鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉 城編7

2019年03月16日 | 大鎌倉城
鎌倉城の城壁は、別名「切岸」と呼ばれています。
城の意味では、生活空間を守る総構えの城と考えられる。
国内の反抗勢力から鎌倉を守る為、三方山で一方は海で街を囲んだ防禦し易い構造です。
そして、「新田義貞の鎌倉攻め」で、この切岸は攻撃に耐え城壁の役割を果たした。

敗因は、異常な自然現象が始まり稲村の海が干上がり、城壁の無い無防備な場所から鎌倉に攻め込んだ。
城でなければ、、何だ!となれば、、
元寇対策の砦となり、蒙古軍が海から押し寄せる訳です。ですから、直接鎌倉の街が攻撃対象に成ります。
街の守りを捨ててでも蒙古軍に勝利する必要が有ります。
それが、今回紹介している山の内側に在る切岸であり、
生活空間を守る事は放棄して、蒙古軍をせん滅するする為の砦になる訳です。

上記の説明で、砦と城の違いをご理解頂けると良いのですが、、、
 結果は、鎌倉城は、、、砦と城の二面性が在り、通常の城とは異質です。
以降戦国時代に多数の城が造られた基に、鎌倉築城の経験と技術で地方の城を作ったと考えるのです。

さて、次は海蔵寺周囲の紹介です。

先ずは丸10の写真です。
如何にも鎌倉らしいタタズマイの家と言われの在る洞穴です。

丸11の写真です。
民家の裏には隠し様の無い切岸が在ります。

丸12の写真です。
海蔵寺の駐車場です。

丸13の写真です。
海蔵寺の正門です。 左に曲がると16井戸です。

丸14の写真です。
拝観料も払わずにこの様な場所が在ります。

丸15の写真です。
十六井戸の場所です。
周囲は総て切岸です。

これ等の切岸が、連続的に切れ間が無く続いている訳です。
切れ間が在るとすれば、近年の工作であったり、寿福寺の源氏山への登り口出あったり、
化粧坂の様な街道が考えられます。

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