・最後の魔女裁判
時は1692年2月末―。
場所は、当時イギリスの植民地だったアメリカ合衆国東部のニューイングランド地方(注:現在のコネチカット州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、メイン州、ロードアイランド州の6州を合わせた地域。 1616年にイギリスが入植し、アメリカ大陸で最初に開かれた最も古い植民地)のマサチューセッツ州の片田舎、セイラム村(注:現在の同州エセックス群ダンバース)。
村の牧師であったサミュエル・パリスの娘、ベティーと従姉妹のアビゲイル・ウィリアムスは、ある日の夜、友人の少女ら数名と共に親に隠れてこっそり家を抜け出し、村の近くにある森の中へと分け入った。 そして、手近な場所に集まると、そこで親に禁じられていた降霊会を行った。
これだけならば、少女たちの“若気の至り”で済まされる程度の些細な出来事であったが、これが村全体を巻き込む大事件へのハジマリの鏑矢となった。
降霊会の最中、興奮した少女たちの内の何人かが奇声を上げて暴れ出し、そのまま気を失って倒れてしまったのだ。 しかも、倒れた少女たちは翌朝になっても目を覚まさなかった。
意識のあった少女たちは、禁じられていた降霊会を開いた事を親に咎められるのを恐れ、ウソの上にウソを塗り重ねる証言を行った。 その結果、なんとその証言が信用されてしまい、黒人奴隷の使用人だったティチューバがブードゥーの妖術を使ったために少女たちが悪魔に憑かれた、というトンデモな結論が導き出されてしまった。
1692年2月29日、ティチューバと共に、貧しく村での立場が弱かったサラ・グッドとサラ・オズボーンという2人の女性が魔女として告発され、即日逮捕、投獄された。
セイラムは小さな村で、村には教会はあったが役所が無く、当然裁判を行える判事もいなかった。 そこで、近隣のセイラム市(注:現在も同名)から判事が招かれ、3月1日からいよいよ最後の魔女裁判が始まった。
この裁判では、降霊会に参加した少女たちも証人として出廷したが、少女たちは悪魔に憑かれながらも罪を告白した強い意思の持ち主とされ、まるで聖人のような扱いを受けた。 そして、傍聴人はもちろん、判事までもが少女たちの証言を鵜呑みにし、容疑を否認する3人の内グッドとオズボーンは有罪。 なんと絞首刑が言い渡された。 ティチューバは、自白によって減刑されるという法解釈によって死刑は免れたが、レベッカ・ナースやジョン・プロクターといった数名の村人を名指しし、結果これがまたもや鵜呑みにされ、逮捕者が続出した。
この後も、少女たちや他の村人たちによって次から次へと魔女が告発(注:もちろん、中には日頃から快く思っていなかった相手を陥れる目的でこれ幸いと“便乗”した告発が横行したのも、これに拍車をかけたモノと思われる)され、最終的に実に200名近い村人(!?)が魔女として告発され、収監所はパンク。 魔女裁判は順次行われたが、裁定数が逮捕者数に追いつかない状況が実に3ヵ月も続いた。
さすがに対処不可能を悟った判事らは、ココに来てようやく事態の収束を思案。 6月2日に特別法廷が開かれ、有罪となった被告人の絞首刑を6月10日から順次執行する事が決定された。
最終的に、グッド、オズボーン、ナース、プロクターを始めとした実に19名(!)もの村人に対して絞首刑が執行され、告発された内の1名が自白を強要する拷問中に容疑を否認し続けた結果、圧死。 パンク状態の収監所の劣悪な環境下で体調不良になった5名が獄死。 合計25名もの犠牲者を出し、村中を狂気の渦に巻き込んだセイラム魔女裁判は収束した。
……その後、セイラムを訪れたボストンの聖職者によって10月になってようやく上告が行われ、事態を知った州知事の命によって裁判の中止が決定。 翌1693年5月になって、収監されていた村人全員に大赦が与えられ、最後の魔女裁判は完全終結した。
このセイラム魔女裁判は、その後抑圧的な教会中心の社会が巻き起こした集団ヒステリーの典型例として心理学者などにも注目されたが、米ソによる東西冷戦構造が構築され、現代の魔女狩りとも言うべき“赤狩り”(注:共産主義者弾圧運動の事)が横行した1950年代に、アメリカの劇作家アーサー・ミラーによって戯曲化され、1953年に舞台化された。
この戯曲版は、日本でも『るつぼ』(注:原題は『The Crucible』。 “Crucible”は、邦題通り“るつぼ”の意味もあるが、“困難な試練”という意味でも用いられる語)というタイトルで翻訳版が出版され、1996年にはこれを原作とした映画版(邦題:『クルーシブル』)が製作、公開されている。
この戯曲版と映画版では、降霊会を行った少女たちの内の一人、アビゲイルが奉公先だったプロクター家の主人、ジョンと不義の仲になり、のぼせたアビゲイルがプロクター婦人からジョンを奪うために魔女裁判を利用した、という設定に脚色されている。
映画版では、当時の人気女優だったウィノナ・ライダーがアビゲイル役を熱演している。 日本ではマイナーな作品だが、実はかなりの良作。 ぜひ、ハンカチを用意してご覧頂きたい。
・現代の魔女狩り
このようにして、17世紀末を以ってヨーロッパ以外の国でも魔女狩りムーヴメントは収束し、18世紀に入って産業革命が始まると、ヨーロッパを中心に世界は急速に近代化が進み、魔女狩りのような非科学的で前時代的な行為はすっかりなりを潜めた。
19世紀に入ると、魔女狩りに対する歴史解釈の論争が巻き起こったが、魔女狩りを正当なモノとする弁護、擁護的な論述はほとんど無く、先に述べた通り教会権力の不当な行使という見方が大多数を占め、厳しい批判の対象になった。
そして魔女狩りは、教会にとっても大衆の無知と聖職者にあるまじき私利私欲がもたらした迫害と偏見に満ちた差別による忌むべき、そして恥ずべき“暗黒史”と考えられるようになった。
……が、それは飽くまでもタテマエでしかなかった。
魔女狩りは、近代ドコロかかなり最近。 20世紀中期から今世紀に入っても、魔女狩りは行われているのである!
例えば、第2次世界大戦中のイギリスでは、ヘレン・ダンカンという女性が魔女裁判にかけられている。
1897年、スコットランドに生まれたダンカンは、幼い頃から霊能力を発揮し、地元では有名な霊能力少女だった。
成人して以降、ダンカンは人々を集めては度々降霊会を開くようになり、亡くなった有名人を呼び降ろして集まった人々と会話する、という事をよくやっていた。 日本で言うトコロのいわゆる“イタコ”である。
他にも、ダンカンの名を最も有名にしたのが、霊の物質化現象、すなわちエクトプラズムの排出である。
エクトプラズムとは、霊を霊視能力のない一般人でも見れるように視覚化、物質化する事で、トランス状態に入った霊媒師の口や目鼻、耳や指先などから煙のようにモヤモヤした白い物質が排出される現象の事である。 特にダンカンのそれは、目撃者数の多さから有名で、エクトプラズムを排出中のダンカンを映した写真も多数残されている。
しかし、こうした事で有名になると出てくるのが、これを疑うオオツキ的人物である。
ダンカンの降霊会は、1930年代から当局の監視を受けるようになり、1933年に一度逮捕されている。
この時は、証拠不十分で釈放になり、ダンカンはこれまで通りの降霊会を再開したが、当局の監視は日増しに厳しくなっていった。
しかし、1941年に行われた降霊会で、ダンカンはイギリス海軍の軍艦が沈没すると預言。 しかも、これが見事に的中してしまう!
さらに1943年、同じようにダンカンは軍艦の沈没を預言し、これまた的中させた。 予言したのは、イギリス政府による軍艦沈没の公式発表の実に3ヵ月も前の事であった。
時折りしも、第2次世界大戦真っ只中。 軍の機密情報の保護に神経を尖らせていた時のイギリス政府は、ダンカンの霊能力に危機感を感じるようになっていった。
こうした事が重なり1944年1月19日、当局はついにダンカンの逮捕に踏み切り、警察と軍が協力してポーツマスで行われていた降霊会の会場に踏み込み、まさにエクトプラズムを排出中だったダンカンと、降霊会の参加者3人を逮捕した。(注:一説には、時の軍部が44年6月に予定されていたノルマンディー上陸作戦の情報がダンカンの口から漏れる事を恐れて、ダンカンを冤罪に陥れた、という説もある。 考えられない事ではない。 それだけ、当時のイギリス軍は情報の保全に神経をピリピリさせていたのだろう)
しかし、警察はイカサマの証拠を探したが、結局何も見つける事は出来なかった。
その結果、ダンカンは放浪罪という罪状で逮捕された。 この罪は、罪を認めて僅か5シリング(注:0.25ポンド。 1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンス)の罰金を払えば釈放される程度の小さな罪でしかなかったが、ダンカンはなんと罰金の支払いを拒否。 当時イギリスでも悪名高いホロウェー刑務所に投獄され、裁判を受ける事になった。
この裁判では、罪状が窃盗罪(注:参加者を騙して参加費を得た)と“魔法行為禁止法”違反に切り替えられて告訴された。
ココで、イギリスにおける魔女を取り巻く法律の話しをしなければならない。
先にも記したように当時のイギリス、すなわち大英帝国では、旧イングランド王国時代の1611年、時のイングランド王ジェームズⅠ世の命で再翻訳された“欽定訳聖書”によって魔女が公式にキリスト教の敵と定められ、1624年には当時最後のピークを迎えていた魔女狩りムーヴメントに後押しされる形で“魔女対策法”という法律が制定、施行されている。 これは、魔女狩りと魔女裁判を公式に認める法律であったが、17世紀後半に入って魔女狩りムーヴメントが急速に衰退し、またこれに伴って司法を担う知識階級の意識改革が進み、たとえ魔女の訴えがあったとしても無罪放免になる事が多くなり、この法律は次第に機能しなくなっていった。 最後の40年間は、この法律が適用されて死刑になった者はいなかったそうだ。
そのため、同法は1736年に廃止された。
これと前後して制定、施行されたのが、件の“魔法行為禁止法”である。
魔女対策法が廃止される直前の1735年に制定、施行されたこの法律は、魔法や魔術、妖術といった類の行為による詐欺行為を取り締まるためのモノであったが、ダンカンが逮捕された1940年代から遡るコト実に200年も前に制定された法律であり、それまでほとんど適用されてこなかった法律であった。
言うなれば、ダンカンは前時代的な法律の改正を怠った司法の怠慢によって出来たセキュリティホールによって逮捕、起訴されたのである。
裁判では、ダンカンを支持する人々が裁判費用を集め、ダンカンの能力が“ホンモノ”である事を証言するために進んで証言台に立った。 その数は、実に41人(!)にも上ったというから驚きである。
しかし、こうした支持者たちの証言や弁護士の必死の弁護も空しく、裁判はまるで予定調和のごとく審理が進められ、最終的にダンカンは魔法行為禁止法で有罪。 窃盗罪は無罪という判決が言い渡され、保釈金も認められず、上告も棄却され、刑務所での禁固9ヵ月の実刑が確定した。
……しかし、刑務所でのダンカンの待遇はそれはそれは厚遇で、看守はダンカンに体罰を与える事を拒否し、収監されていた独房はただの一度たりとも鍵がかけられなかったほどだった。
また面会者も多く、ダンカンの支持者はもちろん、刑務所の看守や囚人らまでもが、ダンカンの霊能力に導きを求めた。 そして面会者の中には、なんと時のイギリス首相、ウィンストン・チャーチルまでいた!
チャーチルは、実はドルイド教(注:古代宗教の一つ。 信者は魔法使いで、神の力によって無敵の戦士になれる魔法を得意とした)の信者であり、元々から霊能力に理解があり、19世紀末にイギリスの植民地だったアフリカで開戦したボーア戦争に新聞社の特派員として出征した時、捕虜となるも何とか脱走し、見渡す限りの荒野の中でたった1件だけの親英派の家を見つけて一命を取り留めた、という経験があった事もあり、チャーチルは当初からダンカンの収監を快く思っていなかったそうだ。 実際、事件直後に内務大臣に宛てた手紙の中で、チャーチルは魔法行為禁止法を「時代遅れのバカげた法律」と厳しく批判している。
事実、チャーチルはこの面会でダンカンに魔法行為禁止法の廃止を約束し、首相に再選した1951年、同法は廃止された。(注:代わりに、“霊媒虚偽行為取締法”という似たような法律が施行されたが、これは霊媒行為による詐欺行為を禁止するためのモノで、詐欺性がなければ降霊会などのスピリチュアリズムそのモノは容認された)
1944年9月、ダンカンは降霊会への参加自粛を謳う宣誓書にサインした上で釈放された。 しかし、第2次世界大戦末期で戦争で家族を失った人々が救いを求めてダンカンの下に殺到したため、ダンカンは降霊会を再開。 逮捕前と何ら変わらない活動を続けた。
……が、それも長くは続かなかった。
1956年11月、ノッティンガムで行われたダンカンの降霊会を警官隊が急襲。 降霊の真っ最中だったダンカンを拘束した。 これは、ダンカンの霊媒虚偽行為取締法違反を疑った警官たちが令状も無しに行ったモノだったが、この急襲のためダンカンはその場で倒れ、意識不明の重体に陥った。
そして、医師による懸命な治療も空しく、ダンカンの意識は回復する事なく、5週間後に静かに息を引き取った。
このダンカンに対する魔女狩りは、第2次世界大戦真っ最中という時代背景によるモノで、「まあ、当時ならそういうコトもあるよね」と思う人も多いかもしれない。
……が、ダンカンのケースが最後の魔女狩りというワケではない。
実は現代、それも、今世紀に入ってからも、公式に魔女狩りが行われた例もあるのだ!
2008年、インドの農村部で興奮した村人の一部が暴徒化。 村に住む女性に対し、「魔女に対する制裁」と称して暴行したとして6人が逮捕された。
2009年、ガンビアでは実に1000人(!?)もの男女が魔女の嫌疑をかけられ拘束された。 これは、時のガンビア大統領の命によって行われたモノだと言われている。
さらに、イスラム教国のサウジアラビアでは、政教一体の統治により、内閣にイスラム宗教省というのがあり、ココにはなんと“魔法部”という部署がある。 この部署は、魔法をかけられた時の対処法などの相談窓口として機能しており、国民からの相談内容に信憑性があると判断されると、実態調査を行った上で魔法使いを逮捕、起訴し、有罪判決を受けると極刑(注:すなわち死刑)もあり得るというから驚きである。
これとは別に、サウジアラビアには“勧善懲悪委員会”という宗教警察があり、職員は日夜魔女の摘発を行っている。
これらの公的機関は、2013年現在も精力的に活動中である。
また、これとは別に1920年代以降、実に半世紀以上もの間深刻な社会問題であり続けたアメリカの“黒人差別”や、第2次世界大戦中にナチスによって行われた“ユダヤ人迫害とホロコースト”はもちろん、第2次世界大戦直後の1950年代以降、米ソ冷戦構造が構築された事でアメリカや日本で共産主義者を弾圧する“赤狩り”が横行した事は記憶に新しいし、高度経済成長期以降度々問題になり、現在も社会問題として常に注目される小中高校で日常的に行われている“イジメ問題”もまた、広義の意味では魔女狩りに相当する行為と言える。
魔女狩りムーヴメントは、形を変えて現代社会の中でもシッカリと息づいているのである。
といったトコロで、今週はココまで。
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来週もお楽しみに!
それでは皆さんまた来週。
お相手は、asayanことasami hiroakiでした。
SeeYa!(・ω・)ノシ
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