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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城の範囲 5

2020年07月13日 | 大鎌倉城
金沢八景の前に、、
鎌倉城の範囲4 の拡大図を!
下図の海岸中央は葉山御用邸でその下の岬は長者が崎です。
画面の中央から上の切岸の為山裾が黒く成っている状態と、
中央から下の傾斜がナダラカナ山裾の違いをご覧ください。


下の図は、横須賀駅から横須賀中央駅にかけての海岸です。

これ等の境界も、宅地造成工事で不鮮明に成っているし、更に大きく作られていたのかも、、、
それでも明確に区別できる範囲の線引きです。
画面より上は、徹底して切岸が造られていますが、、、下方はマダラです。

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鎌倉城の範囲 4

2020年07月12日 | 大鎌倉城
私が城の境界と考える場所を紫ラインを引きましょう!
例によって宅地開発された場所は赤丸で囲みました。

鎌倉城と便宜上呼んでいますが、その防衛施設の性格は異色で、
総構えの城とも考えられますし、
砦が集まり都市を囲んだ要塞ともかんがえられますし、、、
城塞としては、要塞の部分が大規模で主体が要塞の様にも見えます。
城郭都市 の型をした要塞辺りが適当なのかもしれませんが、、、
この様な巨大な防禦施設を備えた城郭都市は世界を探しても、希少でしょう。
紫ラインの内側と外側の違いをご覧ください。
画像を拡大して見て下さい。
切岸としての山裾の黒さでその違いを見分ける事が出来る訳です。
鎌倉城を創り出す根拠としての「切岸」が広大であると、国内の反幕府勢力に対抗する為の城では無い事が理解できると考えられます。
何故なら、此れだけ巨大ですと、守るに兵隊の数が必要で、日本国中の兵が集まる必要が有る。
天下分け目の鎌倉幕府と新田義貞の戦いでも、七口の囲いに兵を配置するだけで目一杯で在った訳ですから!
次回は、鎌倉東の金沢八景側の鎌倉城の境界です。
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鎌倉城の範囲 3

2020年07月08日 | 大鎌倉城
鎌倉より南東の三浦方面の鎌倉城境界は何処か?
その場所を、この地図から予測して欲しいのですが、、、
傾斜を黒く強調した地図ですが、、、如何でしょうか??
そんな訳で、次回は私の考えた境界を書き加えてみます。
これ等から、何が判るか?
鎌倉幕府に敵対するのは、世界最大の広い国土と兵力を持ったフビライハンの軍隊で、どの様に迎え撃つか?
文献が一切無い鎌倉城の構成が浮かび上がり、幕府の覚悟が浮かび上がってくるわけです。
  国内の隣国との争いでは有りません!
攻めてくる敵は、韓国、中国、イラン、イラク、アフガン、モンゴル等の国力を合わせた世界最強の軍隊が押し寄せるのです。
日蓮が「国難」と叫ぶ以前に、幕府は中国渡来の禅僧より、モンゴル兵の話は聞いており、元の勅使の首を切り、覚悟を決めると、、
、、博多湾に関西の武士に20㎞に及ぶ元寇防塁を作らせた。
元寇対策は、それだけでは無く、鎌倉を攻めるであろう! っと考えるのは当然です。
関東の武士は何をして居たのか?  文献は有りません。
その遺構は鎌倉に残って居る訳ですから、文献が無いなら遺構にかたらせるのが筋です。

結果は、神風が吹いて、、日本は守られた! っと言う落ちです。
  肝心の鎌倉幕府が立てた元寇対策は歴史から忘れ去られたのです。
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鎌倉城の範囲 2

2020年07月06日 | 大鎌倉城
[鎌倉城の範囲1] の地図に境界の紫ラインを書きました。
紫の鎌倉内側が鎌倉城想定域で、外側は城外です。
その内外の違いは、
鎌倉城には、切岸が在る事が前提です。
地図に傾斜地を黒く強調させた地図ですから、山裾に在る切岸は黒い為ゲジゲジの様な山に見えます。
紫ラインの外側にもそのゲジゲジ様な場所が有り、青丸で囲っていますが、その場所は、二伝寺砦、村岡城、玉縄城の在る場所であり、切岸に相当する傾斜が人工的に作られた場所です。
紫ラインの内側にゲジゲジ様な場所が消えた場所が在ります。それは大規模な宅地造成が行われた場所で切岸は消えました。
宅地造成箇所は、赤い丸で囲みました。

鎌倉城の西側の地図ですが、この様に示せば、紫ラインの内外の差でハッキリと切岸の有無が理解できると思います。
この範囲の切岸を確認するだけで調査の範囲や距離を考えれば、個人の調査能力の限界を超える訳です。
結果は、鎌倉城の実態を知る方は今までには無かったし、調査された資料を私は知らない。
もちろん部分的な調査は有ったでしょうが、、鎌倉城の全体像を知っている人は皆無と考えて居ます。
  次回は鎌倉の東側の境界です。
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鎌倉城の範囲 1

2020年07月05日 | 大鎌倉城
通常考えられているのは、鎌倉七口を結ぶラインが鎌倉城の範囲と思われている。
そうでは無いと主張するからには、証拠が必要です。
鎌倉の城の特徴は「切岸」に在ります。
城を離れた場所は、その切岸の特徴が無い訳です。
上の地図は、国土地理院の地図に傾斜部分を黒く強調させた地図です。
右側は、鎌倉の城で、切岸は急傾斜の為 山裾は黒くなっています。
右下は江の島~七里ガ浜~稲村ケ崎~由比ヶ浜があります。
この図より鎌倉城の範囲を推定するのです。

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実体視練習

2020年06月12日 | 大鎌倉城
実体視練習
速い話がステレオ写真です。
その扱い方のHPが 国土地理院HP にあります。前回は国土地理院 「地図を立体視する 」でしたが、
これは、空中写真の立体視です。(同様な見方なんですがね、、、)
宅地や、自然放置の森林により鎌倉城の実態が隠されてしまった。
70年間の自然放置が鎌倉城をどれだけ判りにくくしているか??

戦後間もない時にUSAにより、空中写真が撮影され70年前の実態映像が見られるのです。
是非 実体視を習得し異次元の鎌倉を体験してください。
倉久保谷戸2の空中写真は、1946年(昭和21年)の写真です。
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長窪の砦 3

2020年02月01日 | 大鎌倉城
下図の長窪の地形ですが、、、
緑の強い処は高い場所。
黒い処は傾斜が強い処(切岸)=城壁に相当する場所です。(図1)



普通の空中写真を使い、傾斜の強い崖(切岸)を黒く強調させたモノです。(図)


未だ大船高校が無い時代の写真です。
この砦構造も大手の宅地造成に依り、、鎌倉城は破壊され、現在も続いている。(図3)


通常の図とは違い、左が北です。大船高校のグラウンドが目立ちます。(図4)
同様な経緯で、台峰の北鎌倉女子学園グラウンドが同様な砦の上に同じ手法でグランドが造られています。


上の赤い点か、下の黒点を基準に立体視をしてください。
点の間は自身の両眼の間より 狭くしないと立体視出来ません。画像をズームさせて見てください。(図)
立体視出来なかった方は、残念ですね、、、
立体視出来た人は 1956年(60年以上前)の長窪を見る事が出来る!
   長窪の記事が評判が良いので、、画像を付け加えてみました。

長窪の砦 3.5   (2020年02月04日 | 大鎌倉城)
長窪の砦の地形は特異な構造ですが、、、
 読まれて如何でしたか?

図4に示した様に、住宅地が立ち並びチットモ砦らしくない!
当の住人たちは、これを鎌倉城等と言う認識はまるで無い。
石垣が無いから城じゃない! なんて言う常識的な考えの方々が暮らしています。
戦国の城は石垣が無いのが当たり前。
更にソレより前の時代の城構造です。
石垣に相当する切岸が鎌倉城には在る。切岸から中に新田軍は入れなかった事で、切岸の有効性と鎌倉城の堅固さが証明されたのです。
負けた理由は海の潮が引く天変地異が原因であった。
そんな城造りの基が、この砦には残っています。 次の戦国時代の城造りの基になったと考えています。
今時の城に詳しい研究者等は、巨大な規模と切岸に、城とは理解できない。
その理由は、戦国時代の城は、隣国の武力に対抗する為の城であり、地方の小国の小規模な争いの城です。
鎌倉の城は、当時世界最大で敵なしのフビライハンが率いる軍隊と戦う為の城で在った訳で規模が全く違う訳です。

下の写真は長窪切通入り口(門の)左側の暗闇を進む。判りにくい!



鎌倉全体の山に有る崖!表面に見えるのは住宅地ですが、、その裏庭には、切り立った切岸が有るのです。
知らない人は、住宅を作る為に裏山を切り崩して平地を広げた! 等と解釈をする方が居ると思いますが、、、
現代の土地ブローカーが大規模造成をしない限り、山を削ってまで住宅地は作りません。
注意深く斜面地を観察すれば、昔ながらの城構造が残っているのが理解できると思います。
それが、識別するのが「違いの判る見る目」ですが、、、 この様な時代背景が理解できないと、識別できない。

飲食店や土産物やをウロツク観光客とは違った、古都鎌倉探索の一段深い知識を必要とする鎌倉巡りと成ります。
広大な鎌倉は広すぎて、構造を理解できずに苦しみますが、、
鎌倉城を理解する為の雛型で長窪の砦は理解し易く、中身は濃い。
  興味の無い人には、、、
    単なる住宅地です。
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鎌倉城 蒙古襲来の前後。

2018年12月11日 | 大鎌倉城
コメントより、、、、  2017-02-16
> (英)さん 
> (個人的には、初期の記事から貫かれていた、頼朝による
> 大規模な地形改変の話との整合性は気になりますが。)
> (博多湾で津波の話はあまり聞かないですし。)


 そうです!
初期の頃のブログは、鎌倉城は、朝廷対鎌倉幕府の為の城!
その様に想定しました。
実際に、頼朝の時代の城はその想定で作られたと考えて居ます。
城の縄張りも、七口周囲とその峰の登り口や中間に攻防に耐える、、
寄せ手を攻撃する構造を作ったと考えられます。
七口に登る峰に作られた砦と、最終的に七口の頂点に出入りを塞ぐ土壁を作ったのが、最終の「新田義貞戦」と考えて居ます。
北条家の時代に成り、元寇対策に改造された鎌倉城は、七口の外部に巨大な砦が存在するのですが、新田義貞に対峙した時兵員不足の為、元寇対策の城より守備範囲を狭め、初期の朝廷対策の城(縄張り)に縮小させて戦ったと考えて居ます。その様な訳で、初期の鎌倉城は新田義貞と戦った範囲で在ろうと考えて居ます。
その様な鎌倉城の初期に工作したのは、古代東海道の封鎖と七口周囲の峰の切岸と考えて居ます。
初期の明確なのは、朝比奈に残る幅7mの切通(古代東海道痕跡)の東西に残る古代東海道7m以上9m未満ある道幅を4m幅に改造した道路痕跡です。
更に、東山道武蔵路の切通と考えられる海蔵寺裏の切通を塞いだ土橋です。


さて、話は元寇対策の城ですが、、
元寇対策の城は更に大きく、東は金沢八景西は片瀬の龍口寺辺り。、、
七里ガ浜上の山は、元寇対策の砦で有ったと考えられます。

海岸から見上げれば、、ノドカな丘陵地ですが、、、
山から見下げれば、、、、

この様な急斜面!

特に、鎌倉広町緑地は宅地化されずに残っており、、長窪の平地を再現させた様な騎馬を収納するに良い構造をした場所でもある。

これが、平和な現代の顔と、、峰を越えると裏には騎馬を隠せる広場!それは戦の場です。
浜辺から1㎞の場所でこの様な景観となります。

この西の傍に属する砦の痕跡と考えられるのは、、
龍口寺裏の常立寺(鎌倉城と蒙古襲来9| 2018年09月11日 )にある切岸や、女坂(忘れ去られた鎌倉 手広切通し編3| 2009年09月05日)等が存在します。

そんな訳で、首尾一貫した一つの完成された説として鎌倉城を解説している訳ではなく、、
日を追う毎に、データーは蓄積され、考え方の深さは変わっていく!!
そう、、、日記ですから!!
 
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戦う砦跡 鎌倉城の平場

2018年11月08日 | 大鎌倉城
日本城郭大系2 記 2015年06月26日  に記載の地図ですが、
「まんだら堂」と書かれた北側に東平場と呼ばれる場所が有り、平場の状態を観察できる。


左の上の柵に人がいるので大きさの参考にしてください。


同じ場所の反対側です。


一段下がった平場です。
人工的に造成した土地ですが、個人資産で大規模な造成はやらないのは、現代の重機を使わない時代の常識です。
農家ならば尚更の話です。
地方の士族の城とは、、規模が全く違うのです。
地方の小競合いの戦争とは規模が違う。
当時世界最強の軍隊と、国の存亡を賭けた戦いをする城です。
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新田軍は化粧坂に4 戦う砦跡

2018年11月05日 | 大鎌倉城
この図より、戦闘に必要な鎌倉軍の平場を探そう!っと言う訳です。
平場とその下にある崖が、鎌倉の戦う為の砦の証拠です。
ドレだけ見つける事が出来ますか?


緑のラインは、化粧坂から水堰橋に向かう鎌倉城大手の道です。
大手道の正面は、北鎌倉女子高校の周囲で土壁で乗り越えられない工作をしたと思えますが、住宅地となりその証拠は不鮮明です。
更に瓜ヶ谷から直接葛ヶ原を北から攻める兵と、梶原から葛原に向け南から攻める軍が考えられますが、、、
鎌倉軍が待ち構える平場(土地に傾斜が無いと白い。)を黄色でマークしました
如何ですか?谷底から攻め入る新田軍に対して、大手道に上がる場所には必ず平場が待ち構えている。

この平場に対して、住居跡だ!とか畑の跡だとノタマウ方が居ます。日が射さない場所に畑は作らないのは承知でしょうね?
そんな場所には家もつくらないし、、その場所に行く道路も無いのですよ!どうやって住むのでしょう?
日当たりが良い場所は、当然ながら屋敷も建てますし、畑も作ります。
その上、屋敷に出入りする道も作ります。要は、日当たりに無関係に平場は有る。
 当ブログ「武家屋敷跡」2014年10月10日 { 鎌倉に城は無い!}を参照ください。
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新田軍は化粧坂に 3

2018年10月23日 | 大鎌倉城
「新田軍は化粧坂に2」の地図の様に、、
地形を知れば洲崎で勝利した新田軍が山之内に向かった目的は明確と考えますが如何?
水堰橋から真正面の大手道に攻める手段もあるし、大手道の葛原を南と北から挟み撃ちの攻撃も有る。

新田義貞は、鎌倉城の一番の弱点で攻撃し易い場所と考えたのが鎌倉城の大手道の水堰橋から台峰を通り葛原から化粧坂に向かう道と考えた。
それほど鎌倉を囲む他の場所の切岸は攻撃困難な崖に作って有った訳です。
鎌倉側の考えも、一番弱みの大手道を固めて応戦したと考えられるのです。
その根拠は?
文献には在りませんが遺構が証明する訳です。

貴方なら、この新田軍が侵攻するのを止めるには、どの様な砦を作りますか?
新田軍が攻め上がれない様に崖を作り、その上に平場を作って崖を登ってくる敵を弓矢で狙い撃ちにする。
それが、当時の戦法である訳です。
この図から、その様な平場を探せますか?
その様な作業を鎌倉の研究をする方は無視した訳です。


注1 :一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍
    として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。

最大の疑問の、
何故この葛原で戦いになり、、化粧坂に攻め込む事が出来なかったのか? その解答です。
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新田軍は化粧坂に 2

2018年10月20日 | 大鎌倉城


新田軍は「化粧坂に向けて進軍した!」
しかし、 戦った場所は、洲崎で戦いとなり、新田軍は橋を作って柏尾川と湿地を越える工作をし、川を挟んだ戦いが洲崎の戦いが主であったと考えられる。
山之内に入った記述から!向かう先は何処でしょうか?
大半の方が巨福呂坂へ向かったと考えるのではないでしょうか?
 しかし 
巨福呂坂は既に堀口三郎貞満を上将軍の十万余騎が攻撃をしています。(注1)
 新田義貞の主力軍は初めから化粧坂に向かう目的ですから、「台峰や海蔵寺裏の大切岸を攻撃する為に、山之内から瓜ヶ谷に入った!」鎌倉城の大手道の北側から攻め化粧坂に向かう作戦と考えられる。
更に
葛原にて戦った記述から、梶原団地の下の谷を通り進軍し、鎌倉城の大手道の南側から攻める主力軍が居たと考えられる。
既に巨福呂坂は別動隊が行っていますから、、、主力軍が山ノ内に入る目的は鎌倉城の大手道を片側から攻める目的と考えられるのです。

鎌倉城の一番の弱点であり、攻撃をヤリ易い場所と考えたのが鎌倉城の大手道の水堰橋から台峰を通り葛原から化粧坂に向かう道です。
鎌倉側の考えも、一番弱みの大手道を固めて応戦したと考えられるのです。
その根拠は?
文献には在りませんが遺構が証明する訳です。


注1 :一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍
    として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。

最大の疑問は、
何故この葛原で戦い、、化粧坂に攻め込む事が出来なかったのでしょうか?
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長窪の砦2

2018年10月12日 | 大鎌倉城
この二つの切通は、高野地区に有ります。
よって「高野の切通」と呼ばれると、どちらの切通? っと迷います。
高野地区と大船地区の境界に有るのが高野の切通と呼ばれますが「大船の切通」とも言います。
長窪に行く為の道を「長窪の切通」と言いますが、高野地区に在り 脇は高野公園です。
混乱を招く呼称で注意が必要です。
正確な切通の呼称で有るか? 俗称なのかは不明です。

上記地図の緑色の点線は切通です。


近年の長窪砦です。
傾斜量図と空中写真の合成図です。大船高校と、宅地造成後 家が建った状態です。


1979~1980年頃の長窪砦です。
大船高校(1983年開校)と宅地造成中です。
この状況では、高校でも宅地でも自動車が使えない場所です。この時点で初めて自動車が入り込める道路が造られた。
その道はどの様な道で有るのか?
鎌倉で一番大きな陸橋を作って対処した。
緑の砦痕跡に対し、大規模な造成工事で地肌が土色に現れた場所が確認できる写真です。
この長窪砦は、北の大船高校と南の長窪とが表裏一体で一つの砦として機能していると考えて居ますが、その表と裏の境界に切岸が在り、宅地造成で切岸は消滅した。
そんな理由で、、、
以後は表と裏の区別は無くなった。


1974~1978年頃の長窪砦です。
造成をされる前の状態であり、大船高校と長窪の間には切岸が在り、長窪には登れない地形でした。
大船高校の敷地は、鎌倉城特有な陣構で、
一方向から登って広場に立った敵を三方から弓で攻める馬蹄形の陣地に成っています。
屋敷を作るなら、守りとして三方を山に囲まれた屋敷を作り、
蒙古襲来で由比ヶ浜に上がった蒙古軍を、攻撃戦術として三方の山から襲う考えです。
それが、鎌倉城の根底にある戦術と遺構から推測するのです。
この馬蹄形の構造は、色々な場所で見られます。
その他に、谷の奥に向かいひな壇状になった構造も見受けられます。


1945~1950年頃の長窪砦です。
この当時の切岸の状態は、ステレオ写真として空中写真があり確認する事が出来る。
馬蹄形の砦構造が雛壇状に成っています。
台峰にもある砦形式です。
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長窪の砦1

2018年10月08日 | 大鎌倉城
前にも同じ長窪の事を書いた!
何を今更蒸し返すのか? 何てね、、、
 以前の記事で、鎌倉に対しそんな見方も有るのか?
程度の認識は芽生えたと思いますが、
城としか思えない資料を! 誰でも調べられ確認できる資料提示しよう。
  と言う訳です。

この地図は、国土地理院です。
〈https://maps.gsi.go.jp/#13/35.337697/139.534931/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%2C0.77%7Cslopemap%7Crelief_free&blend=01&disp=111&lcd=relief_free&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0&d=vl&reliefdata=20GB4B5B3GAGF1FFBAG14GE2FC85G1EGB0FA5CG28GA2F739G3CG6AED23G50G2BCC5EG64G02CF28G78G06B345GG02823D〉
 でアクセスできます。

凹凸が無い場所では、黒いラインは一切ありません。傾斜が強い場所に黒いラインは表示されます。
結果は、長窪を黒いライン(切岸)が切れ間無く囲っている。
この切れ間の無い処が人工的に作った根拠です。
東西に1.3㎞、南北に1㎞の規模の砦です。
鎌倉城に対して、1/50程度の狭い場所ですが、
一般的な山城と比較すると これでも大きい城と思います。
鎌倉全体が、この状態で切岸を作って有った訳で、
長窪の紹介は、鎌倉城を理解する為のモデルケースです。
個人レベルでは、調査をやり切れないのが巨大な鎌倉城です。
個人レベルでも全体を把握できそうなモデルケースの紹介です。


この図が有れば、現地を確認するに便利です。
普通な道路地図と傾斜表示の地図を合成しました。

鎌倉の住宅に埋もれた長窪の紹介です。
歩く目的ならば、2,3時間で終わります。
興味を持って細部を確認しながら歩けば、数日掛かる場所です。
  次は、更に長窪の、近年の変化です。
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新田軍は、化粧坂に向けて攻撃をした。1

2018年09月27日 | 大鎌倉城
新田軍其勢五十万七千余騎は遊行寺を横切り、柏尾川の西岸の村岡城、貝殻坂周囲に集まった。
主力部隊が目指すのは、対岸の洲崎である上町屋ですが、、、その間には柏尾川が有る。
川だけではなく、昔からこの場は沼地状態であり、橋を急造して洲崎に進撃をした場所です。
大正時代に柏尾川補修工事で新田軍が架けたと思われる橋脚跡が出土しており、その場所は神戸製鋼の敷地で有ったと言われている。
 上図:橙色の粧坂から水堰橋は、鎌倉城大手道。
洲崎で勝利した新田軍は『山之内に進軍した記事』と『葛原で戦った記事』が有り、
文より 二手に分かれて化粧坂に向けて攻めたと考えられます。
山之内に進軍すれば、水堰橋が鎌倉城大手道で化粧坂へ向かう正面攻撃と成ります。
更に、
瓜ヶ谷に入り込めば、その奥は海蔵寺裏の大堀切で葛原ヶ岡を通る大手道を北から攻撃する事に成り化粧坂へ向かえます。
更に、梶原団地から攻め入ろうとすれば、葛原ヶ岡を通る大手道を南から攻撃する事に成り化粧坂へ向かえます。(この二手は、ピンク色に示した通り道。)
これが、古典文献の記事より考えられる新田軍の化粧坂攻略法と考えられます。
攻撃目的は、化粧坂と書かれていますが、「攻防の有ったのは葛原ヶ岡」と太平記や梅松論等の古典に書かれてある事です。
しかし、攻撃はしたが 鎌倉城は堅固で化粧坂に攻め込む事は不可でした。
 この事より、
大仏坂より亀ヶ谷切通、小袋坂迄で、新田軍が入り込む場所は一切なかった訳で。
一番侵入しやすい場所は、鎌倉城の大手道より化粧坂と考えたのでした。

唯一化粧坂より水堰橋までの鎌倉城大手道も塞がれたと成れば、一般人が通る道は無くなる。
それが、鎌倉攻めの後に一般人が通る道は皆無で、戦争に負けた地を誰が修理するのか? 放置状態が江戸まで続いたのでしょう。
一般人は鎌倉城の兵員移動で使用した峰の道を歩き始め街道の代用にした事でしょう。
その後、江戸時代に朝比奈峠を通れるように補修したり、亀ヶ谷切通,小袋切通等の道路を補修した記録が出てきます。
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