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パリ よもやま話 番外編 特別号

パリ在住十年+の日本人女性が、パリ生活で起こるよもやま話を綴る徒然日記と帰国後のお話

父が残してくれたもの

2018年01月27日 | 私の父 

父が亡くなって淋しいな、と ふと父の生前の手帳を広げると、

闘病で入院中に父が書き遺していたこんな絵言葉を見つけました。

 

 

父はもともとメモ魔で、どんな些細なことも自分の手帳に記録する人でした。

闘病中、私達家族には一度も弱音を吐かなかった父でしたが、手帳には 「苦しい」 という父の本音の言葉が

日に日に増えていくように書かれてありました。

 

そんな中書いたであろうお地蔵様の絵と言葉は、父がどんな気持ちで書いていたのかなぁ と 見るたびに目頭が熱くなりました。

 

父が残してくれたものは、絵言葉だけでなく、 色んなお野菜もありました。

立派な玉ねぎの苗は、父が種から育ててくれたもの。  父の亡きあと 夫と子供達とで畑に植えました。

 

   

落花生

  

さつまいも

 

 

大豆と黒豆  収穫後にしばらく干してから脱粒します。

  

まだまだ色んな野菜が畑に育ってくれています。 

 

 

 

   

 

 

 


鐘の音

2018年01月27日 | 私の父 

先日大阪市内のビジネス街を歩いていると、私のいる場所からほんの数メートル先かと思われる場所から

お寺の鐘のつく音がゴーン ゴーン と大きく響き渡りました。

 

こんなビルばかり立ち並ぶ場所にお寺がある様子でもなく、私の空耳ではないかと思ってその日は立ち去りました。

数日後にまた同じ場所を歩いていると、私が通るのを待ちかねたかのように、また鐘の音が二回大きく響き渡りました。

周辺の地図を見てもやはりお寺は見当たらず、キツネにつままれたような、奇妙な気分でした。

 

そして私は その鐘の音を聞いたことで 去年の暮に父が亡くなった日の一連の出来事を思い出しました。

 

父が亡くなった日は、 今思い起こすと不思議な事がいくつかありました。

 

父が亡くなる日の朝、入院中の父から「シャツを持ってきてほしい」というメールを受けた私は

いつものように父の病院に車を走らせました。

 

父が闘病を始めてから二年間、何度となく通った病院の駐車場に、いつものように車を止めようと徐行運転し始めた

私の車に向って、すっかりやせ細った野良猫らしい子猫が近づいてきました。

今までこの駐車場て゛一度も猫の姿を見たことがなかったので とても不思議に思いました。 その痩せた姿があまりに闘病中の父の姿と

重なって見えた私は、父にシャツを届けると、さっきの子猫にエサをあげようと父の病室から出ようとしました。

その時、父の表情が突然険しくなり、「なんで子猫がいるなんて 看護婦さんが余計な事を言ったんだ」と怒り出しました。

父は勘違いをして、私が見つけた子猫ではなく、看護婦さんが「子猫がいるよ」と教えてくれたものと思っていたようでした。

父を見舞いに来た私が、子猫の方が気になって病室を出て行くのが この日の父にとってはとてつもなく淋しい気持ちにさせたようでした。

私は「すぐ戻るから」 と病室を出ましたが、それが父と交わした最後の会話となりました。 

私は近くのスーパーでキャットフードを買い、駐車場にまだいた子猫に与えたのですが、やせ細っているのにほとんど食べてくれませんでした。 食べ物をほとんど口にできない父の姿と重なりました。

病室に戻ると、父はモルヒネを飲んだ直後で眠っていました。

私が子猫を見にいっている間父に付き添っていた母は、帰りの車の中で こんな話をしました。

 

「あなたが子猫を見に出て行ってから、お父さんがモルヒネを飲んで眠っていたのに、突然目覚めて 「今 お寺の鐘の音がした」って言ったんよ。 私が「こんな所にお寺なんかないから、夢でもみたんでしょ」って言ったら「そうやな、そんなはずないな」 って言ってまたスヤスヤ眠りだしたんよ」

これが 父と母が夫婦水入らずで交わした最後の会話となりました。

夕方、父の苦しみが増し、モルヒネでは効果がないので 鎮静剤を打つ許可を家族全員の方から欲しい、と病院側から我が家に電話があった時、私は家に不在だったため、母と兄が独断で許可を出しました。 しばらくしてからその電話の事を知った私は、

「鎮静剤を打つのを待ってください!」 と本能的に これが父に致命的な治療になる気がして、医師がまだ鎮静剤を打っていないことを

信じて、父の元にかけつけようとしていた時、私の携帯に病院から電話が入りました。 

父の息が止まりかけているので すぐ来てほしい、 とのことでした。 

 

父がまだ生きてくれていることを祈って病院に急ぐと、もう父が亡くなった後でした。 

鎮静剤を打った瞬間から息が突然止まったということでした。 

 

私はその後も子猫の事が気になって、残っていたエサをあげに何度か病院の駐車場に足を運びましたが、あの日以来一度も子猫の姿はなく、

あの子猫は 私が見た幻だったのだろうか、、、と 。

子猫を見に病室を出て行こうとする私に向けた父の淋しそうな深い眼差しは、今思えば 父が私と過ごせる最後の日である事を知っていたからではないかと思えてなりません。

 

そして私が子猫を見に病室を出たことは、結局 父と母 二人きりで過ごす最後の時間を与えられたようなものでした。

父が聞いたという鐘の音、 母はこの言葉を聞いたとき、父がもう最期であることを教えてくれている気がしたといいました。

 

父の死から経験した神秘的な世界は、その後の私の人生観に強く影響し始めています。

 

 

 

 

 


お父さん ありがとう

2017年11月04日 | 私の父 

去年から闘病していた父が 、秋空の素晴らしい晴天の下で息を引き取りました。

 

最後まで決して希望を失わず、余命数日と言われてもなお、握力が衰えないようにと病院のベッドで筋トレをしていた父でした。

モルヒネでさえ効かない苦しみの中、 一度も弱音を吐かず退院するその日を信じて疑っていませんでした。

父はなぜこんなに勇敢だったのでしょうか。

それは 父にはやり残した夢があったからです。

その夢とは、 野菜作りに専念する  というものでした。 

 

勤続50年間近だった父は 退職後は 野菜作り一筋でがんばりたい、 という長年の強い希望がありました。

 

ところが 去年突然の病が父を襲い、それが理由で会社を辞めることとなった時には もう身体が前のように自由に使えないようになっていました。

日に日に体力が落ちて行く中、 父は最後の力を振り絞るように 畑を耕し、季節の野菜の種をまき続けました。

それらの野菜がたわわに実る頃、 もう父には収穫できるだけの余力は残っていませんでした。

 

父を送る日、娘と一緒に 父が植えてくれていたさつまいもを掘りにいきました。

 

丸々とよく太った立派なさつまいもが出てきて

  

 

棺の中に入れてもらおう、 と娘はさつまいもを綺麗に洗ってくれました。

 

 

親族皆で、 父が育ててくれていた野菜や豆を棺に納めていきました。

 

 出棺の時も 燦々と降り注ぐ太陽の光に包まれ

 

式場に着くと、 父の育ててくれた大豆、黒豆、アズキ などが 故人の想いでの品として 美しくディスプレイされていました。

   

父を慕ってくれていた大勢の人達が 今晩集まって下さり

驚いたのは、村の子供たちや 私も知らない子供さんが 沢山お焼香しにやってきてくれたことでした。

話を聞くと、 会社勤めをしていた時の父と子供たちは 毎朝 毎夕、 父と一緒のバスで通学していて、すっかりお友達になったとのことでした。

父の訃報を聞いた時  どの子供たちもその親子さんに、 「おじちゃんに会いに行きたい」 と自らの意思で来てくれたとのことでした。

皆まだ低学年で幼い子供たちが そんなことを口ぐちに言っていたと聞いて、 私の知らない所での父の人柄が忍ばれた瞬間でした。

 

 

人が好きで、にぎやかなのが大好きだった父は、 本当に幸せな最後の日を迎えることが出来たのだと思います。

 

私は 父が果たせなかった夢を引き継いで、 これから 野菜作りをがんばっていこう と思っています。

お父さん、 どうぞ楽しみにしていてください! 

 


圧力鍋で炊いた 父の黒豆

2013年12月15日 | 私の父 

生まれて初めて、 圧力鍋で 父の黒豆を炊いてみました。

 

寝起き黒豆をつまむ息子

   

うっかりして 我が家の守り主 鉄ダルマちゃんを入れ忘れたのですが

 

   

それでも 父の黒豆は つやつやと 黒く照り輝いてくれていましたよ!!

この豆は去年のもの。 もうすぐ父から 今年の黒豆が届く予定です!! 

 


父のゆずと長いもで 年越しソバ

2012年12月31日 | 私の父 

年末に 黒豆とともに 父の作っているユズと長いもが届きました。

 

年越しそばの薬味として、 元旦にはお雑煮に浮かして ユズの香りを堪能しました。

    

ソバは子供達にも人気でした。

   

 

しかし、大半は床に錯乱状態に散らばり、服や足裏にへばりつき 掃除がかなり大変でした。

同じ年頃のお子さんをお持ちの方なら 皆こんな年越しを過ごされているのかなあ と考えていました。

  

 


私の母から 世の男性へのメッセージ

2012年09月08日 | 私の父 

昨日 母が電話で突然こんなことを言いました。

 

『子育てに協力してくれへんかった旦那のことは、後々一生恨みに思うでー』

 

と。

 

私の父が若い時、 まさにこのタイプの男性でした。 育児には完全ノータッチ。そのため母が一人で私と兄の育児をしました。

 

赤ちゃんだった私が病気で激しく夜泣きしていたら

 

『うるさくて寝れへん!! おまえは母親やろ。 はよ泣きやませろ!!!』

 

と いらつきながら 何日も世話で寝ていない母に言ったという若き日の父。そして 自分はまた布団に戻って寝たそう。

 

母は そんな風に言われて追いつめられ、夜中に泣き続ける赤ちゃんの私を抱いて外に飛び出し

 

『この子を殺して、私も。、、、』

と思ったといいます。

 

それでも、ふと冷静になって考えなおしたら、 自分にはもう一人子供がいて 世話を必要としている、、  こんなバカな考えはやめよう、と。

 

 

結婚40年以上が過ぎた今、 母の口から どうして突然こんな言葉が出て来たのでしょう。 

 

心の中のタンスに押し隠された感情 というのは、きっと何年経っても鮮明に生きていて、 何かをきっかけに ふと引き出しが空いて 顔を覗かせるのでしょう。

 

60才を過ぎて、随分夫婦円満になってくれた私の両親ですが、 やはり 母の心の奥には 今でも、子育て期間に旦那が非協力であったことが、一生癒されない心の傷として、また 一生許す事のできない感情として、生々しく生きている、 ということを 今回 手に取るように感じました。

 

 

これからパパさんになる男性には、ぜひこの母の言葉を心に刻み込んでもらいたい と思いました。

 

 

この世界は イクメン 大歓迎 です   

 

 

 


今年も父の黒豆

2011年12月31日 | 私の父 

今年も残り一日となりました。

父の黒豆を今年も炊きました。

鉄分たっぷり  りりしい鉄ダルマさん

 

黒豆を炊くのにたのもしいお方

 

 

 

 

そして 黒砂糖に 醤油半カップ 

 

 炭酸を加えて

 

 

ふっくら 父の黒豆が完成しました。

 

 

味見の段階ですが、息子は毎食 ほおばって黒豆を頂いております。  日本の素晴らしい食材です。

 

 


私は何歳か。 父にとって

2010年05月03日 | 私の父 

私が糖尿予備軍として、自己採血を始めたことを母から聞いた父から、最近電話があった。


「アッローっ!!  miehfチャン!!  自分で血を採ってるんやってな。 なんも心配いらん。miehfチャンみたいなええこ (良い子が) 絶対そんなことにはならへんっ!! 心配いらんでーっ」


とだけ言うと 母に電話を代わった。 


今年 私が34才になろうとしていることを 父は知っているのだろうか。


父の反対運動

2010年04月16日 | 私の父 
私の実家の村の北側に「ごみ焼却場」が立てられる という話があがり、
その反対運動の長に父が選ばれた。



私の村はパン屋一つあるかないかの田んぼばかりの土地ではあるが、川を越えると、そこには「霊場」があり、いわゆる 「死体焼却場」があった。


焼却場から煙が上がるのを目にする度、私は子供時分から

「ああ、今日もまた誰かが亡くなったんだなぁ」

と神妙な気分になったものだった。




さて、ゴミ焼却場建設の反対運動の長として、父は 県の議員さんを前に「演説」をすることになった。


名指しされ、すくっと 立ち上がった父はこう言った。


「ただいまご紹介にあずかりました、OOと申します。

 私どもの住むoo村は、 西に死体焼却場、 南に屎尿処理場、そして今後は 北に「ゴミ焼却場」 が立つ予定でございます。


私は ゴミ焼却場建設に反対はいたしておりません。 ただ、私どもの村に建設されることは反対です。」



すると、それを聞いていた議員さんが おもわず

「ブフォっ」

と噴出したのが聞こえたそうだ。




父の演説は どこまで効果があったのだろう。











父は本当に 地獄耳 か

2010年03月06日 | 私の父 
高校生の頃、よく母と夜な夜な話しをすることがあった。 父に聞かれてはまずいこともあり、 そんな時

「気をつけて。 お父さんったら 案外あれで 地獄耳 なんよ」

と 母は言ったものだった。

他の部屋でイビキをかいて寝ている父だが、 それでも「聞き耳」を立てていることがある、という。



昨日 母と 「奈良の春日大社」から頂いた 子供の名前リストについて電話で話あっていた。


韓国でも日本でも ヨーロッパにも合うように、といった気遣いを感じさせる名前を考えてくださった とのことで 例えば

「景都」と書いて  「ケイト」 と読んだりするそうだ。(ちょっとイギリス人っぽい?)


母と 頂いた名前の読み方について話ししていると、突然遠くから


「そうそう!! 」

などと 「相槌」 が聞こえてくる。

母と私の電話に聞き耳を立てていたからのものだ。



他には「資朗」で 「シロウ」。 こちらは完全に日本人っぽい。



その時だった。 また 遠くから こんな父の声が聞こえてきた。


やすたろう  にしてやーーっ!! 」


春日大社の名前リストには全く入ってない 「やすたろう」 

父は相変わらず自分の名前の一文字である「やす」を入れてもらいたがっているのだった。 
  
参照

たまちゃん 




名前リストから決めかねていると、母は

漢和辞典 もってる? 」

と私に聞いた。


「うん、もってるよ」


その時だった。



まだ聞き耳を立てていた と思われる父の声が聞こえてきた。



「  北朝鮮 に行くのか~~~!! 」




父は 本当に「地獄耳」 なのだろうか。



  















父、ついに韓国語しゃべる

2009年02月13日 | 私の父 
「父、ついに韓国語しゃべる」

夜九時就寝、 朝四時起床の父とは、夕食前のほんのわずかな晩酌の時間のみが未旦(未来の旦那)と父との団欒の時だった。


私と母は大抵その時、隣の台所で夕食の準備をしていた。


父はビールを未旦に勧めながら色々な話をするのだった。



話といっても 父は韓国語はもちろん 英語は イエースノーノーセンキュー  以外はしゃべらない。 


未旦に 「完全な日本語なのに、イントネーションが英語風」にしゃべってみせる。


後は未旦がモゴモゴ返事に困っているのを 勝手に父が解釈して話はどんどん進んでいく有様だった。



隣でこの会話を聞きながら 何度も母と苦笑いしたものだ。

父は毎晩上機嫌で この未旦との一杯を楽しんでいた。



ある時、戸棚に並べられた色々なマスコットの話になった。

「これはロシアの人形ですわ、 これはどこどこの、、、」 

父は一つ一つ 戸棚から出して未旦に説明してみせた。


丁度その中でカエルの置物があり、カエルは韓国語で「ケグリ」と言った。



未旦は カエルを指さし 「コレ  ケグリ、ケグリ」 と言った。


すると 父はとっさにこう答えた。


「そうそうっ!! それっ, ケロリ ケロリっ!! ケロンパッ!!!!」


ビールをグイッと飲み干して

「ついにおれも韓国語を話すようになったんだな」 

そう父は感じているようだった。



父のこの勘違いを私は傍で見ていて、

言わぬが仏 かな」  



そう思ってだまっておくことにした。











ブログでオレオレ詐欺!!?

2008年12月28日 | 私の父 
「ブログでオレオレ詐欺!!?」


徹夜で炊いた黒豆を、今日は慣れない仮免運転で配り回った。


明日はフランス各地の知り合いに郵送で地方発送をする。


まさに父の黒豆は「豆でっぽう」のごとくに飛び回っている。


今晩 早速父にお礼の電話をした。


「お父さんの送ってくれた黒豆、上手に炊けたよ。皆に配って喜んでもらっているよ。」


「そうかそうか、 で ブログ、またやってるんか?」 


「うん、黒豆のことも丁度 ブログ に載せたよ」


「そうか、 そしたら オレオレ詐欺 には気をつけや」 


父はそう言うと、母にさっと受話器を渡した。



ブログで オレオレ詐欺 とは?



黒豆 完成いたしました

2008年12月28日 | 私の父 
「黒豆 完成いたしました」

皆さん お早うございます。 

徹夜した甲斐あって、黒豆がまん丸にふっくら炊き上がりました。


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黒豆の表面にしわを寄らせないためには、常に煮汁がひたひたの状態であることだそうです。



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今回大活躍してくれた鉄ダルマ君も、出来上がった鍋から出てきた頃には黒豆以上に照り輝いていました。

彼のお陰で良い黒色が出ただけでなく、煮汁には鉄分がたくさん含まれていて、一二鳥 です。


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徹夜した後は、パリ中を車で廻っての配達です。(ちょっと怖い!!? )

それでは皆さん、良い 黒豆煮を!!!      miehf

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今晩は徹夜で

2008年12月27日 | 私の父 
「今晩は徹夜で」

さて、黒豆と鉄ダルマを煮汁に漬け込み、今晩は徹夜で黒豆を煮るんです。

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日本ではこの時期、母が黒豆以外にも色々なお節料理を徹夜で作ってくれたものです。 

黒豆は吹きこぼれやすいので うかうかしていられません。


とろ火でじっくりじっくり煮て ふっくらつやつやの黒豆に仕上げるには、根気と愛情が不可欠です。

出来上がったらもちろん独り占めせず、父の意思をついで(!!? )

パリの知人に配り歩く 「黒豆配達人」 と化します。

あともう少しで炊き上がるよ。(あと九時間煮たら!!) 

待っててね。  miehfより


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