身の程知らずの独り言

音楽的にも文学的にもダメダメな♀が、身の程もわきまえず、好き勝手な戯言(主に、中島みゆきさん)を記しております。

みゆきさんの言葉選び、その16「あぶな坂」・「怜子」

2015-01-31 23:17:00 | 中島みゆきさん(言葉選び)
"みゆきさんの声、その25「あぶな坂」・「怜子」(いまのきもち)"を書いた後で、"言葉"の部分だけ付け加えたくて、書き始めたのに、上手くまとまらなくて、2ヶ月余り経ってしまいました。(--;)

その間、アルバムが出たり、夜会があったり、紅白だ、月イチだ、「縁会2012~3」劇場版だと書きたいネタが、多かったので、熟成させたというより、放置状態だった可愛そうな妄想です。(・・、)

そもそも、言葉の部分だけ付け加えようと思ったのは、
「kamzine 創刊号」のインタビューを読み返したからです。

このインタビューで、みゆきさんは、10歳より前から歌を書いていたと語っています。

で、けっこうなことを書いてあって、なんでこんなことを書いてるのか、疑問に思っていたそうです。

「10歳の頃とか、カンで書いてるのね、あれ。なんとなくそんな気がするって書いてるの」と。

カンだけで書いてる時は、思いつくのが楽しいけれど、言葉の周辺がないから、なんだろうなと疑問が残ってたんですって。

そして、30代、40代、50代になると、カン混じりの実感で書いてるんだそうです。
(10年前の記事です)

「それってなんのこと?だったのが、自分のことになってくるの。人ごとじゃなくなるんだわ」

だから、そこまで言うと恥ずかしいとか、思うようになってきたとか。

さて、その後は。

実物を見る努力をして、書いていくと仰ってますね。

実物のまわりの事情も見ていくってことかな、と。

で、このカンで書いていたというのを読んで、浮かんだのが、
「あぶな坂」です。

『♪あぶな坂をこえたところに
 あたしは住んでいる』
で、始まるこの曲をわずか10歳で書いたとは、思いませんが、少なくてもデビューの23歳以前に書いてはいるのは確実ですよね。

『♪遠いふるさとは おちぶれた男の名を
 呼んでなどいないのが ここからは見える』

まだ若い、みゆきさんは、何をみていたんでしょう?

これが、カンなんでしょうかね?

田家さんと師匠も、この曲のことは、話題にしてましたね。

師匠は、
「おいで、おいで、して食べちゃうんじゃないですか?」
と言い。

マクベスの
「きれいは、きたない。 
 きたないは、きれい」
を引用されて、傷をかばう母性と、その真逆の残虐性が、表裏一体になっている、とも仰ってました。

人は、決して一面だけじゃないよ、と。

デビュー前どころか、もしかしたら、10歳より前、曲を作りはじめた頃から、人間のそんな本質を感じ取っていたんでしょうかね。

本質を感じ取ると言うと、タイトルに挙げたもう1曲
「怜子」(1978)。

『♪ひとの不幸を 祈るようにだけは
 なりたくないと願ってきたが』

当時高校生だった私には、このフレーズは衝撃でした。

自分でも見ないようにしている、負の感情を引きずりだされたようで。

反対に、そういう感情があることを自覚して、
『なりたくない』
と言うみゆきさんが、大人というか、凄い人だなぁと、ただただ感心したものでした。

で、このフレーズを何年か前に、全く違う捉え方をしてる方がいて、驚いたのでした。

『♪ひとの不幸を~
 わたしの胸に痛すぎる』
の部分を引用されて、不健全だと書かれていました。

人の受け止め方って、本当に色々なんだなあと思いましたね。

『ひとの不幸を祈る』
と文字にすると、呪詛みたいで禍々しい感じになり、不健全に受け取られるのかも知れませんが、そんなに特別な感情ではないと思うです。

だって、週刊誌やワイドショーの話題として盛り上がっているのは、結婚やオメデタの話題より、離婚やお家騒動の類いでしょ。

結婚のすぐ後に、いつ別れるかといった話題で盛り上がるんですもの。

それに、歴史なんてお家騒動と権力争い、要は足の引っ張りあいの記録がメインだと思うし。

みんな、密かにひとの不幸を祈ってるようなものと言うと、人間性を疑われそうですが、私はそう思います。

「人の不幸は蜜の味」って言うくらいですから。

ただ、無自覚な人が殆どでなだけで。

だから、今の私が、初めてこの歌詞を見たら、正面から
『♪ひとの不幸を祈る』
と歌い、そう
 『なりたくないと』
と歌う感受性の強さ、ストイックさが、心配になると思います。

"生きていくのがシンドイだろうな、この人は"と。

「怜子」が特別なわけではなく、みゆきさんの歌は、
"生きていくのがシンドイ人"の歌ですよね。

先に、「kamzine 創刊号」のインタビューで、
「カンで書いてた」と語られてたカンって、感受性の豊かさから産まれたものだと思います。

他人のシンドさや痛みがわかるって、感受性ですよね。

そして、自分に置き換える想像力。

幼い頃から、感受性や想像力が豊かだったんだろな、と思います。

だから、シンガーソングライターになられたんだと思うのですが、感受性の強さや想像力の豊かさは、すばらしい創作に繋がっても、生きていくのには、シンドイだろうと思うんです。

他人の分まで、傷つくから。

昔、オールナイトニッポンで、山崎ハコ嬢のオールナイトが、本人に何の前触れもなく、次週で打ち切りと告げらことがありました。

突然次週で終了、もう来なくていいという理不尽な対応に、みゆきさんは自身のオールナイトで、怒りとも悲しみともつかない感情をどうすればわかってもらえるか、考え考え訥々と訴えかけていました。
(YouTubeにこの部分だけUPされてます)

"終了は仕方ないとしても、突然来なくていいは、マナー違反だ"と。

「チリンチリン」とカワイく始まる自転車コーナーとか、少しハイテンションなハコ嬢が面白くて、可能な時(火曜日2部)は聴いていたので、突然の終了は私にもショックでした。

しかし、それにも増して、そんな番組批判と言うか、放送局批判みたいなことを生放送で言ってしまったみゆきさんのことが、心配で心配で、次の週の放送終了までドキドキだったことを思い出しました。

学生の私からみても、無茶なことするなって、みゆきさんのオールナイトも終了させられるんじゃないかと。

理不尽なことを黙っていられない真っ直ぐさに感動するとともに、大丈夫かと、本気で心配してましたね。

今思えば、現場はみゆきさんの訴えを遮ることもなく、みゆきさんのリクエスト通りハコ嬢の曲をかけていたので、みゆきさんの味方だったんでしょう。

だからか、みゆきさんのオールナイトは終了することなく、続きました。

もしかしたら、私の中では、この時のハラハラドキドキから、保護者目線が芽生えたかもしれません。(笑)

理不尽さに挑む姿勢は、歌詞の中だけでなく、中島みゆきという人の生きる姿勢だと思える出来事でした。

「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」を観ても、40年間、その姿勢は変わってないなと思います。

それって、本当に凄いことだなあと。

つくづく、この人を好きで良かったと思います。(^^)

なんだか、やっぱりまとまらない、、、(^^;

長々とスミマセンm(__)m。

こんなヘンテコな妄想に、最後までお付き合い頂いて、本当にありがとうございます。(^^)

では、また(^-^)
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みゆきさんの声、その33「India Goose」夜"「問題集」8

2015-01-11 01:14:00 | 中島みゆきさん(声)
『♪小さな小さな鳥の列が なぎ払われる
  小さな小さな鳥の列が 組み直される』

アルバムラスト「India Goose」。

チマチマと書いていたら、その間に、
月イチがあり、
「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」があり、
紅白歌合戦があって、アルバムラストに辿り着くまで2ヶ月かかってしまいました。(^^;

しかし、「India Goose」については、その間、チョコチョコ書いてるので、まずそれらをまとめたいと思います。
(「アルカディア」のネタバレもあります)

「美の巨人たち」のエンディングで初めて聴いた時は、
"朝の声の「麦の唄」と対照的に
夜の声の「India Goose」"
と書いてます。

そして、「India Goose」の検索が多いことに触れて、

"井上陽水さんが、
『パチンコ屋で流れている歌謡曲の中で一番強いのは中島みゆきだ』
(齋藤孝著「12の力」)
って言った歌声に引き寄せけられ、サビの
『♪飛びたて 飛びたて 戻る場所はもうない
 飛びたて 飛びたて 夜の中へ』
で、絡め取られるんでしょか?"
と記してます。

続いて、
"あの歌声、あのメロディ、"ザ・中島みゆき"というか、みゆき節全開で、私もド・ストライクです。"
と結んでいます。

さらに、「アルカディア」のインタビュー記事の「India Goose」の箇所に
「非力ゆえに逆風に乗ることでしかチョモランマの峰を越えられない小さな雁の歌」
と、あることを受けて、

"しかし、普通にIndia Gooseで検索すると、
「インドガン、世界で最も高く飛ぶ鳥、わずか8時間でヒマラヤ山脈を飛び越える」
とあり、この検索結果だけだと、凄くたくましい鳥のような気がするのに、この記事を読むと全く逆の印象になります"と綴ってます。

やっと、月イチでフルコーラスを聴き終えて、
みゆきさんの力強い絶唱が、胸に迫って思わずウルッときて、
"「夜会」のどこで歌われるかわかりませんが、盛り上がるでしょうね。"
と、書きました。

アルバム「問題集」を聴いた第一印象は、

"この曲は、単体でもスゴいと思いますが、アルバムラストに聴くと、それまでの曲、全てを受け止めて、
『♪飛びたて 飛びたて』
と歌っているような気がして、胸の中に熱いものが込み上げてきて、テンションが上がります。"
と、興奮気味に書いていました。

《注意》こから、ネタバレです。

この第一印象を綴った時に、
"「月はそこにいる」も迫力あるラスト曲だと思いますが、
「India Goose」の迫力というか気迫は、まさに「夜会」のラストの盛り上がりの擬似体験みたいで、スゴいです。"
とも書きました。

まさに、
「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」
のラストで、歌われました。

最初は石田匠氏が歌い出し、みゆきさんが加わってデュエットに、そして
あたるちゃんの
「私と一緒に」
が絡んで、みゆきさんの絶唱が舞台に響き渡り、会場の興奮を巻き上げていきます。

最後、ダメ押しでウルッと、きましたね。(・・、)

ただ、もうワンコーラスか、サビが、あと2回繰り返せば、号泣してたのに。(TT)

その手前で幕が降りるのが、少し残念な気もしました。

あたるちゃんも石田氏も、
「最後は歌の力だ」
と言ってましたが、メロディと詞と歌唱の三位一体が
「歌の力」
なんだと思い知らされた感じです。(^^)v

なんたって、みゆきさんの迫力ある
『♪飛びたて飛びたて~』
の歌声に押し上げられ、本当に舞台から飛び立つんですから、スゴいです。(笑)

このラストについて、無事飛び立って洪水から逃れるハッピーエンド説から、重量オーバーで無事離陸できない、または、まともに飛べないアンハッピーエンド説まで色んな意見があるみたいです。

私は、ハッピーエンド派です。(^^)v

千秋楽を観た方のブログで、カーテンコールでみゆきさんが、
「観終わった時にちょっとだけ幸せになれるようなものを創ろうと思った」と言われたそうです。

だから、絶対ハッピーエンドだと思うんです。

しかしそれは、ただのめでたし、めでたしのハッピーエンドではなくて、確かに重量オーバーかもしれない、上手く飛べないかもしれない、でもそれを修整し、克服して、何度も何度も挑み続けてやっと辿り着けるハッピーエンドのような気がします。

冒頭に記した
『♪小さな小さな鳥の列が なぎ払われる
  小さな小さな鳥の列が 組み直される』
のように。

初めに、
「India Goose」
を聴いた時は、サビの
『♪飛びたて 飛びたて 帰る場所はもうない
  飛びたて 飛びたて 夜の中へ』
のインパクトが強かったのですが、何回か聴くうちに、
『♪小さな小さな鳥の列が なぎ払われる
  小さな小さな鳥の列が 組み直される』
が、大好きになりました。

みゆきさんの歌声も、重々しい曲の中で、
『♪ほら次の雪風にあおられて』
から、少し明るく、優しく、愛しげに聴こえるんです。

だから、よけい
『♪飛びたて 飛びたて ~』
の力強い歌声が、胸に迫るんだと思います。

インタビューの回で書いたように、
『♪暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく~』
を思い出すんです。

そして、
『♪ファイト!冷たい水の中を
 ふるえながらのぼってゆけ』を。

何回なぎ払われても、自力で組み直して、風に、峰に、挑んでいく小さな鳥たちの健気さと逞しさが、胸を熱くします。

みゆきさんと一緒に、
『♪飛びたて 飛びたて 帰る場所はもうない
  飛びたて 飛びたて 夜の中へ』
と、エールを送りたくなります。

『♪今日は倒れた 旅人たちも
  生まれ変わって 歩きだすよ』

不撓不屈の精神ですね。

あたるちゃんが、
「蕎麦屋」
について、
「悔しい思いをしたことのある人の歌だと思った」
って、言ってました。

その通りだと思います。

今でこそ大御所扱いしてもらえますが、針ネズミだと言われた頃のみゆきさんは、随分悔しい思いをされたんだと思います。

それら一つ一つに、立ち向かっていったから、今があるんじゃないかなと、勝手に思っています。

周囲に流されず、踊らされず。

倒れても、傷ついても挑んでいく。

歌声と創作意欲を武器に。

そのために、努力と創意工夫に力を尽くして。

だから、あんなに凛々しく、かっこよく歌い上げられるんじゃないでしょうかね。

唐突ですが、
「ランナーズ・ハイ」(常夜灯 2012)
で、ご自分をキリギリスに例えてらっしゃいます。

確かに、アリとキリギリスで言えば、キリギリスなんでしょうが、
ウサギとカメなら、みゆきさんはカメだと、私は思います。

速いウサギに対して、遅いカメというイメージですが、私にはカメは、良い意味で究極のマイペースだと思うんです。

それこそ、流行や世間に流されない、我が道を行くタイプ。

カメは万年って言いますから、1万年前、1万年先を考える、みゆきさんぽくないですか?

ゴールなんかどこにあるかわかりませんが、より高みを目指して、滑っても、転んでも歩みを停めることなく、マイペースで進んでいかれるんじゃないでしょうかね。

「India Goose」
を聴いていると、そんな余計な妄想まで浮かんできて長くなってしまいました。(^^;

スミマセンなんですが、長くなりついでに、親バカな生モノネタを。

「週刊文春」が、紅白歌合戦終了直後、メルマガ読者に
「あなたが一番良かったと思う歌手は誰ですか?」とアンケートしたところ、
総得票数953票のうち、209票を獲得して、みゆきさんが圧倒的1位になったそうです。

ちなみに、2位は神田沙也加嬢で76票。

1位 中島みゆき  209
2位 神田沙也加   76

同じ文春の紅白歌合戦をメッタぎりした記事でも、
「自由自在に転がる声、見せ場の作り方。エンターテイナーってこれっす」
と書かれています。

思わず、最年長シンガーソング・ラッパーの坂上弘さん93才が、今後の夢として、
「中島みゆきさんのような"エンターテイナー"になりたい」
というようなことを語ったことを思い出しました。

やっぱ、みゆきさんって、エンターテイナーなんですね。(^^)v

何とか、月イチまでには、書き上げられたけど、「美の巨人たち」のエンディングには間に合わなかった。(--;)

本当に、今回も長々とお疲れ様でした。

お読み頂いて、本当にありがとうございます。(^^)

では、また(^-^)
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みゆきさんの声、その32「一夜草」"夜"「問題集」7

2015-01-06 00:23:14 | 中島みゆきさん(声)
夜「問題集」も残り2曲です。

この「一夜草」は、
「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」
と、完全に絡めて妄想しますので、ネタバレ禁止の方は、始まる前に、ありがとうございました。(^^)

いつにも増して、妄想が暴走してます、スミマセンm(__)m。

すぐ、ネタバレになります。

まず、この曲を最初に聴いたのは、2014年10月19日の月イチです。

この時書いた第一印象が、
"「昭和歌謡?」"

続けて、
"何か懐かしくて、調子よくて、耳コピした下記のフレーズが印象的な曲でした。
『♪夜風につられて セレナーデ
 思わず知らず セレナーデ
 歌えてしまうよ セレナーデ
 罪作りな セレナーデ』
(耳コピなんで、間違ってたら、スミマセン)"
  ↓
『♪罪つくりなセレナーデ』
でしたね。

そして、この時のみゆきさんのコメントとして、
"みゆきさん曰く、
「どんな場面で歌われるんでしょうかね」"
と、書いてます。

みゆきさんの言葉を聴いて、
"この曲が、歌われる場面に重要な意味がある"、
と言いたかったのかな?と、チラッと思ったのを思い出しました。

実際の舞台では、この曲が歌われる場面だけ、ある意味異質な展開になってます。

この曲を歌うのは、舞台上の出演者ではなく、ミュージシャンや和ちゃん(杉本和世)と一緒に舞台下でガンバル、文さんこと宮下文一氏。

舞台上では、高橋九曜(石田匠)が仏壇に手を合わす高橋模型飛行機店の上で、九曜の父の高橋忠と思しき人物が紙飛行機を折っては飛ばしています。
(過去のワンシーンを表現してると、思われます)

このシーンは、高橋家三代のシーンだと思います。

その高橋家の名前について、気になったので、考えて(妄想)みました。

まず、九曜。

Wikipediaで調べたところ、インドの天文学や占星術、神話に出てくるもので、実在する天体7星に、実在すると考えられた天体2星を加えたもののことだそうたです。

実在する天体は、曜日でお馴染みの「日・月・火・水・木・金・土」の七曜。

そこに、古代インドで実在すると考えられた、
月の昇交点であるラーフ:ラゴウ、
月の降交点であるケートゥ:計都(けいと)
の二曜を加えて九曜となるそうです。
(ラゴウは、漢字が反映されないのでカタカナにしました)

月の交点は、日食や月食に深く関わっており、インド神話では、ラゴウが日食、月食を起こすとされているようです。

それが、日本に伝来し「九曜曼陀羅」として、信仰の対象になったようです。

「九曜曼陀羅」(参考です)
日曜(千手観音)、
月曜(勢至)、
火曜(虚空蔵)
水曜(弥勒)、
木曜(薬師)、
金曜(阿弥陀)、
土曜(聖観音)、
ラゴウ(不動明王)、
計都(釈迦)

また、九曜紋として家紋にも使われています。 

インド神話か、九曜曼陀羅か、九曜紋か、ハタマタそれ以外の何かか、みゆきさんが何になぞらえて、命名されたのかはわかりません。

ただ、前世の公羊(くよう)から九曜に変わっているのは、意味があるような気がするんです。

公羊、集団(公)の生け贄の羊?
集団の意思に逆らえぬ者という意味かな?と思っています。

九曜に変わった今生、少なくても羊ではなくなっています。

神話だ、曼陀羅だと、人以上の強い意思を持つ者として、集団に縛られるな、との思いが込められているのかしら?と勝手に解釈してます。

群れなければ生きられぬのが人ならば、人を超えて行け、と。

『♪荒れ狂う流れは 水じゃなくて人です
止めることのできない嵐は 人です』
(人柱)

また、"曜"と聴いて真っ先に頭に浮かんだのは、中国で生まれ、日本に伝来した六曜です。
(九曜とは関係ないそうです)

先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口

日々の吉凶を示します。

迷信だとして否定する意見がある一方、すがってしまうことも多い六曜。

『♪すがるものに群がる まじないの言葉に
祈る 祀る 占う 貢ぎ物 人柱』
(人柱)

みゆきさんの念頭にはなかったかも知れませんが、私の頭の中で繋がったフレーズです。

九曜の祖父は、一曜。

『♪ただの裏切りと 記録は示すだろう
国を捨てながら逃げた臆病者』
(国捨て)
と歌われる脱走兵。

『♪この世の恥とは何ですか 御国の恥とは何ですか
身内の恥とは何ですか 心の恥とは何ですか』
(国捨て)

その一曜の息子が、いつ誕生したのかはわかりませんが、この
『御国の恥、身内の恥』を受けて、
"忠"と名付けられたのかな?と。

忠誠の"忠"かな?と。

ただ、舞台の忠は、父から受け継いだ「緑の手紙」を紙飛行機にして飛ばしているように見えたので、国への忠誠の意味を装って、
親への"忠"という意味も込められてるんじゃないかなと、またも勝手に思っています。

九曜が仏壇を拝み、忠が紙飛行機を飛ばす、このシーン。

ならば、一曜はどこにいるかと言えば、文さんの歌声の中だと、私は思っています。

文さんが、歌う
「一夜草」は、
一曜の歌だと。

第一印象で、
「昭和歌謡?」
と書きましたが、それを意識して創られた曲ではないかと、
「アルカディア」を観て、強く思うようになりました。

曲調で、時代を表現したんじゃないかな?と。

「アルカディア」のラストについて、何回か書きましたが、一曜は特攻隊を脱走したのだと、私は思っています。

『♪願いどおりの風は吹かない
運びさられる この命』

『♪もしも明日がもひとつあれば
心残りはないだろうか』

その脱走理由が、
「一夜草」に描かれるロマンスなんじゃないかな?と、これまた勝手に妄想してます。

『♪好きも嫌いも嘘もホントも どうせ私の夢の外』

『♪罪つくりなセレナーデ』

なんとも、大暴走な妄想だとは思いますが、みゆきさんならそのくらい、考えそうだと思うのは、私の思い込みでしょうかね?

アルバム「一夜草」の第一印象を
"何か懐かしくて、調子よくて"
と書きましたが、歌詞を噛みしめて聴いていると、なんとも切ないメロディに思えてくる曲です。

みゆきさんの軽く震える歌声が、一見明るく聴こえます。

サバサバしたあきらめというか、開き直りという感じに聴こえます。

しかし、声の微妙な震えとバックのマンドリンの震える音色が、苦しく悲しい胸の内を表現しているように思えて、胸がジーンとなってきます。

たぶん、「アルカディア」を観た人と観てない人では、この曲に対する感想は変わるんじゃないなかと思える曲です。

だから、私の中では、このアルバムの中で、一番「アルカディア」と絡んでいると思える曲なんです。

それで、「アルカディア」に絡めたら妄想を長々と先に書いたんですけどね。

ハデに暴走してしまった(--;)
 
書いたことは、あくまでも私の個人的感想であり、ただの妄想です。

まあ、こんなこと考える人もいるんだ、と思っていただけたら、幸いです。

さぁ、後残すは
「India Goose」。

月イチまでに、"飛びたて"るんだろうか?

今日も、長々とお読み頂き、本当にありがとうございました。(^^)

では、また(^-^)
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みゆきさんの声、その31「身体の中を流れる涙」「ペルシャ」"夜"「問題集」6

2015-01-03 20:53:00 | 中島みゆきさん(声)
いよいよ、ディープな夜の匂いが漂って参りました。
(完全妄想モードです(^^;)

というより、「夜会」の匂いが色濃くなってきたという感じでしょうか?

そのため、「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」のネタバレも出てきます。

その絡みで、一気に2曲妄想してしまいました。

長くなってます、スミマセンm(__)m。

まず、アルバム「問題集」の続きです。

ネオンサインが煌めく
「問題集」
から一転、誰もいない深夜、一人静かに涙が頬を伝うような
「身体の中を流れる涙」。

最初にこのアルバムを聴いた時に、
「問題集」から
「身体の中を流れる涙」
の流れで、イメージとして浮かんだのが、
「夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN」(1991)の
「わかれうた」、「ひとり上手」から
「さよならの鐘」になるシーン。

カラオケでハシャいでるように歌われる2曲から、徐々に表情が真顔に変わっていき、何とも言えない悲しく切ない歌声の
「さよならの鐘」に変わるシーンです。

「夜会工場」では、
「キツネ狩の歌」から
「さよならの鐘」で、再現されていました。

どちらも、ハシャいだ後の笑顔から徐々に真顔に変わるみゆきさんがお見事で、物凄く印象的だし、好きなシーンです。

夜の喧騒から、一人の部屋の静寂さ。

明から暗、躁から静。

この切り替わりの鮮やかさが、一層この曲の寂しさを深く感じさせ、胸に迫ってくる気がします。

みゆきさんの声も、硬目の歌声を震わせて、
「問題集」の酔って揺れるイメージから、凍えて震えるイメージに変わって聴こえます。

さらに、ハッキリ発せられる言葉が、拒絶感を出しているような気がします。

『♪なぐさめ言葉 知恵言葉 私のためなら要りません』

切なさを通り越し、寂しさに震え、心の寒さに凍るイメージの曲だと思います。

間奏の弦(マンドリンかと思いましたが、たぶんBouzouki )の震えが、啜り泣きのように胸に響いてきます。

(YouTubeで確認した感じで、伴奏がPortuguese guitar で、間奏がBouzouki だと思ったんですが、音楽的知識が皆無な私なんで、間違っていたらスミマセンm(__)m)

和ちゃん(杉本和世)のAdditional Vocal って言うんですか?
(♪何を泣いていたか忘れても~
引き継がれてゆく)
の歌声が、感情的にならずに、余韻だけを残して締めてくれている気がします。

先に、
「問題集」から
「身体の中を流れる涙」
の流れで
「夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN」の1シーンが、浮かんだと書きましたが、
アルバムで考えたら、「中島みゆき」(1988)の
「仮面」から
「クレンジング クリーム」が浮かんできました。

それで、思ったのが、瀬尾師匠と組んでから、せつない曲は多くても
「身体の中を流れる涙」のような凍えるような悲しさの曲が、アルバムに入ることが、あまりなかったような気がすることです。

やっと思いついたのが
「掌」(「DRAMA !」2009)。

ただし、歌詞の内容も違うし、これはあくまで、私のイメージです。

アルバムに入ってない曲なら、
「夜会VOL.7 2/2」(1995)の
「拾われた猫のように」
が、浮かんできましたが。

何とも言えない寂しさ、物悲しさからイメージした曲なんですが、偶然猫つながりになってしまいました。

ここから、完全にネタバレです。

ネタバレ禁止な方は、ここまでで、ありがとうございました。(^^)


ネタバレです。

「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」で、この曲は第2幕第1場の幕開き、「問題集」のコーラスの後に、あたるちゃんのソロで歌われます。

みゆきさんがピアノで歌ってるデモテープを聴いて、泣いたと「よのなかばかなのよ」で言ってた曲を、あたるちゃんは、寂しく切々と歌い上げます。

最初にこの場面を観た時は、九曜への思いかな?と単純に思って、それにしては重いなあ?とシックリこない気分で観てました。

それが、観終わって、もう一度自分の中で反芻して、あの場面の
「身体の中を流れる涙」は、
第1幕第2場の"すあま"の絶唱
「人間になりたい」
を受けて、天音の中に眠る"すあま"の悲しみを歌い上げたものなんじゃないかと思い至ったのです。

これが、正解かどうかは知りませんが、私には一番落ち着く解釈なんで、そのまま続けます。

そう思ってから観ると、あたるちゃんの寂しく悲しい歌声が、胸にじんじん響いてきました。

『♪私の聞きたいひとことは あの人だけしか使えない
命よりなお長く 誓いは生きる』

「ペルシャ」の
『♪愛しい人が私を呼ぶわ~』

と相俟って、"すあま"がいじらしくて、幕間で乾いたはずの瞳が、潤んでくるんですよ。(・・、)

舞台では、
「身体の中を流れる涙」の後、
みゆきさんの歌う
「どうしてそんなに愛がほしいの」、
あたるちゃんの
「雨天順延」とつながり、
みゆきさんとあたるちゃんの掛け合いの
「ペルシャ」となります。
(ここも、念のため「中島みゆき研究所」さんで確認しました。ありがとうございます)

歌い出しの人間パートが、みゆきさん。

猫パートが、あたるちゃん。

先に書いたように、あたるちゃんの
『♪なんだ、夢なのか』
に、いじらしさを感じました。

アルバムの「ペルシャ」ラストの
『♪なんだ、夢なのか』
のみゆきさんの声については、第一印象を記した時にも書きましたが、あのガッカリした声が胸を締め付けられて、愛しさが込み上げてくるんです。

この曲を聴くと、どうしても2年前に亡くなった愛猫を思い出して、
『♪『迎いに来たよ、さあ行こうね』と』
と、言えたらいいのにと思ってしまうんですね。

FIPのキャリアで、10年以上生きてくれて、「ペルシャ」とは違い甘えん坊な猫でした。

みゆきさんの
『♪なんだ、夢なのか』
のガッカリしてるのに、甘えたような声が、イメージぴったりなんです。

だから、ハマるんです。

話が逸れて、スミマセンm(__)m。

実は、"ペルシャ"については、結構突っ込みどころ満載かなって気がしてたんです。

楽曲の「ペルシャ」じゃなくて、「アルカディア」に出てくる"ペルシャ"ね。

まず、江戸時代の日本にペルシャ猫がいたのか?

そして、飢饉なのにあんなにデカイ猫の存在が許されるのか?

みゆきさんファンにあるまじき突っ込みですが、気になって突き詰めていくと、他のことにも繋がっていったんです。

Wikipediaによるとペルシャ猫は、16世紀後半にイタリアに渡来とありますから、江戸時代の日本にいないとは断言できませんね。

そして、自分でも「デカイから」と言い、飼い主の人見(みゆきさん)からも「またデカク、、、」と言われていた"すあま"ちゃん。

みゆきさんに抱かれる姿は、本当にデカイ。

飢饉なら、真っ先に食われてしまいそうなのにと疑問に思っていたんです。

でも、よくパンフレットを見ると、村長と九曜の父、祖父を演じている役者さんは、同じ宮川崇氏。

ということは、もしかして前世では、村長と公羊(石田匠)は親子で、人柱にされる人見(みゆきさん)は、村長の息子の嫁なんじゃないかな?

だから、飢饉の時にも猫を飼っていられたのだろうか?

と、妄想は広がるんですね。

個を犠牲にして、集団を守る決断をした村長が、時代が変われば、捨てられる個になってしまう?そういう、流れなんじゃないかなと、さらに妄想は暴走するんです。

前に、ラストについて、ネタバレを書いた時は、ここまでスムーズに妄想も繋がってなかったんです。

どうしても、デカイすあまちゃんに突っ込んでしまうので、よく考えたら繋がったっていう感じです。

他の方のネタバレブログを拝見すると、やはり村長と九曜の父、祖父が同じ役者さんということに意味を見いだす方が何人かおられました。

前世で個を犠牲にした自分が、捨てられる個になった時、その理不尽に気づき、脱走兵となっても捨てられる個を救うために、零戦を隠したのではないかという、結論に至る方もいらっしゃって、あながち私の妄想も見当違いではないかな?と思う今日この頃です。

最後に、「もっぷでやんす」(絵と文 中島みゆき 2002)の続編?について、書こうかと思ったんですが、上手くまとまりません。(・・;)

何となくは、あるんですけどね。(^^;

「もっぷでやんす」、みゆきさんの絵も堪能できる珍しい本です。

基本は線画です。

上を見上げる猫が哀愁漂っていて、何とも言えない味があります。

興味のある方は、ネットか古本屋でお探し下さい。

新年早々、長々とスミマセンm(__)m。

お疲れ様でした。

お読み頂いた方、本当にありがとうございます。(^^)

では、また(^-^)
コメント (4)
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