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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

稲村崎成干潟事 現在でも同じ現象が起きる!!

2017年12月15日 | 稲村ヶ崎伝説

「稲村崎成干潟事」の新田義貞が攻め込んだ時に起きた、、、
潮が引き陸地が現れた現象です。

 似た様な現象に旧約聖書の『出エジプト記』に
 海が割れて海底を対岸に渡る話が有るが、
 「稲村崎成干潟事」は 検証不能な話ではありません。 
その現象が現れた場所は、現在の鎌倉の市営プールやホテルが有る埋め立て地となります。
同じ現象が逗子の浪子不動前の海で起きます!!

この写真は、逗子の浪子不動前の海です。
海中に見えるのは不如帰の碑です。
この場所と稲村ヶ崎から長谷の坂ノ下迄の状態は良く似ています。


そして、干潮になると、、、
ご覧の様な平らな岩場に成ります。
これならば、新田義貞の軍勢は、この波蝕棚上を鎌倉市内に攻め込めた訳で、単なる伝説では無い。

江ノ島の波蝕棚と共通の、稲村路前(現鎌倉市営プール)、浪子不動前(不如帰碑)は6000年前から始まったと考えられる波蝕棚です。

明治の学者が、太平記や梅松論等の古典を解釈出来ず、、、
その為、
稲村路の存在場所を知らないママ、強引に現在の稲村ヶ崎の脇を渡渉した。
間違いは、現在の「稲村ヶ崎」を渡渉したのではなく、市営プール脇「稲村路」から潮が引いた波蝕棚上を通り攻め込んだ訳です。
その明治の学者の記念碑が、、、今、稲村ヶ崎に在る 新田義貞古戦場の碑です。
立派な碑が在れば、、、一般人は無条件に信じます。 これが一般常識です。
学者の功名に焦る研究がそんな行動をさせたのかも、、、

コメント
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