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パリ よもやま話 番外編 特別号

パリ在住十年+の日本人女性が、パリ生活で起こるよもやま話を綴る徒然日記と帰国後のお話

黒豆 水洗い編

2008年12月27日 | 私の父 
黒の真珠」 と書きましたが、この黒豆が本当に真珠に見える瞬間が、「水洗い」した直後です。

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水で洗われて、 キラキラ輝いた黒豆を見ていると、心まで輝いてくるようです。

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これから一日、水に漬けて膨らんでもらいます。



ダルマ君もスタンバイOK


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黒豆の炊き方

万願寺とうがらしの素揚

材料(4人分)

   
材料名 使用量
   
黒豆
700g
重曹
小さじ1
さびたくぎ
17~18本

大さじ1
砂糖 500g
しょう油

カップ1/2


1.

黒豆は、きれいに洗っておく。

2. さびたくぎは、洗ってお茶の葉を入れる袋に入れておく。
3. 鍋に水12カップを入れ火にかけ、沸騰すれば、重曹、砂糖、塩、しょう油を入れ、くぎを入れ、黒豆を入れて火を止め4~5時間つけておく。
4. 3を中火にかけ、沸騰すれば上に浮くアクをすくい、さし水カップ1/2を入れる。アクはすくい取る。4の作業をしている間は鍋から 離れない。吹きこぼれると豆が硬くなるので気をつける。)
5. アクがすくえたら、ごく弱火にして、煮汁がひたひたになる迄7~8時間煮て火を止めそのまま煮汁につけて一昼夜おく。

  ちなみに私の母は 砂糖を 黒砂糖 にするそうですよ。

父から黒豆が届いたよ!!

2008年12月26日 | 私の父 

父の黒豆

で書いた父の黒豆がパリに届きました!!


見てください、この輝きを。 私はこれを密かに「黒の真珠」と呼んでいるんです!!!


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父が無農薬で丹精込めて作って、手首を腱鞘炎にさせてまで一粒一粒をさやから出して乾燥させて、それをさらに虫食いのものとに分けた、まさに「父の命の力」が入った黒豆です。


世界で、宇宙でたった一つのもの。

私はこれからお正月に向けて、この黒豆達を水戻しして、コトコトと炊いていきます。 

黒豆と一緒にゆでるものは「 鉄のダルマ君」 です。


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ダルマ君、今年も艶出し、よろしくお願いします!!     miehf

 





天才と言われて

2008年12月25日 | 私の父 

「天才と言われて」

今日はクリスマスの日だった。 

両親はどんなクリスマスを過ごしたのかな。 国際電話をしてみた。

母が電話に出てすぐ


「出しっぱなしのお湯止めてくるから、ちょっとそのまま待っててね」

と受話器を置いた。

その隙を狙って、父がさっと電話に出た。 


「miehfちゃんのブログ、あれすごいなぁ!!

会社に持っていったら、会社の人皆 「天才だ」って言ってたよ !!!」

父は私がプリントして送った紙を会社にまで持っていったのだった。(父の涙参照)


 「天才!!? 」 本当にそんなことを会社の人達が言ったのか。

 「うん、 「天才」だって。 「山下清」だって!! 」

 

  それは 天才 放浪画家だ。


父のライブ録音

2008年12月05日 | 私の父 

「父のライブ録音」

 従兄弟の結婚式に私たち家族は出席した。

私が座った披露宴のテーブルは親族で埋まり、司会や友人のスピーチが続いた。

....さて、次は、新婦様の従兄弟様のmiehfさんが、エルガーの「愛の挨拶」を演奏されます。」

私は「何か」演奏するように頼まれていた。丁度音大を目指していた頃で、勉強のために自分が演奏するものを「録音」するようにしていた。

隣に座っていた父に「このRECを押してくれたらいいから。他は何も触らなくていいから。」と念を押した。電気製品の取り扱いに疎い父だったが「わかったよ」と言って録音機を受け取った。

披露宴の前方に立って

「この度はご結婚おめでとうございます。」

など形式を述べてから、演奏をした。


無事に終わって席に戻った。会場は暗くて人の表情がよく見えない。父は「はい、これ」と言って録音機を私に返した。


後日この録音を聞こうとした。

「この度はザザザザザッ

なんだかすごい雑音が入っている。

それでも耳を凝らして聞いていると、どうやら演奏が始まったようだった。 

グスッ、グスッ、ズズーッ」 どこかで聞き慣れたような「身近な音」が私の演奏に重なっている。

ハッ とした。 これは 父が「泣いている」音だ。

その「ザザザザザッ」と「グスッグスッ」はどんどん頻度を増し、最後には完全に私の演奏がかき消されていた。


母が「あの時、恥ずかしかったわー。まるでmiehfちゃんの結婚式みたいに、お父さん嗚咽して泣き出したのよ。周りの人達、苦笑いしてたわ」

ザザザザザっは父が嗚咽しながら「録音機」を掴んでいたからだろう。


私はこの時初めて、「頼む相手」を完全に間違えていたことに気がづいた。



父とネズミの関係

2008年12月04日 | 私の父 
「父とネズミの関係」


我が家は田舎の家で、普段聞こえる音といえば「自然が発する音」ばかりだ。

風の音、雨の音、犬が遠吼えする音。 そして天井からは「ドタバタドタバタッ」とネズミが四六時中運動会を繰り広げる音が聞こえる。

ある日この「ドタバタ」の音が「ドスンっドスンっ」と 重々しい音に変化していった。


「よっぽど我が家のおいしいものを食べて、肥えてしまったんでしょうね」

と母は言う。

正直言って、家にネズミがいるとろくな事はない。

家の食べ物をことごとく食べ荒らし、衛生に悪く、大黒柱をかじるので、いつか家が傾く危険がある。



母は色々な「ネズミ捕り」のアイテムを試して、「トリモチ」がついたものが「あっという間」にネズミを捕まえることを知った。

この異常に肥大したネズミを捕まえることが今回の母の目標だった。

母の願いはすぐに叶えられ、この「トリモチ」に丸々と肥えた巨大ネズミが引っかかった。 

「トリモチ」はネズミを引っ掛けるが、それ以上はしない。

「処分」つまりこのネズミの息の根を止めるのは、こちらがしなければいけないのだ。



父が帰宅するまで、この「巨大ネズミ」は トリモチの上でどうにか逃げようとして「チューチュー」と鳴いていた。

「心を鬼にしないとね」母は言う。家が傾いてからでは遅すぎるのだ。

帰宅して私服に着替えた父に、この「ネズミ」を処分してくるように母は頼んだ。

普段 生ごみを燃やすのが父の仕事だったので、そこでこのネズミを一緒に、という任務を母から言い渡された父は、「はいはいっ。了解いたしましたーっ!!」兵隊のように敬礼をしてから、ネズミ捕りごと畑に持っていった。



母が翌日 生ごみ処理場を覗くと「ネズミとりもち」がそのまま脇に置かれて「巨大ネズミ」は忽然と姿を消していた。 もちろん父が「逃がした」のだ。

「お父さんったら「このネズミとりもち、再利用したら?」って持ってかえってきたのよ。再利用しても結局いつも逃がしてたら、何の意味があるっていうのよ。」

母はもどかしそうにそう言った。


それからしばらくして、寝相の悪い父の布団をかけ直しに、母は部屋に入った。

「お父さんは布団かけずに寝てたのに、隣にある布団をめくったら、あの巨大ネズミがヌクヌクとして寝入ってたのよ!!びっくりしたったら。」


 大黒柱が倒れる前に天井が抜け落ちないことを願う。





父の口癖 「金もなければ」

2008年12月04日 | 私の父 
父の口癖 「金もなければ」


父はある日から 頻繁に「口癖」を繰り返し言うようになったという。

「お父さん、最近いっつも 「金もなければ 力もない」って変な語呂合わせの口癖言うのよ。」



 母は「言葉の力」を信じている。



「お父さんに「そんなこと言ってたら しまいに本当にそうなるわよっ」って言ってるの。」


父がほろ酔い加減で私に電話をして来た。

「miehfチャーン。 ボクはネ、「金もなければ。。。」」

私はとっさにこう言った。

「お父さん!!お母さんが言ってたでしょ。言葉は現実化するって。」


父は娘にまで注意を受けて、シュン となって電話を切った。



それからしばらく後、母がうれしそうに語った。


「お父さん、どうかしたのかしら、えらい変わりはったよ。口を開けばこう言うの。 「金もあれば 力 もある」って。」



それはもちろん  娘の注意  が効いたのだ。

「父の思いやり」  愛の鎖 

2008年12月04日 | 私の父 
「父の思いやり」

父と母が結婚してまもなく新居が建った。日本の伝統的な平屋で、玄関の戸は「ガラガラッ」と横に押すと誰でも入れるようになっていた。

絶対に専業主婦」でいて貰いたい父は、結婚当初から母を田舎のこの新居に収めて、自分は日中会社でせっせと働いた。

 田舎の奥さん を狙った「セールスマン」が日々我が家を訪れて母を困らせた。

その内「悪質セールスマン」が、この「カギ」のない玄関の戸を勝手に開けて入ってくるようになった。相手は「日中は旦那は会社」と知っているのだから態度もでかくて、母は身の危険を感じるようになった。

父は「日曜大工」などの細やかな手作業に生まれつき才能はないようだった。

ところが自分の新妻の「危機感」を知って、父は突然この玄関に「手製のカギ」をつけたと言う。


「お父さん、黙々と玄関の柱と扉の間にチェーンをくっ付けたの。そしたら扉が少しだけ開くから、外から人が入って来れないって。」


父は

「これで完璧だ。もう心配するな」

と言って会社に出かけた。 母は早速チェーンをかけてみた。



「そしたら、そのチェーンが長すぎ隙間が大きいから、結局外の人から簡単に取り外しできるの。お父さん、その日会社から帰ってきた時も、自分でそのチェーンを取り外して 「ただいまー」って家の中に入って来たんだから」


父は今もその「チェーン」を短くしようとはしない。「自分で出入りできる」だけの長さが、父にとっては  「完璧な長さ」 なのだから。

父の涙

2008年12月04日 | 私の父 

「父の涙」

「日本男児は泣かない、 男は泣かない」 は 私の父には全く当てはまらない。

泣き上戸」もここまでくると「あきれて」しまうというものだ。


 幼い頃から私は父が「涙する」場面を何千回となく見て育った。

夏の高校野球」を見ては、「マラソン選手が画面上でがんばって走っている姿」を見ては、「日本のなつかしい歌」をテレビで聴いては、おいおいと泣く父。 


小さい私の方が「冷めた」性格で、そんな父を「あっ。また始まった始まった。」といつも冷静に客観視していた。これではどちらが大人か分からない。


正直、なんで「こんなこと」で泣くのかと理解できなかった。


そして 今泣いていた、と思ったら

「 さっ。畑仕事いってくるわ!!ハハハハハッ」

とすっきりした顔で出て行くのだから、こっちにすると

「えぇっ?さっきのは何やったん?」とつかみ所がない。


だから私は絶対「父の泣く姿」に動じない人間である。( 泣く理由がそもそも重大ではないため)


この私のブログを読んでみたい というインターネットをしたことのない母に今回、いくつかプリントして日本に郵送した。父のことも書いてある。

miehfちゃん、今日郵送ついたよ。おもしろくて笑ったよ。」

 と電話先で母が言う。

「お父さんね、これ読んで えらい泣いたはったよ。うまいうまいって。」


 つまり、父の脳は全てが涙腺に直結している、ということなのだろうか。





父と墓そうじ

2008年12月01日 | 私の父 
「父と墓そうじ」

 父と私は時々、家の裏山に入って、先祖の墓そうじをしに行くことがあった。

 枯葉などが墓石に乗っているのを父は、手製の竹ボウキでガリガリと掃いた。

 私はやかんに入れてきた水を墓石にかけていた。 

その時「ブワーーン」とものすごい音が私を取り巻いた。父も「うわーーー」っと言ったかと思うと、パチパチ体をたたき出した。 

私と父に 「ハチ」の大群が襲ってきたのだった。

私は大慌てでハチを払ったが、ハチの数は無数にいて、たたいてもたたいても無駄であった。 父は私の体を叩き出し(ハチ を追い払うためにだよ )収集がつかないので、二人は逃げるようにして山を降りた。 

父の竹ぼうきが、丁度墓石の裏にできていた「蜂の巣」を叩いてしまったのだった。 ハチの怒りをかったのだ。

家に着くなり 私は「イタイー、イタイー!!」と母の前で泣き喚いた。顔にも腕にも足にもハチは無数に刺していったのだから、当たりまえであった。体中が赤く腫れていた。

父は私のハチを追い払う間「刺されるまま」になっていて、私よりもっと刺されていた。

それなのに、ものの五分もしない内に「さっ。畑仕事行って来るゾ」

と言って、父は元気に出て行ったのである。

まだ痛さで泣き喚いている私に笑いながらこう言った。

「ハハハハ、miehfちゃん、そんなん 大丈夫 大丈夫。刺されたとこに、ちょちょっと ションOン かけといたら一発や!!」


 私は幼子心に、父が「不死身」なのではないか、と思った瞬間であった。

父からのプレゼント

2008年11月30日 | 私の父 
「父からのプレゼント」

 父は 突然、何の前触れもなしに私に「プレゼント」することがある。

 私の誕生日などはすっかり忘れているのが常だが、全然普通の日に贈り物を渡される。

まだ化粧もしたことのなかった十代の頃、花王の「オーブ」という口紅を私に買って来た。

「百貨店のお姉さんと相談しながら色を選んだんだよ。」

と言うが、それは結構ベージュ系で十代の娘がつける色とは言い難かった。

父から口紅なんかもらったことのない母に言うと

「へえー。なんだか気持ち悪い わねぇー。」 と、散々な批評を頂いた。

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それから真珠の髪留め。これは今も愛用している。


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ある日、真っ赤な日本傘を京都で買ってきた。

「今の時代にこれはないでしょー」

と思って日本では一度も使った事はなかったが、これは後々「パリで着物フォトツアー」に大活躍することとなった。




 母から日本食などの入った小包がパリに届いた。中を開けるとなんとも奇妙な人形が「くわッ」と口を開けてこちらを威嚇している。


なんだ これは!! 悪趣味な人形だなぁ。」

と思ったが、そういえば先日母が電話で言っていた。

「お父さんが会社近くで、miehfちゃんにプレゼント買ってきたの。今度の小包に入れて送るからね。」

これがそうなのか。父は一体私を何歳だと思っているのだろう。


よく見ると「キーホルダー」に付けれるようになっていた。こんなにデカイ「キーホルダー」は見たことがない、というものだ。

父の気持ちを汲んで、しぶしぶ(!!? )それを私の家の鍵に付けた。

初めは絶対にカバンの中で邪魔になる、と思っていたが、これが案外「カギを手探りで探す」時に大変役立つものとなった。
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暗いところで、カバンに手を突っ込んで この大きな人形をとにかくわしづかみにして引っ張り上げれば、カギも一緒にくっついてくる。

それ以来、この人形は、外出先では私のカバンに、家では入り口にぶら下がって、私と四六時中一緒だ。 


当時、背中の縫い目が甘かったのか、背中が真っ二つに割れて中の真綿が出てきた。

」手芸部だった私は、同色の糸がなかったので、白糸で彼の背中を縫ってあげた。 出来上がると、それはまるで「背中全切開手術」を受けた直後の人のような有様になったが、それも今では愛嬌の一つになっている。

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 母は言う。「それはNHKのマスコットの どーもくんっていうらしいわよ。」
父は通勤に通るNHKビルでこれを見つけて私に買ってきたのだ。

 どーもくんの紹介を今回初めてサイトで見てみた。

「どーもくん」

たまごから生まれた へんてこな生き物

テレビ好きのうさじいの家に

ころがりこんだのが、運のつき。

すっかりテレビが大大大好きになってしまった。

気は優しくて チカラ持ち

不機嫌になると、おならをする。

好きな食べ物 :  肉じゃが

きらいな食べ物:  リンゴ

( DNAにきざまれた深いナゾがあるらしい )



父の黒豆

2008年11月30日 | 私の父 

「父の黒豆」

 昨晩奈良の実家に電話をすると、ひさしぶりに父が出た。

「今年の黒豆は上出来だよ。パリに送るからね。」と言ったかと思うと、あっという間に母に受話器を渡した。

母は言う、

「お父さん、ついに黒豆のさやむきに精出しすぎて手首がひどい腱鞘炎になったのよ。今朝病院に行ってきたのよ。」

母はあきれながらこういった。

「そこの病院の先生に、黒豆をお土産に持っていったんだから。あきれてしまうったら。」

もちろん 一番あきれた のは、黒豆をもらった病院の先生 に違いない。

 

父のフランス語

2008年11月27日 | 私の父 
私が奈良に一時帰国していた時、父は何度となく同じ質問をした。

もしもし はフランス語でなんて言うの?」

 「アローよ。」 もう四回は答えた同じ返事を繰り返す。

それから私はパリに戻り、ある日アパートに戻ってくると電話にメッセージが入っていた。

アローっ!! ディス イズ ジャポーニカパリィー?

  アロー。パリィー。 エッフェルとおー。オーケー。」(ガチャン)

良いお酒でも飲んだのか。ほろ酔い加減でわが娘に「フランス語」で電話したくなったのだろう。

私なりに訳してみた。


「もしもし、こちら日本です。 そちらはパリですか?

 もしもし、パリですか?  エッフェル塔 大丈夫です。(何が? )」
   

父とシルクロード博覧会へ

2008年11月27日 | 私の父 
「父とシルクロード博覧会へ」

父は日中は会社に、帰ってくると息つく暇もなく畑に行って野菜や米の世話をする「兼業農家」だ。

たいそう熱心に野菜作りに精を出し、そのおかげでとてもおいしい野菜が出来る。

無農薬で国産で季節のものは、都会に生きる人達には大変喜ばれるため、父は野菜が出来る度に会社の同僚達に持って行った。


 ある日 母が「自家製 大豆」を料理するため倉庫に向かった。最近とれたおいしい大豆があるはずだった。かめを開けると、そこには「虫食い 大豆」のみが残っていて、「きれいな 大豆」は一粒もない。 もちろん 父が 「人に配った」 からであった。

母は「いっつもこうよ。こっちが「さあ、食べましょう」と思ったら一つも残ってないんだから。お父さんが全部人にあげちゃって。」


私が小さい頃、奈良で「シルクロード博覧会」が開かれた。

父が「シルクロード博覧会招待券」と「お食事券」をどこからか貰っていたので私と二人で行くこととなった。

 
お食事券」は 博覧会のどこの屋台でもレストランでも使える、となっていた。 

長い行列が出来ている人気の屋台を覗くと「ピロシキ」のようなものが売られていて、それを食べよう ということになった。

 長々と続く行列の後尾について、私たちは順番を待っていた。私たちの前には、高校生らしき青年二人がいて、同じように順番を待っている。

だんだんと前方に進んでいっていよいよ私たちの番、という時、父は突然

「これ、お食事券なんですけどどうぞ使ってください。」

と この青年二人に券をあげてしまったのだ。 

 私は「えっ?」 と思ったが、 とにかくピロシキを注文した。

父はすっかり「食事券」をあげてしまっていたので、私たちはお金を払ってこのピロシキを買った。

「なんで「お食事券」あげちゃったの?」 

小さいながらも私は「自分たちがお金を払ってまで」ピロシキを食べたことが理解できなかった。

 父はピロシキを 「うまいうまい」と言いながらうれしそうにほおばっていたが、ふとこう答えた。

「なんか 気の毒 になってなぁ」 

 あの健康そのもの、という感じの青年のどこが「気の毒」だったのだろう。

 父は今も変わらず、せっせと野菜を作っては人にあげることを生きがいとしている。  

   
  お陰で 母は「売れ残った」野菜で日々料理することになっている。
  

父から初めて携帯メールが届いた

2008年11月27日 | 私の父 
「父から初めて携帯メールが届いた」

一昨日、生まれて初めて奈良に住む父から、携帯から送ったであろうメールが届いた。 

「miehf さん おげんきですか」となっている。 

 わが娘に「さん」付けで呼ぶのは、「ちゃん」の 「」が打ちにくかったからであろう。

 兄が今年、九月の父の誕生日に携帯電話をプレゼントしたという。

 父はそれがたいそううれしかったらしく、それ以来、家族にも、仕事仲間にもちょくちょくこの携帯で電話してくるというのだ。

 私は早速父にメールで返事を送った。

「お父さん、メール無事届いたよ。miehfより」と。 

 ところが それ以降、父からはうんともすんとも音沙汰がない。 

 私は確認のため 実家の母に

 「お父さん、私のメール受け取ったかな?」 と聞くと、


 「 えっ? ああ、ダメダメ。 お父さんは、発信はするけど、受信したことがないの。 携帯電話で自分が好きなときにしょっちゅうかけてくるのに、こっちからかけ直すと絶対にかかったためしがないの。 

会社の人からも だんな様の携帯にお返事差し上げようとしましたが何度かけても繫がりませんので、失礼ながらご自宅のお電話番号にかけさせて頂きましたっていつもかかってくるのよ。」

 母は続けた。

「 緊急のために、ってお兄ちゃんがプレゼントしてあげたのに、全然役立ってないの。逆にえらいはた迷惑になってるんだから。」 


 父はいつの日か、私の送ったメールを発見することがあるのだろうか。