ深く受け入れやすかった。その後、ゲノム科学、プロテオミックスなどへと流行語は移ってきた。そして、ここ数年の「オミックス」風潮へと至るのである。

看板がきれいになると、客が集まってきて、店の収益が上がる。サイエンスでも、看板を書き直して、収益(グラント)を上げようという手段は、多かれ少なかれ、科学者の間でも用いている。流行が行くところに、お金が集まるからだ。

しかし、看板の変わったサイエンスの中身はというと、基本的には、化学、生物学、生化学等の手法と大きな変化はないといっても過言ではなかろう。確かに、「オミックス」化によって、多くの試料や多くの遺伝子を一度に実験できるようになった。ハイスループットで実験ができるようになった点は大きな進歩だと思うが、実験そのものの基本は、手作業でやっていることとまったく変わりはない。そして、その基本の中にこそ、科学者としての真の価値があるように思う。

科学は心に宿る、というのが私の考えである。自分の手を動かして、自分の頭で考える。苦悩する。そこに、サイエンスの面白さ、楽しさがあるのではないだろうか?ロボットが出してくるデータを、ソフトにかけて統計処理させて、その意味までコンピュータに考えさせるような手法には、限界があるはずだ。人間らしさ、科学者個人の考え、その中にサイエンスが生まれると私は信じている。

流行語もいいのであるが、その言葉に振り回されず、ほんとうにいいもの(正しいもの)、後世に残るほんとうの真実を追い求めることこそが、科学者の生き方ではないかと私は思う。

レトリート

2006年05月17日 | サイエンス
昨日のレトリートは、あいにくの雨にもかかわらず、皆楽しんでくれたようです。トロントからナイアガラまでは120kmほどありますが、今回は例の黄色いスクールバスを貸切り、総勢21人でバス遠足という趣向でした。ワークショップを午前中に終えて、1時に出発して、バスの中でランチを食べました。そして、ナイアガラの滝を見物、ナイアガラ・オン・ザ・レイクでショッピング、そしてオンタリオワインのワイナリーでワイン工場見学と続きました。最後にワイナリー直営のレストランでディナーを食べ、M博士の生体系のNMRの歴史に関する貴重なレクチャーを拝聴して終了しました。スクールバスでトロントに戻った頃には10時を回っていました。思い出に残る楽しい一日でした。

「理科ばなれ」について

2006年04月15日 | サイエンス
日本で理科ばなれが進んでいると聞く。ある統計では、日本の子供の理科の学力はこれまで世界的にも常に最上位であったが、最近の統計では第三位に下落したということである。それにもっと憂うべきことは、「理科がすきか?」という質問に対して「はい」と答えた子供の数の割合が、調査された国々の中で最下位であったそうだ。科学者としては、考えさせられる問題である。

なぜ子供たちが理科から離れていくのであろう?現代社会の子供たちは、コンピュータ、携帯、DVDなど科学技術の中で生きているといっても過言ではない。しかし、子供たちにもっと必要なものは、素朴な自然やその自然と向き合って人間が作り出した知恵(すなわち文化)と接することではないだろうか?その中に理科離れを止める一つの答えがあるような気がする。こういう言い方はあまり好まないのだが、私が幼い頃は、小川でおたまじゃくしを観察したり、小学校の高学年になると天体望遠鏡を買ってもらって、天体観察に明け暮れたことが思い出される。名古屋・白川公園にある科学博物館のプラネタリウムは、私の大好きな場所だった。また、魚屋の店先では大きなマグロをさばく光景を目撃したり、鍛冶屋で火花を散らしながら鉄を打つ職人の姿を凝視していた思い出もある。秋祭りには、大きな屋台車に乗っているからくり人形の細かな動作に目を見張ったものだ。身近に科学へ興味を抱くきっかけが多かったような気がする。

よく引き合いに出される例ではあるが、今の子供たちは残念ながら、スーパーで売っているマグロの切り身がどんな魚から取れるのか知らないだろう。食卓に紙パックでおかれているミルクは、どこからどうやってやってくるのか、知っているだろうか?時代が違うのであるから、古い時代に可能であった経験をさせるのは無理であるが、もっと初等教育や家庭教育の中で、子供たちに自然現象や機械、道具の仕組みなどに接する機会を作ってやるのが大人の責任であろう。

私はこれまで大学・大学院の教育現場しか経験がないが、その現場でも明らかにサイエンスからもっと実利的な職種(医者、弁護士、経営者等)へ有能な人材流失していて、危機感を持っている。理科に興味を持ってくれる子供たちが多くなることを願わざるをえない。自然の偉大さ、美しさをもっと子供たちに伝えて生きたい。そのために初等教育の大切さを切実に感じている今日この頃である。


『国家の品格』

2006年04月05日 | サイエンス
数学者の藤原正彦氏の『国家の品格』という本を読みました。数学者でありながら、論理性の欠点を明快に指摘して、論理性に大きく依存した西欧文明の限界そして危険性を見事に解説しています。いかなる論理にも出発点が大事であること、そしてその出発点を決定するものが、情緒であり形であると解いています。形とは、能の形とか、歌舞伎の形とかいうような民族に固有のやり方、すなわち文化のことです。また、美しいものを美しいと感じる情緒こそが大切であると解いています。そして、日本は武士道の形を取り戻すべきであって、アメリカ文明に洗脳されしきった現代日本社会の「形」に危険信号を送っています。

まったく同感です。あえて言うなら、生物学や化学、そして物理学にも同様のことが言えます。出発点、すなわち仮説が美しく、理にかなったものであるなら、あとは論理が自然と正しい答えに導いてくれるものです。最近の生物学の傾向として、同じような仕組みやメカニズムが、異なる遺伝子で数多く見出されたり、または、一つの遺伝子(たとえばp53)が数多くの異なるメカニズムの中に現れたりするのは、論理の出発点に何らかの問題を含んでいるケースがあるのではないでしょうか?すなわち、それらは、藤原氏が指摘する美的感覚の欠如によるものかもしれません。彼は、数学にも同様の問題があると言い切っています。

この本は数学者らしいきわめて論理性に富む良書で、大変刺激されました。一部同意できない点もありますが、大筋において彼の主張に真理を見出したのは私だけでしょうか?かなりのベストセラーになっているとのことですので、皆さんの中にも読まれた方がいらっしゃることでしょう。この本のポイントは、帝国主義や国粋主義ではないことをはっきり理解したうえで、お読みになってみてください。

徳島入り

2006年03月21日 | サイエンス
徳島大学で行われるシンポジウムに招かれ、今徳島に到着しました。特別講義も同大学と徳島文理大学で行います。四国は幼年時代に一度来たことがあるはずですが、大人になってからははじめてです。ホテルに着いたばかりで、まだ徳島に来た実感はありません。幸い高速インターネットがありますのでブログが更新できます。

World Baseball Classic(WBC)でついに日本が優勝しましたね。ほんとうによかった。それにしても、イチローは素晴らしい選手ですね。前向きで、行動力があり、自信に満ちています。彼の発言に彼自身がよく現れています。WBC優勝、おめでとうございます。

今留学中のあなたへ

2006年03月04日 | サイエンス
このブログの読者には海外で研究生活を送っているかたがいらっしゃることをコメントなどから理解しています。先日もアメリカ在住の「一読者」さんから、励ましのコメントをいただきました。

海外で研究生活を開始しても、言葉の問題や習慣の違い等のために、なかなか思うように馴染めない方も多いことでしょう。でも、そこでくじけてはいけません。閉じこもってはいけません。外に飛び出しましょう。日本で学んだ常識から飛び出して、現地の常識に馴染むことです。日本人をやめろと言っているのではありません。彼らをもっとよく知り、彼らの中に入り込んでいくのです。そうすると、自分の存在場所も見えてきますし、彼らにもあなたの存在がはっきりしてきて、相互の理解が深まります。つまり、friendshipが生まれます。人はみんな違います。同じような理屈で考えないほうが懸命ですし、疲れません。肩の力を抜いて、自分を出し、彼らを知ることが重要です。

殻に閉じこもっていてはだめです。でも、海外にいるだけでプラスになっている部分というのは必ずありますよ。心配なく。つまらないセミナーをきいているときも、スーパーマーケットのレジの女の子の表情やしぐさと見ているだけでも、そこには何か学ぶものがあります。日本ではお目にかかれないこと、ものの見方、考え方、そして反応の仕方などなど。驚くべきことに出会うこともあるでしょう。それらをよく観察し、人の違い、世界の広さを知ってください。それだけでも、大きな収穫です。

しかし、それに甘んぜず、そのプラスをいかにアンプリファイできるかが、やはり成功のカギです。それには、あなたの行動力、そして確固たる意志が必要です。最初は、色々失敗もあるでしょう。恥ずかしい思いをするかもしれません。それでもいいではないですか。そういう積み重ねが、必ずプラスになります。一日一日を大切にして、留学生活を楽しみながら、より有益なものにしてください。

韓国の科学技術

2006年02月21日 | サイエンス
学会で韓国のDaejeonという町に来ています。ここは、韓国が近年サイエンスシティーとして開発してきた町で、国立や民間のたくさんの研究施設が立ち並んでいます。ちょうど筑波に似た感じです。そこにあるKBSI(Korean Basic Science Institute)で行われている会議に出席し、最先端の研究施設を見学し、韓国の科学技術に対する積極的な投資を垣間見ました。この町にある研究機関やソウル、釜山をはじめとする各地の研究機関から学会にやってきた研究者の多くは、海外で学位をおさめたり、ポスドクの経験をつんだ若い人です。ですから、英語が達者ですし、国際感覚を持っています。研究スタッフ、教授陣の構成は、香港やシンガポールの大学で見たパターンと同じです。それから、定年後の元現役の先生方にもお会いしましたが、どの方も英語できちんと話され、自分のやった研究を熱心に紹介してくださいました。若い学生やポスドクたちも元気があり、やる気が伝わってきて、大変好感を持ちました。韓国の研究者の層の厚さを感じました。韓国の自動車、電気産業の著しい発展に支えられて、この国はさらなる躍進を遂げるに違いありません。冬季オリンピックでもがんばっていますね。たくさんの友人を作ることができ、大変有意義な時間を持つことができました。

ところで、この学会は韓国人の発表者を含めて、すべて英語で行われました。日本の学会では、英語での発表を敬遠する動きが若者たちの中にあると聞きますが、現時点では英語がサイエンスの「公用語」ですので、これを避けて通ることはできません。英語さえある程度マスターすれば、日本以外の多くの国々の人たちとコミュニケーションできるようになり、世界が広がるではありませんか。こんな素晴らしいことはないですよ。ぜひ、英語での発表や会話を練習して、海外にも多くの友人を作ってください。世界が広がると同時に、心が豊かになると私は思います。

予期せぬ結果

2006年02月11日 | サイエンス
ラボのベンチワークから離れていると、学生やポスドクのベンチを覗き、どんな結果が出ているのかを見るのが大変楽しみです。今日は、P君が持っていた最新の実験結果をみて、それが予期せぬ結果であったので、困惑と驚きで二人で喧々諤々の議論をしました。予期せぬ結果というのは、我々の頭の中にある「方程式」に当てはまらないものを指すわけですが、生物学の分野では、この「方程式」というのがくせものなのです。それは、その公式が既存のデータや知識をもとにしたものであって、既知のものの中には、一般化するには不十分なデータであったり、誰かの思い込みで発展した知識が転がっている可能性があるからです。そこで、予期せぬデータにめぐり合ったときは、それを厳粛に受けとめ、追試するとか、別の実験方法で検証するとかという努力が必要になります。今日の予期せぬ結果が、私には何か新しい発見を含んでいるように思えてなりません。さらなる実験をするように、P君と合意して議論を終えました。