鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

台峰の砦 10

2020年10月16日 | 大鎌倉城
広い鎌倉城は、均等に守らせたら兵力が足りない。
一ヵ所を集中して攻められたら困ります。
ワザと弱そうな場所を作り其処に集中させて攻めさせれば効率良く守れる。
何故なら関東武士が総出で作った城です。鎌倉城の構造を熟知していたと考えるのです。
 太平記に書かれた事は、新田軍は、
 十万余騎、極楽寺の切通
 十万余騎、巨福呂坂
 五十万七千余騎、粧坂
その様な兵力の割り振りで、大半の兵力は化粧坂を目指し台峰曲輪を攻めた!
梅松論や太平記を読み 地形に語らせたら、、こんな結果に成りました。
 
鎌倉終焉 では、
人数に誇張が有っても、
攻め手の 新田軍の五十万七千余騎、粧坂を目指して攻め込む。
守り手の 鎌倉幕府軍は三万余騎、粧坂を堅めた。
鎌倉軍は約20倍の新田軍をこの砦で迎撃したが、新田軍は攻略できず、稲村ケ崎に転戦し詳細は太平記に記されている。
鎌倉軍は、予備軍が10万人おり、攻め手が多ければ援軍に出したと言っても4倍の敵を
相手にした砦です。
 
主戦場は、山崎の倉久保谷戸と考えましたが、攻めるに困難で、台村砦の水堰橋が大軍が力で押し切るに好都合な場所で主戦場と考えるのです。
台村砦切岸の下の防塁ならば、高さ数メートルの防塁、他の場所より攻め易いはず!
これが「新田軍は洲崎の戦いで勝ち、山崎に入った!」と書かれ、山内で鬨の声が挙がったと梅松論に記された事と考えて居ます。
 
山内には、水堰橋より化粧坂に向かう大手道と、大手道に控える台村の砦=馬出曲輪を守る鎌倉軍が防塁を作って待ち構えて居た訳です。
防塁を設けて攻撃を防ぐ!それは、専守防衛です。
普段から水堰橋で、馬を降りて馬に水を飲ませ隊列を整え台峰で馬を繋いだ訳で、その出入口を土塁で塞ぎ、防戦をした。
何か変に思いません?
攻撃用の騎馬の出入り口が無くなります。
戦の最中に、、この騎馬は何処から出入りしたのか?

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