パリ よもやま話 番外編 特別号

パリ在住十年+の日本人女性が、パリ生活で起こるよもやま話を綴る徒然日記と帰国後のお話

夢のお菓子 レインボーラムネ

2015年01月17日 |  私 miehf

息子が幼稚園に行ってくれるようになって 私の時間がもてるように。

 

今日は入手が非常に困難という 幻のお菓子を製造している工場へ行ってきました。

工場はものすごく地味な外観ですが、これが噂のお菓子。 レインボーラムネ

 

  

 

工場でも 一人一袋だけ。 この紙袋にたくさんの小袋入りレインボーラムネが詰まっていて たったの300円でした。

 

   

 

その幻の味は。。。。。。。 食べてからのお楽しみに!!!!!

 

 

 


パリ風 主婦の集い方 その二

2013年01月23日 |  私 miehf

 

お好み焼き教室が終ると、 翌日そのお礼に、 と モルドバ人の奥さんが 

 

「ヤギチーズと ほうれん草の ラザニア」 教室を開いてくれました。

 

息子と一緒に 託児所帰りに教室に直行。

    

 

モルドバ人の彼女曰く

「ヤギチーズだったら何でも良いわけではなくて、必ず シャビシュ− を使ってね」  とのこと。

 

このヤギチーズを薄くスライスしておきます。

  

 ラザニアは 事前に茹でる必要のないもの。 バリラ社のものを使います。

冷凍アネット(いのんど、 ディル)も準備  

    

 

ブリデリス社の 低脂肪サワークリーム500mlと、リコッタチーズ一パックを混ぜておきます。

  

ボンデュエル社の 冷凍ほうれん草を 電子レンジで解凍して、水気を絞ってざく切りにします。 

  

耐熱容器に バターを塗って

   

 

ラザニア、ほうれん草、 ヤギチーズ、 ミックスクリーム、 その上に 塩 とコショウと アネットを振る

 

以上を数段繰り返していきます。                 「お腹すいたヨーーーー」

   

最後に ミックスクリームを上段にして、 隙間に低脂肪生クリームを埋めるように流し込みます。

   

  220度のオーブンで30分ほど焼いて

 

完成~!~~~~~~~~!!!!!!!!

      

 

くるみオイルと ラズベリー酢で作ったサラダソースに 炒めたベーコンを混ぜたサラダを添えて頂きました。  

 

ヤギチーズの味が好きな人にはたまらないおいしさでした。

 

 

  

 

 

「今度は 私が 主婦料理教室を主宰するわっ!!!!」 という方がいらしたら ぜひmiehfまでご一報を!!!!! 

 

 

変りサンドイッチとして、 パンにハチミツを塗って、ヤギチーズスライスと 若いほうれん草のサラダ菜、そしてクルミ をサンドしたものも

 

 

 

 

絶品です。  ベーグルパンを使ってホットサンドにすると さらにおいしさが極まりますよ。 お試しあれっ!!!!!!

  

 


ドイツのクリスマス

2012年12月25日 |  私 miehf

近所のドイツ人家庭で クリスマス前の準備に参加させてもらいました。

 

 クリスマスの四週目前から クリスマスリースの上で一本ずつろうそくに火を付け 毎週日曜日にろうそくの火を増やしていくそう。

色んな手作りのドイツクッキーを、大人も子供も一緒に味わいました。

 

それから 台所に移動して ドイツのスパイスパンに飾り付けをさせてもらいました。

 

息子も真剣です

 

私のはこちら

 

左のは息子です

 

 

軽い夜食にポワローねぎとマッシュルームをマーガリンで炒めたものに 野菜ブイヨンと たくさんのキリチーズを加えたスープを頂きました。

 牛乳アレルギーのある赤ちゃんには チーズなし、ヴェジェタリアンでない人には ここに 牛肉のそぼろ炒めを加えた 三種類の鍋

子供達も大人も とても楽しい ドイツ的な夕方をすごしました。

  

 


七週目でーす  

2012年12月19日 |  私 miehf

七週目、、、  息子の託児所の 慣らし保育が。。。!!!!!

 

 

毎朝 託児所で私はずっと生活(!!)し お遊戯を皆でして、、、  存在感が職員さんなみになってきました。

 

気の長い職員さん方ばかりで 根気強く 息子が慣れるのを待ってくれています。

 

調理場が部屋の一部になっていて 職員さんが お昼ご飯を準備してくれているのを子供達からいつでも覗けるようになっています。

とてもオープンな託児所です。

お水をください、と子供達。

 

 

 


パリのストーカー  あなたならどうする?

2012年09月01日 |  私 miehf

この私 miehfに 実は プチ ストーカー がいます。

 

『えええええーーーー!!!??ウッソーーーー』

 

と言われるかもしれません。

 

このストーカーらしき行為をする人物は いつも私の行くスーパー近くに座っている、いわば ジプシーのおばちゃん。日に焼けてか、彼女の顔は焦げ茶色。

 

 

物乞いをする彼女に 私は いつもキチンと挨拶をして通っていました。 (旦那曰く それが原因だと、、、)



 

会う度にお金をくれ と彼女は言うのですが、 もちろんいくらか渡してもいいのでしょうが、こうして何年も毎日ここに居てお金を要求する彼女に 毎日毎日会う度にお金をあげ続けることもできないので、子供のいる彼女にある日、子供服をもっていきました。

  

すると 

 

『それはいらない、 お金ちょうだい と。(とほほほほ)

 

私は 準備した子供服を 苦笑いしながら自分の袋に入れ直しました。そのやり取りを見ていた周囲のフランス人からも 苦笑いがでていました。

 

それからしばらくして 息子をベビーカーに乗せ、娘を抱っこして道を歩いていると、彼女が突然 ヌっっっっっっっっと 目の前に現れて 娘の顔を指でなでながら

 

『かわいいねえ。  ねえ お金 ちょうだい』    

 

私『(ズルっっ)』

 

もう私も ここで キチンと言わなくてはいけないと思い、

 

『私、今自分では働いてないから、お金はあげれないんですよ』

 

 と言ってみたら、 彼女は うなずいて納得してくれたようでした。

 

 

ところが、、、 それから 彼女は さらに私に執拗にお金を要求してくるようになったのです。

 

気がつくと、彼女は 私のアパート前の郵便局に一日立っていることもあり、 私がアパートを出入りする時、ものすごい眼力で私を追い続けるように。

 

彼女の旦那さんらしき物ごいの男性は 私がいつも行く公園前にいますが、 彼はそれほどうるさく言ってこず、 目で私をじっと追うくらい。

 

娘さんらしき女の子は、私のアパート前を基本として座っていたり歩きながら 物乞いをしています。断ると、『ニーハオ』と言って恨めしそうに見てきます。

 

いつものようにベビーカーを押しながら スーパーに行った帰り、 彼女と 丸丸と太った彼女の息子らしき男の子がいたのですが、 

もうちゃんと前に納得してくれたから 今日は何も言われないだろうと会釈して通ろうとした時、、、


 

『見てよ 見てよ。 私の息子を!! すっかり最近痩せてきてしまったの。 ねえ だから お金ちょうだい』


正直、 こんなに肥満体型の男の子の どこが痩せてきたんや!! と突っ込みたくなったものの、とにかく このおばはんには もう何を言ってもあかんと悟った私は その場を去ろうとしました。

すると、 今度は 彼女が ついにキレたらしく  ちっっっと 舌打ちした後、何やら 私のことを口汚くののしり始めました。


こちらとて 二年前から収入のある仕事を一切せずに二人の幼子を必死に抱えている身で、 お金を出さないからと なんでこんなののしられんとあかんのや、 と 私が驚いてしまいました。





それ以来、 彼女が座っているのと 反対側の道をあえて選んで通るように。


と言っても、それ以降も 彼女はちょくちょく私のアパート前に立ち、 私の出入りをさらに執拗に目で追いかけるように。


そして 今日の午後。 娘をベビーカーに乗せて、いつものスーパーに行こうと 彼女のいる反対側の道を歩いていると、彼女からの イタいほどの強烈な眼力を感じていました。

彼女は 私があえて 反対側の道を行くのがおもしろくなかったのでしょうか。


スーパーの中だと思って 安心してベビーカーの中で眠っている娘を少し私から離れた場所に置いて、 じっくりと豚肉を選んでいました。


ふと 誰かが 私の背中にくっついている、、、、、!??   


 

パっっ


と振り向くと  それは まさに あの 彼女!!!!



赤黒く焼けた大きなぶよぶよした顔が 突如私の目の前2センチほどのところに

 

ヌーーーーーーーーっっ


と現れて、  私は ぞーーーーっとして心臓が止まるかと思いました。


彼女は にたーーーっと 薄ら笑いを浮かべると


『ボンジューーーール』

とだけ言って 姿を姿を消しました。


『おカネちょうだい』 と 彼女は今回初めて言わなかった。 それが 私にとっては さらに不気味さを増す要因となりました。



はっ 


と我に帰った私は 私から遠くに離れたところで一人眠る娘が何もなかったか 思わず覗き込んでしまいました。


旦那曰く


『誘拐されんでよかった』

とのこと。。。


物乞いすることに関して、 私はあえて何も言えません。好いのか悪いのか、法に反してるのか反してないのか。。。  


でも ストーカー行為に関しては はっきりと言えます。

『気持ち悪いから ヤメろ!!!!!!!っっっ』



こんな彼女に対して、 今後どのように対処すべきか 色々考えています。


例えば

  札束を ポーーーン と彼女に渡し、『 もうこれからは つきまとわないでください』 と言う。(つきまとわないどころか、さらにお金を要求される可能性大)

 

2  こちらから 威嚇する。 ( 相手はグループです。 二人の子供を背負った身重の私や子供達が逆に危険になることもあるでしょう)


 法的に訴える  ( 一番手間がかかりそう。 よりによって ジプシーの人を訴えることはできるのか?)


4 祈る  ( 去ってください と ただただ祈る)


5 自分が去る ( それも悪くはないでしょう。 ただ 引っ越しが大変です)



さあ あなたなら こんな時 どうしますか。









 

 

 

 

 

 

 

 


息子の友達は常夏の国からやってくる

2012年07月02日 |  私 miehf

 

息子が公園ですごく気の会う男の子たちは大抵 常夏の国生まれの親御さんを持っていることが最近分かってきました。

 

 

いつもケラケラと笑う明るいモーリシャス島の男の子と 二歳の誕生日の日に出会い意気投合

 

 

息子もつられて ずっとケラケラ笑っていました。

 

普段は レユニオン島の男の子と遊ぶ息子。

 

 

 

 

この二つの常夏の島国がお隣どうしだったことを先週知りました。  息子がもう少し大きくなったらぜひ一度行ってみたいです。


モーリシャス&レユニオン 世界を変えたインド洋の秘島

 

 

 

 


アタチの二回目の音楽教室  

2012年02月22日 |  私 miehf

今日はパリでの アタチの二回目の音楽教室の日。  

 

 

がんばるわよーーーーーっ

今日のプグラムは、、、、、

 
ドレミの歌

手をたたきましょう。

春よこい

きらきら星

 

そして、今日のスペシャルゲスト、 ドイツからはるばる来仏してくださったソプラノ歌手の女性のお歌も聴けるノ。

 

ヘンデルの曲を歌とピアノとフルートとで演奏してくれたノヨ。 

 

 

お兄ちゃんは うっとりと彼女の美声を聴いていたワ。  歌声って本当にステキねぇ。

 

それから、楽器あてクイズのおさらいヨ。 

 

カーテンの裏には色んな楽器が隠れているのヨ。 楽器の音を聴いて それが何の楽器だったか 言ってみてネ。

 

クマさんのこの方の楽器は、、、、、、、、

そうっ!!

 

「チェロ」

でしたっ!!!

 

 

あたちのオトウチャンは  今日は特別 小鳥さん になってくれていたワ。

 

 

 今度は ドレミの歌  よ。

ドレミのらせん階段 が登場して、 皆 で階段を上ったり 降りたり、、、、

 

 

歌ったり踊ったり笑ったり、、、、階段を下りたり上がったり、、、、、そうこうしていると とってもお腹が減ってきたワ。

 

すると、、、、  音楽の先生達が おいしいおいしいおにぎりと、、、、

 

 

 

大なべに 豚汁   をタップリと作ってくれていて、、、、

 

 

皆でお昼ご飯を頂きました。  

 

とーーーーーーーーっても美味しかったワ!!!!!

先生 いつもありがとう!!

 

 

 

パリ 幼児音楽教室の連絡先は こちら

 

shin1645@yahoo.co.jp

 

 

 


息子 お疲れ様です

2011年05月28日 |  私 miehf

ドリプラネを投与しても 日に日に上がり続ける息子の熱。 

救急に行っても 今できることはない、といわれました。

40度に達するか というとき やはり気になり近くのお医者さんへ行ってきました。

ノドが腫れている というので、 ドリプラネ以外に抗生物質を投与するように言われ、 それが息子に合わなかったらしく、全身が無数の赤い湿疹で覆われる という大変なことになりました。

 

高熱に薬の副作用も加わって 夜な夜な苦しみ泣き叫び続ける息子に、私も旦那も途方にくれ、最後はこちらも病気がちになっていました。

 

しかし、この抗生物質の箱には

「赤ちゃんには与えるな」 のマークが、、、、、、、、、、

 

 

気になったので そのお医者さんに電話すると、 息子を診察することもなく

「それでは 他の種類の抗生物質をあげますから、取りに来てください」 とのこと、、、、

 

 

正直言って こんなに副作用で湿疹に覆われている息子に さらに抗生物質を与えることはできませんでした。

 

息子の自然治癒力を信じて、それ以来 薬をあげていません。

 

一週間前の息子と一週間後の息子。

 

 

 トレードマークのホッぺたも随分としぼんでいました。これでも湿疹は随分と消えた後でした。 

 

息子の顔を見ると、息をしているか、心臓は動いているか、ついつい確かめてしまうほどの変わりようでした。

 

 食欲も全くなく 母乳と麦茶だけ飲んでいました。   赤子に薬は安易に与えてはいけない、と 旦那と私は実感しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


何でもちりぢりになります

2011年05月14日 |  私 miehf

息子の趣味は

「散らかすこと」 といってもよいでしょう。 

 

棚や袋に入っているものを見ると、徹底的に全部引っ張りだして それでやっと得心します。

 

引越しして 今日まで、片付けては息子に全部引っ張り出され を繰り返しています。

 

紙のような手でちぎれるものだと、さらにそれを指で器用にちりぢりにしていきます。

 

その間はものすごい集中力で無心になってちりぢりにしていきます。

 

先日市場で買ってきたレタスなどの入ったカバンを置いておくと、早速目ざとい息子が見つけてちりぢりにしていました。

 

サヤインゲンはあちこちに飛ばしていきます。

 

しばらくして旦那が入ってきたとき

 

「ブタ小屋かと思った」

と言いました。

 

 


パリで幼児音楽教室 ひな祭り 編

2011年02月23日 |  私 miehf

 

おいらはまたかあちゃんに頼んだよ。

 

「今日の音楽教室はひな祭りだってさ。 だからオイラは行きたいんだ」

 

カアちゃんはこう言った。

「ひな祭りは 女の子 のためのお祭りよ」

 

それでも オイラは知りたかったんだ。

 

「日本のひな祭り」っていうものを。

 

 

 

教室に着くと、 先生手作りの立派なひな段があったよ!!!!

 

 

このひな段は 特別なひな段


「ドレミひな段」


って言うんだ。

 

下の段から  ド  レ ミ  ファ ソ って 音がするんだよ。

 

 

皆で合唱

 

「うれしいひな祭り」

 

歌の歌詞と同じように、皆でお雛様のぼんぼりに明かりをつけて、そして桃の花をあげたよ。

 

 

 

それから 今度は

「やぎさんゆうびん」

を歌ったよ。

白やぎさんと黒やぎさんが、永遠に手紙をやり取りするお話だ。

 

もう一つは

「こぶたぬきつねこ」


楽しそうに歌ったり、悲しそうに歌ってみたり、泣き声でうたってみたりした。

それから皆 それぞれの楽器をもって歌いながらリズムを打った。

トライアングル、タンバリン、鈴、、、ぼくは バイキンマンのマラカスを貸してもらったよ!!

『ドキンチャーーーーーンっ!!』 ってね。

 

 

 

 

今度は「今日のお話」

今日は ブラジルのお話だ。 どうして カメのこうらにヒビがいったのか、っていうお話。

 

カメ役には ファゴット、 カササギ役には フルートが登場。

 


 

音楽は これもブラジルの作曲家 Vila- Lobos  っていう人の曲だった。

 

どうして カメのこうらにヒビがいったのか分かったら、 丁度お昼の時間。

たくさん歌ったし皆お腹がペコペコだった。

 

そしたら 先生が

「ひなちらし寿司」

 

たーーーーーーーーーーくさん 準備してくれていたんだよ!!! おいしかった!!!

 

 

それから 皆で

「ひなケーキ」 作り。

桜餅の味がするマシュマロやアメやイチゴを ひなまつりのイメージで飾っていく。

 

完成!!!

 

 

お雛様も うっとりとケーキを眺めていた。



また来たいな。

 

 

次回 音楽教室は 三月九日です。

予約先 

shin1645@yahoo.co.jp

 

 

 


修道女か 結婚か

2009年01月08日 |  私 miehf
「修道女か 結婚か」


前世はジャム作り専門の修道女だった私は(勝手に決め付けている) 今生でも似たような人生を経ている。(私の前世参照)


食べ物を作っては人に配り、それを生きがいとしている。


こんな「気ままな」私でも、嫁としてもらってやろう、という人がついに現れた。 


私は元々「女」でも「男」でもなく生まれついている。(もちろん宇宙人でもない)


 やはり今生でも「修道女」になって、また「ジャム作り」を一生し続けるのが 私の道 なのだろうか。



修道女か 結婚か。 決断する前に寝よっと。 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/c1/574def69622fd68988248d72a2f25cba.jpg



私の反抗期 その三  トドとともだち

2008年12月22日 |  私 miehf
「私の反抗期 その三  トドとともだち編」

イグアナと初対面し、おいしい名物ウドンを食べに行った後、私は旅の疲れもあってその晩はぐっすり眠った。

 
翌日早朝から兄に起こされた。 

兄の仕事場である水族館に一緒に行き、その日は一日中兄がする動物の世話を見学することとなった。

私は兄が時々アシカ達とテレビに出ていたのを実家で見ていた。


そのアシカ四匹が檻から一斉に出てきて兄と私の前に「ツツツーっ」と見事なお腹スベリをしながら近づいてきた。私は怖くて後ずさりした。


「怖がったらいけない。動物はすぐにわかるから」 


兄が「サイン」をすると アシカ達は一斉に「パチパチパチっ」と私に向かって拍手してくれた。


握手をしてみるとツルツルとしていて心地良かった。

ボールを投げると 見事に鼻先に乗せて、また投げ返してくれる。

私もいくつかのサインを習って、アシカとしばらく遊んだ。


このアシカ達は時々「逃亡」するらしい。隣のウドン屋に逃げ込んだ(スベリ込んだ)時はウドンを食べていた客達の間で大騒ぎになったそうだ。


今度はトドの檻の中にえさを持って入った。 一㌧以上もある巨大なトドが

「グウォォーーーッ」

というケタタマシイ叫び声を上げながら、兄が来てくれたことを喜んだ。

そしてプールから「ブフォーーッ」とすごい水しぶきを上げながら飛び出してきて、ここでも「腹すべり」で私達の足元までやって来てピッタリと「くっつい」た。

 小錦さんが五倍に膨れ上がった、そんな感じだ。


すごい迫力だった。後ずさりしたくても、檻が小さいのか、トドがでかすぎて場所がないのか、とにかく無理だった。

「ちょっと待っててや」

兄は私とトドを残して檻から出て行った。

「待って、 私も出るっ!!! 」 そう言って兄の後ろに続いた。

その時だ。

「ツツツツーっ」 とこのトドが腹スベリしてきて見事入り口を塞いでしまった。

兄のことは素直に出したのに、私には「ここを絶対出させないよ」と言っているようだ。

一㌧の彼を引っ張って出口をどけるだけの力は私にはなかった。

彼を見ると「ニヤリっ」といたずらっぽく「笑った」のが見えた。


兄が戻ってきて「早く出ーやー」と言っている。

「このトドが体で出口塞いで 出れへんねん」 

 泣きべそをかきながら私は訴えた。 

檻の中で立ち往生している私に兄は言った。

「 そいつ、友達が欲しいんや。ちょっと遊んだって」


 トドと友達になる、そんなは私にはなかった。


 仕方なくイワシをあげたりして、しばらく遊んだ。

 そうしてから「どけて頂戴」とトドにテレパシーで頼んだら、

「分かったよ、ハイ、どうぞ」

という顔をして、「ツツツツーッ」と腹スベリをして出口を開けてくれた。



 それからトドはまた 猛獣 という感じの「グウォーッ」という声を一声出してからプールに沈んでいった。

 
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私の反抗期 その二 手乗りイグアナ

2008年12月22日 |  私 miehf
「私の反抗期 その二 手乗りイグアナ編」

反抗期真っ盛りの高三の私は、まるで糸の切れたタコ (何も私がタコに似ている、と言いたいわけではない ) のように、フラフラとしていたのが傍から見てとれた。

四国の水族館で働いていた兄が帰省した時、いち早く私の異変に気がついた。

兄といえば 私を散々いじめた「天敵」だったが、親元を離れた頃からいつのまにか妹を心配するという思いやりを持つまでに変化していた。


兄は「これはオレが妹をいじめたからに違いない」そんな罪の意識があったようだ。


フラフラしている妹を、帰りそのまま車に乗せて一緒に四国へ連れて帰った。


私は 「生まれて初めての兄との旅行だなぁ」と思いながら、どこを走っているかも分からない景色をぼんやりと眺めていた。(完全に糸の切れたタコ状態)


途中、どこかの港に着いた。兄はいつもここで買うという明石ダコの明石焼きを一舟買ってきた。 熱くて私がやっと一つ食べ終えたと思ったら、兄がその他のタコ焼きを全て平らげてしまっていた。
 

「相変わらずだなぁ、私の食べ物を横取りするのは」

昔からおいしいものは、こうして兄に先に食べられてしまっていた。心で苦笑いしながら、車ごと船に乗った。(はずだ)

 そして 淡路島を横断して、海の上にかかる橋を渡っていると

「 あっ!!!渦が巻いてる!!!!」  

私は橋の下でグルグルと渦を巻いている海水を見た。

「ああ、鳴門の渦だよ」 


私は茶碗蒸しに入っている「なると巻き」を瞬時に思い出して、「なるほど」と一人納得した。

それから四国に入り、「うどん」という看板があちこちに見られるようになった。

夜遅く兄のアパートに着いた。 部屋に入ると「ギョロッ」とした緑の動物が本棚に乗っていて、初めて見る私を迎えた。

「これ、人形?」 

私は兄に聞いた。 

「これは 生きたイグアナ だよ。 手乗りなんだ」


放し飼いになっているこの「手乗りイグアナ」に恐る恐る近づいた。
 
 目がギョロッとしていて爪が長い。


「腕出してみたら乗ってくるよ。ただし爪で引っかかれるけど」

 兄の腕は傷だらけになっていた。このイグアナの爪のせいだった。


私はイグアナに腕を差し出した。するとのっそりのっそりと私の腕に「乗って」きた。 

「よしよし」そういって ウロコのようなものに覆われている彼の体をなでた。

「爬虫類は触られるとストレスになるんだ」 

 どうしたらこの動物が「ストレス」を感じているのかわかるのだろう、そう思ったが、言われた通りに撫でることはやめた。


このイグアナは育ちが良く、その後どんどん巨大化していって兄のアパートでは飼いきれなくなり、我が家に養子(養イグアナ )されたらしいが、もうその時私はフランスに来ていて実際の所は知らない。


なんでも緑色から枯葉の色に変化をし、恐竜のような恐ろしい風貌になっていったという。


それがなぜか父の寝室に置かれることになり、父はイグアナと寝起きを共にすることとなった。


ある日 ヒーターの温度が上がりすぎて、このイグアナは死んでしまった。

「かわいそうなことをした」母はそう電話で語った。
 

 これはその「なつかしい」イグアナの唯一の写真だ。私があの日兄のアパートで撮った。
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私の反抗期  その一

2008年12月22日 |  私 miehf
「私の反抗期」


 私の初恋も遅かったが、反抗期も遅かった。


 高二で初恋を迎えたらしい私は、高三で反抗期になった。

奈良の進学校に入り、言われたことをまじめにしてきた私は突然

「なんでこんなことせんなあかんねんっ」 

と思い出した。

クラスメイト達は当の昔に反抗期を終え一目散に大学受験を目指している中、私一人

「反抗期を迎えた田舎娘」

を演じることとなった。おたふく風邪のように、遅い程に症状はひどかったのかもしれない。


皆ががんばって授業をしている中、ふらっと一人でクラスを出て、開いてる音楽室でピアノを弾いたり、学校の所属するお城(私の学校はお城の中にあった)の神社の境内に入って居眠りをしたりした。


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ある日「家出」をしようと決心して「奈良公園」に向かった。家出奈良公園だなんて、今思うと風情がある。

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 奈良公園界隈をぶらついてからよく知らない市バスに乗った。降りるとそこは人気のない暗い道で、どこからともなく男の人が近づいてきた。ミニスカートを履いていた私は身の危険を感じた。

慌てて丁度通った市バスに飛び乗って、また鹿のいる奈良公園に引き戻した。



その夜は安い「ビジネスホテル」に泊まることにした。


その部屋は、どことなく気持ち悪い空気が漂っていて、私がその部屋に入るたびに左足がヒヤリとするのだった。まるで冷たい誰かの手でなでられたかのようだった。

 何度出入りしてもそうなので、私は気持ち悪くなって早々と寝ることにした。

ところが中々寝付けなくて、やっと寝入ったと思ったら、今度は急激な左肩の痛みで目が覚めた。 痛くて痛くてたまらない。

私は痛みに苦しんで結局寝たのか寝なかったのか、疲労困憊して朝を迎えた。

 ぐったりして家に戻ってきた。 両親は私が無事でいたことをただ喜んでくれていた。 


 それ以降家出は懲りたが、反抗期は治まらず、長い髪にウェーブのパーマをしっかりかけていって「風紀委員」をしている体育の先生に厳しく注意を受けた。

「パーマはパーマでも、ストレートパーマなら良いっていうのっ!!?」

などと屁理屈をこねて、私は生徒達に恐れられているこの先生の怒りをあおってみた。


期末試験なども完全な白紙で出した。最後の方は学校に行くこともなくなっていった。


そしてだんだん「授業出席日数」が危うくなっていったが、私の担任の先生は私のことを一心に信じていつでも見守ってくれていた。

私が卒業できることだけを気にかけてくれ、そしてほとんど「お情け」で卒業させてもらえることとなった。



私の反抗期は高校を出ても治まらず、それは「長い長い」反抗期のほんの始まりに過ぎなかったのだ。


私の初恋

2008年12月22日 |  私 miehf
「私の初恋」


私の初恋、皆さん興味がおありのことと存知奉る。(何時代??)


私の初恋は誰かはっきりしている。というのは、その日まで 全く 男の人には興味を持たなかったからだ。


中学、高校に入っても、男の子に混じって服を着替えることに抵抗がなかったので、男の子達が恥ずかしがってそそくさと逃げていった。


母は「miehfちゃんの様子見ていると、ちょっと心配していたの」

と後々語った。


自分は外面は女でも、中身は女でも男でもない、とずっと思っていた。(今もその気はあるが)


ところが高校二年の終わり頃、一年生の時からいつも授業を受けていたT先生に、ふといつもと違う印象を持った。


それから私は、休み時間の度にT先生のいる研究室に行って、わざと質問を考えてはT先生といる時間を持つようにした。

だいたい先生は日の当たらない薄暗い研究室に一人でいたので、私は良いしゃべり相手になっていたはずだ。(と勝手に思い込んでいる)


ところがそんな日が続いたある日、「T先生が結婚する」という噂が立った。


私はなんだかにわかに信じられず、いつものように研究室に入った。

「先生、結婚するって本当?」 

「おー、もう聞いたんか。本当だよ。来週結婚式だ」

「ふーーーん、おめでとう」

 私はそう言って研究室を出た。



 先生の結婚式があって、その翌日、私はいつものように学校のある駅を降りた。

 いつも素通りする駅の売店で、ふと「まむしドリンク」が目についた。


「おばちゃん、まむしドリンク一本頂戴」


 高校二年の娘に「まむしドリンク」を売ってくれたおばちゃんもすごいが、買った私もすごかった。


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休み時間、私はしばらく足を運んでいなかったT先生のいる研究室に入った。


 「おー、また来たんか」

 T先生はいつもと変わりなくこう言った。


 「うん。 これ、結婚のお祝い持ってきてん」


 そう言って、私はT先生の目の前に「まむしドリンク」をドーンっと置いた。


「まむしドリンク!!?」


T先生はどう反応していいのか分からず困っていた。

私は 「これ飲んでがんばってね」 (何を??)

 そう言って部屋を出た。 



きっとこれは 私の体に眠る「まむし免疫」(「私は まむし の子」参照)がさせた行動に違いない。