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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

台峰の砦 9

2020年10月14日 | 大鎌倉城
台村の曲輪ですが、 「登ったら宅地造成された団地でした!」
そんな感じの魅力の無い住宅地です。
 見方を変えれば 鎌倉時代からこの平地が有る不思議を!
地名として有るのは、地名が名付けられた時から平地で有った訳です。
 
台村馬繋場の曲輪は、南北220m 東西500m の平地です。
江戸城の本丸は、南北570m 東西に200m で似た広です。
 
台村の曲輪を化粧坂に向け少し登ると、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間が、傾斜が強く雛壇状でこの場所が街道封鎖の場所と考えられます。
封鎖の外に台村曲輪の馬出構造が在る訳です。
鎌倉城以降でも大手口の前に馬出曲輪を造る時が在る。
「馬出曲輪」の名前からして 台村の馬繋場と使い方は同じで、鎌倉の城造りを真似たと考えられます。
 
太田道灌が造った江戸城=江戸城本丸と同じ大きさの台村曲輪ですが、、、
外部から観察したら、凄い防備の山城かも??
期待は裏切られ切岸の上は平らな平地だけ! 此れでは誰も城とは思わない!
 
鎌倉城なんて、地味なもんだ、、、っと私自身思っていたんですがね、、
しかし、
台村の曲輪の巨大さや囲む切岸と、更にその下の防塁を検出した時には、、先入観をひっくり返された!
そんなに細かく考えられた城であったのか!!と見鎌倉h上の
地味な割には、構造が理解できると、、、見どころ満載なのが鎌倉城!
 
関東武士全員が力を合わせてこの鎌倉城を作り上がたと考えられる。
城の構造を熟知した関東武士=新田義貞軍が鎌倉城の最弱点と思われる化粧坂(水堰橋から台峰化粧坂へぬける大手道)を攻めたのは、主力の兵をこの場所に集中させた事で想像できる。
洲崎で勝利した新田軍は台峰の南麓の山崎(倉久保谷戸)、葛原ヶ岡下の梶原に移動した。これは、太平記に書かれた事。
更に梅松論では、山内・小袋坂・極楽寺にて「合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし」と書かれた。
山内とは、水堰橋から北鎌倉駅のある台村曲輪北麓の下です。
これで、台峰は、南と北麓に新田軍が配置された様子が窺える。
そして、主戦場はこの台峰曲輪で争奪戦と成った様子が梅松論に書かれた訳です。
幕府軍は、台村曲輪を攻撃される事を予想しており、、妨提を用意してあったと考えるのです。
何故か?  他の場所は切岸が高く、数メートルの土塁で「台村が攻め易い場所」っと新田軍は考えたのでしょうね。
その様な訳で、高さを3倍に誇張した図を載せました。
他の場所の切岸は高く、台村曲輪は低いから攻めやすい!
この事から、
この台村曲輪は、国内向けに造られた砦と私は考えるのです。
鎌倉城の一面は元寇対策であり、他面は国内造反対策も有った! っと考えます。
 
コメント
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