水面に映る光景

日常感じたことなど。

母の人生観

2021-02-20 08:07:54 | 宮古島の母
平成16年1月28日水曜日 宮古島市に住む母が、東京都の北区に住む私に電話して来た。
電話自体は頻繁にある。電話の内容は母の悩みや愚痴が多い。
しかし、その日、母は真剣に母の人生観に付いて語ってくれた。

母は真剣に私の子供達への接し方を心配していたのだ。

当時も今も、娘は米国で暮らしている。そして、息子は関西で暮らしていた。

母、曰く「30、40になって沖縄に戻ってもいい仕事がなく、戻ってきた人は苦労している。年金を貰うまで一つの会社で働いて、ふるさとに戻った人は楽しそうに暮らしている。どこで住むかが問題ではなく、定住し積み上げていく暮らしが老後を楽しくすると子供達に教えなさい。子供が怒ることを恐れてはいけない。」

母の80年以上の人生が母にとって誇れるものであるから言える言葉であり、反論する事もなく素直に聞くことができた。

その当時、すでに普通の生活から外れた生活をしていた私は、母の言葉を子供たちに伝えることはしなかった。自分が出来ない生き方をどう話そうとも、それは説得力にかけるだろう。

当時の私の記録。
「母の周りの人たちは普通の人達だ。奢りでなく、自慢でなく、子供達はちょっと違うと思う。母の言う普通の暮らしに耐えられる感覚を持ち合わせていないし、そうすることができるとも思えない。私が普通に暮らすことを全うできなかったのと同じくらい、いや、それ以上に子供達はできないだろう。
年金のある楽しい暮らし、その生き方を選ばなかったから今の私がいる。
子供達の将来に何の不安もない。なぜなら、彼らの暮らしを私の考えに合わせる事が出来ないとわかったからだ。
とすれば、私が考える成功と言う形を彼らが取らない以上、私は彼らが彼ららしく生きていること、自主的に主体的に取り組んで生きている事、それが彼らが生きている事だから、心配や不安を持ちようが無い。
先にどんな形の生き方があろうともそれは彼らが生きてきた結果であり、それ以上でもそれ以下でもない。
母の生きてきた道は私も生きられなかった。とすれば、私の子供達が生きて行けるとも思えない。
だからと言って母の生き方を否定する気は全く無い。いやむしろ母のように生きられればいいとさえ思う。」


ここまで、社会の構造が変化すると、大正生まれの母の人生観は的を得たものとは言えなくなってきたと思う。
しかし、母が命をかけていつも真剣に生きていたことは、誇れることである。

死ぬ時、そばにいて欲しいと頼まれていながらそれに応えることは出来なかった。

それでも、母と私の間には確信に満ちた確かな分かり合えた別れがあったと思う。

母さん!あなたが父さんを含め家族全員の幸せを願い続けて生きていたことは分かっています。
自信を持って次のステージへ進んでください。

母さん!お疲れ様。ご苦労様。また会えるといいね。

宮古島の朝の月(平成24年撮影)
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