いよいよ、ディープな夜の匂いが漂って参りました。
(完全妄想モードです(^^;)
というより、「夜会」の匂いが色濃くなってきたという感じでしょうか?
そのため、「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」のネタバレも出てきます。
その絡みで、一気に2曲妄想してしまいました。
長くなってます、スミマセンm(__)m。
まず、アルバム「問題集」の続きです。
ネオンサインが煌めく
「問題集」
から一転、誰もいない深夜、一人静かに涙が頬を伝うような
「身体の中を流れる涙」。
最初にこのアルバムを聴いた時に、
「問題集」から
「身体の中を流れる涙」
の流れで、イメージとして浮かんだのが、
「夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN」(1991)の
「わかれうた」、「ひとり上手」から
「さよならの鐘」になるシーン。
カラオケでハシャいでるように歌われる2曲から、徐々に表情が真顔に変わっていき、何とも言えない悲しく切ない歌声の
「さよならの鐘」に変わるシーンです。
「夜会工場」では、
「キツネ狩の歌」から
「さよならの鐘」で、再現されていました。
どちらも、ハシャいだ後の笑顔から徐々に真顔に変わるみゆきさんがお見事で、物凄く印象的だし、好きなシーンです。
夜の喧騒から、一人の部屋の静寂さ。
明から暗、躁から静。
この切り替わりの鮮やかさが、一層この曲の寂しさを深く感じさせ、胸に迫ってくる気がします。
みゆきさんの声も、硬目の歌声を震わせて、
「問題集」の酔って揺れるイメージから、凍えて震えるイメージに変わって聴こえます。
さらに、ハッキリ発せられる言葉が、拒絶感を出しているような気がします。
『♪なぐさめ言葉 知恵言葉 私のためなら要りません』
切なさを通り越し、寂しさに震え、心の寒さに凍るイメージの曲だと思います。
間奏の弦(マンドリンかと思いましたが、たぶんBouzouki )の震えが、啜り泣きのように胸に響いてきます。
(YouTubeで確認した感じで、伴奏がPortuguese guitar で、間奏がBouzouki だと思ったんですが、音楽的知識が皆無な私なんで、間違っていたらスミマセンm(__)m)
和ちゃん(杉本和世)のAdditional Vocal って言うんですか?
(♪何を泣いていたか忘れても~
引き継がれてゆく)
の歌声が、感情的にならずに、余韻だけを残して締めてくれている気がします。
先に、
「問題集」から
「身体の中を流れる涙」
の流れで
「夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN」の1シーンが、浮かんだと書きましたが、
アルバムで考えたら、「中島みゆき」(1988)の
「仮面」から
「クレンジング クリーム」が浮かんできました。
それで、思ったのが、瀬尾師匠と組んでから、せつない曲は多くても
「身体の中を流れる涙」のような凍えるような悲しさの曲が、アルバムに入ることが、あまりなかったような気がすることです。
やっと思いついたのが
「掌」(「DRAMA !」2009)。
ただし、歌詞の内容も違うし、これはあくまで、私のイメージです。
アルバムに入ってない曲なら、
「夜会VOL.7 2/2」(1995)の
「拾われた猫のように」
が、浮かんできましたが。
何とも言えない寂しさ、物悲しさからイメージした曲なんですが、偶然猫つながりになってしまいました。
ここから、完全にネタバレです。
ネタバレ禁止な方は、ここまでで、ありがとうございました。(^^)
ネタバレです。
「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」で、この曲は第2幕第1場の幕開き、「問題集」のコーラスの後に、あたるちゃんのソロで歌われます。
みゆきさんがピアノで歌ってるデモテープを聴いて、泣いたと「よのなかばかなのよ」で言ってた曲を、あたるちゃんは、寂しく切々と歌い上げます。
最初にこの場面を観た時は、九曜への思いかな?と単純に思って、それにしては重いなあ?とシックリこない気分で観てました。
それが、観終わって、もう一度自分の中で反芻して、あの場面の
「身体の中を流れる涙」は、
第1幕第2場の"すあま"の絶唱
「人間になりたい」
を受けて、天音の中に眠る"すあま"の悲しみを歌い上げたものなんじゃないかと思い至ったのです。
これが、正解かどうかは知りませんが、私には一番落ち着く解釈なんで、そのまま続けます。
そう思ってから観ると、あたるちゃんの寂しく悲しい歌声が、胸にじんじん響いてきました。
『♪私の聞きたいひとことは あの人だけしか使えない
命よりなお長く 誓いは生きる』
「ペルシャ」の
『♪愛しい人が私を呼ぶわ~』
と相俟って、"すあま"がいじらしくて、幕間で乾いたはずの瞳が、潤んでくるんですよ。(・・、)
舞台では、
「身体の中を流れる涙」の後、
みゆきさんの歌う
「どうしてそんなに愛がほしいの」、
あたるちゃんの
「雨天順延」とつながり、
みゆきさんとあたるちゃんの掛け合いの
「ペルシャ」となります。
(ここも、念のため「中島みゆき研究所」さんで確認しました。ありがとうございます)
歌い出しの人間パートが、みゆきさん。
猫パートが、あたるちゃん。
先に書いたように、あたるちゃんの
『♪なんだ、夢なのか』
に、いじらしさを感じました。
アルバムの「ペルシャ」ラストの
『♪なんだ、夢なのか』
のみゆきさんの声については、第一印象を記した時にも書きましたが、あのガッカリした声が胸を締め付けられて、愛しさが込み上げてくるんです。
この曲を聴くと、どうしても2年前に亡くなった愛猫を思い出して、
『♪『迎いに来たよ、さあ行こうね』と』
と、言えたらいいのにと思ってしまうんですね。
FIPのキャリアで、10年以上生きてくれて、「ペルシャ」とは違い甘えん坊な猫でした。
みゆきさんの
『♪なんだ、夢なのか』
のガッカリしてるのに、甘えたような声が、イメージぴったりなんです。
だから、ハマるんです。
話が逸れて、スミマセンm(__)m。
実は、"ペルシャ"については、結構突っ込みどころ満載かなって気がしてたんです。
楽曲の「ペルシャ」じゃなくて、「アルカディア」に出てくる"ペルシャ"ね。
まず、江戸時代の日本にペルシャ猫がいたのか?
そして、飢饉なのにあんなにデカイ猫の存在が許されるのか?
みゆきさんファンにあるまじき突っ込みですが、気になって突き詰めていくと、他のことにも繋がっていったんです。
Wikipediaによるとペルシャ猫は、16世紀後半にイタリアに渡来とありますから、江戸時代の日本にいないとは断言できませんね。
そして、自分でも「デカイから」と言い、飼い主の人見(みゆきさん)からも「またデカク、、、」と言われていた"すあま"ちゃん。
みゆきさんに抱かれる姿は、本当にデカイ。
飢饉なら、真っ先に食われてしまいそうなのにと疑問に思っていたんです。
でも、よくパンフレットを見ると、村長と九曜の父、祖父を演じている役者さんは、同じ宮川崇氏。
ということは、もしかして前世では、村長と公羊(石田匠)は親子で、人柱にされる人見(みゆきさん)は、村長の息子の嫁なんじゃないかな?
だから、飢饉の時にも猫を飼っていられたのだろうか?
と、妄想は広がるんですね。
個を犠牲にして、集団を守る決断をした村長が、時代が変われば、捨てられる個になってしまう?そういう、流れなんじゃないかなと、さらに妄想は暴走するんです。
前に、ラストについて、ネタバレを書いた時は、ここまでスムーズに妄想も繋がってなかったんです。
どうしても、デカイすあまちゃんに突っ込んでしまうので、よく考えたら繋がったっていう感じです。
他の方のネタバレブログを拝見すると、やはり村長と九曜の父、祖父が同じ役者さんということに意味を見いだす方が何人かおられました。
前世で個を犠牲にした自分が、捨てられる個になった時、その理不尽に気づき、脱走兵となっても捨てられる個を救うために、零戦を隠したのではないかという、結論に至る方もいらっしゃって、あながち私の妄想も見当違いではないかな?と思う今日この頃です。
最後に、「もっぷでやんす」(絵と文 中島みゆき 2002)の続編?について、書こうかと思ったんですが、上手くまとまりません。(・・;)
何となくは、あるんですけどね。(^^;
「もっぷでやんす」、みゆきさんの絵も堪能できる珍しい本です。
基本は線画です。
上を見上げる猫が哀愁漂っていて、何とも言えない味があります。
興味のある方は、ネットか古本屋でお探し下さい。
新年早々、長々とスミマセンm(__)m。
お疲れ様でした。
お読み頂いた方、本当にありがとうございます。(^^)
では、また(^-^)
(完全妄想モードです(^^;)
というより、「夜会」の匂いが色濃くなってきたという感じでしょうか?
そのため、「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」のネタバレも出てきます。
その絡みで、一気に2曲妄想してしまいました。
長くなってます、スミマセンm(__)m。
まず、アルバム「問題集」の続きです。
ネオンサインが煌めく
「問題集」
から一転、誰もいない深夜、一人静かに涙が頬を伝うような
「身体の中を流れる涙」。
最初にこのアルバムを聴いた時に、
「問題集」から
「身体の中を流れる涙」
の流れで、イメージとして浮かんだのが、
「夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN」(1991)の
「わかれうた」、「ひとり上手」から
「さよならの鐘」になるシーン。
カラオケでハシャいでるように歌われる2曲から、徐々に表情が真顔に変わっていき、何とも言えない悲しく切ない歌声の
「さよならの鐘」に変わるシーンです。
「夜会工場」では、
「キツネ狩の歌」から
「さよならの鐘」で、再現されていました。
どちらも、ハシャいだ後の笑顔から徐々に真顔に変わるみゆきさんがお見事で、物凄く印象的だし、好きなシーンです。
夜の喧騒から、一人の部屋の静寂さ。
明から暗、躁から静。
この切り替わりの鮮やかさが、一層この曲の寂しさを深く感じさせ、胸に迫ってくる気がします。
みゆきさんの声も、硬目の歌声を震わせて、
「問題集」の酔って揺れるイメージから、凍えて震えるイメージに変わって聴こえます。
さらに、ハッキリ発せられる言葉が、拒絶感を出しているような気がします。
『♪なぐさめ言葉 知恵言葉 私のためなら要りません』
切なさを通り越し、寂しさに震え、心の寒さに凍るイメージの曲だと思います。
間奏の弦(マンドリンかと思いましたが、たぶんBouzouki )の震えが、啜り泣きのように胸に響いてきます。
(YouTubeで確認した感じで、伴奏がPortuguese guitar で、間奏がBouzouki だと思ったんですが、音楽的知識が皆無な私なんで、間違っていたらスミマセンm(__)m)
和ちゃん(杉本和世)のAdditional Vocal って言うんですか?
(♪何を泣いていたか忘れても~
引き継がれてゆく)
の歌声が、感情的にならずに、余韻だけを残して締めてくれている気がします。
先に、
「問題集」から
「身体の中を流れる涙」
の流れで
「夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN」の1シーンが、浮かんだと書きましたが、
アルバムで考えたら、「中島みゆき」(1988)の
「仮面」から
「クレンジング クリーム」が浮かんできました。
それで、思ったのが、瀬尾師匠と組んでから、せつない曲は多くても
「身体の中を流れる涙」のような凍えるような悲しさの曲が、アルバムに入ることが、あまりなかったような気がすることです。
やっと思いついたのが
「掌」(「DRAMA !」2009)。
ただし、歌詞の内容も違うし、これはあくまで、私のイメージです。
アルバムに入ってない曲なら、
「夜会VOL.7 2/2」(1995)の
「拾われた猫のように」
が、浮かんできましたが。
何とも言えない寂しさ、物悲しさからイメージした曲なんですが、偶然猫つながりになってしまいました。
ここから、完全にネタバレです。
ネタバレ禁止な方は、ここまでで、ありがとうございました。(^^)
ネタバレです。
「夜会VOL.18 橋の下のアルカディア」で、この曲は第2幕第1場の幕開き、「問題集」のコーラスの後に、あたるちゃんのソロで歌われます。
みゆきさんがピアノで歌ってるデモテープを聴いて、泣いたと「よのなかばかなのよ」で言ってた曲を、あたるちゃんは、寂しく切々と歌い上げます。
最初にこの場面を観た時は、九曜への思いかな?と単純に思って、それにしては重いなあ?とシックリこない気分で観てました。
それが、観終わって、もう一度自分の中で反芻して、あの場面の
「身体の中を流れる涙」は、
第1幕第2場の"すあま"の絶唱
「人間になりたい」
を受けて、天音の中に眠る"すあま"の悲しみを歌い上げたものなんじゃないかと思い至ったのです。
これが、正解かどうかは知りませんが、私には一番落ち着く解釈なんで、そのまま続けます。
そう思ってから観ると、あたるちゃんの寂しく悲しい歌声が、胸にじんじん響いてきました。
『♪私の聞きたいひとことは あの人だけしか使えない
命よりなお長く 誓いは生きる』
「ペルシャ」の
『♪愛しい人が私を呼ぶわ~』
と相俟って、"すあま"がいじらしくて、幕間で乾いたはずの瞳が、潤んでくるんですよ。(・・、)
舞台では、
「身体の中を流れる涙」の後、
みゆきさんの歌う
「どうしてそんなに愛がほしいの」、
あたるちゃんの
「雨天順延」とつながり、
みゆきさんとあたるちゃんの掛け合いの
「ペルシャ」となります。
(ここも、念のため「中島みゆき研究所」さんで確認しました。ありがとうございます)
歌い出しの人間パートが、みゆきさん。
猫パートが、あたるちゃん。
先に書いたように、あたるちゃんの
『♪なんだ、夢なのか』
に、いじらしさを感じました。
アルバムの「ペルシャ」ラストの
『♪なんだ、夢なのか』
のみゆきさんの声については、第一印象を記した時にも書きましたが、あのガッカリした声が胸を締め付けられて、愛しさが込み上げてくるんです。
この曲を聴くと、どうしても2年前に亡くなった愛猫を思い出して、
『♪『迎いに来たよ、さあ行こうね』と』
と、言えたらいいのにと思ってしまうんですね。
FIPのキャリアで、10年以上生きてくれて、「ペルシャ」とは違い甘えん坊な猫でした。
みゆきさんの
『♪なんだ、夢なのか』
のガッカリしてるのに、甘えたような声が、イメージぴったりなんです。
だから、ハマるんです。
話が逸れて、スミマセンm(__)m。
実は、"ペルシャ"については、結構突っ込みどころ満載かなって気がしてたんです。
楽曲の「ペルシャ」じゃなくて、「アルカディア」に出てくる"ペルシャ"ね。
まず、江戸時代の日本にペルシャ猫がいたのか?
そして、飢饉なのにあんなにデカイ猫の存在が許されるのか?
みゆきさんファンにあるまじき突っ込みですが、気になって突き詰めていくと、他のことにも繋がっていったんです。
Wikipediaによるとペルシャ猫は、16世紀後半にイタリアに渡来とありますから、江戸時代の日本にいないとは断言できませんね。
そして、自分でも「デカイから」と言い、飼い主の人見(みゆきさん)からも「またデカク、、、」と言われていた"すあま"ちゃん。
みゆきさんに抱かれる姿は、本当にデカイ。
飢饉なら、真っ先に食われてしまいそうなのにと疑問に思っていたんです。
でも、よくパンフレットを見ると、村長と九曜の父、祖父を演じている役者さんは、同じ宮川崇氏。
ということは、もしかして前世では、村長と公羊(石田匠)は親子で、人柱にされる人見(みゆきさん)は、村長の息子の嫁なんじゃないかな?
だから、飢饉の時にも猫を飼っていられたのだろうか?
と、妄想は広がるんですね。
個を犠牲にして、集団を守る決断をした村長が、時代が変われば、捨てられる個になってしまう?そういう、流れなんじゃないかなと、さらに妄想は暴走するんです。
前に、ラストについて、ネタバレを書いた時は、ここまでスムーズに妄想も繋がってなかったんです。
どうしても、デカイすあまちゃんに突っ込んでしまうので、よく考えたら繋がったっていう感じです。
他の方のネタバレブログを拝見すると、やはり村長と九曜の父、祖父が同じ役者さんということに意味を見いだす方が何人かおられました。
前世で個を犠牲にした自分が、捨てられる個になった時、その理不尽に気づき、脱走兵となっても捨てられる個を救うために、零戦を隠したのではないかという、結論に至る方もいらっしゃって、あながち私の妄想も見当違いではないかな?と思う今日この頃です。
最後に、「もっぷでやんす」(絵と文 中島みゆき 2002)の続編?について、書こうかと思ったんですが、上手くまとまりません。(・・;)
何となくは、あるんですけどね。(^^;
「もっぷでやんす」、みゆきさんの絵も堪能できる珍しい本です。
基本は線画です。
上を見上げる猫が哀愁漂っていて、何とも言えない味があります。
興味のある方は、ネットか古本屋でお探し下さい。
新年早々、長々とスミマセンm(__)m。
お疲れ様でした。
お読み頂いた方、本当にありがとうございます。(^^)
では、また(^-^)