鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉に城は無い!大宰府 6

2016年05月16日 | 鎌倉に城は無い!


写真は、国土地理院の航空写真で、右上から左下への緑のラインが水城です。
元寇との戦い方から当時の戦闘方法を知れば、守るに有利な砦の考察が出来るのです。
攻め寄せる敵を返り討ちにする為に仕組んだ砦の結果が城遺構となる。

当時の戦いは、人工的に仕組んだ砦は少なく、
自然地形で守るに有利な川を挟んで攻防戦を行う。のがパターンの様です。
川の水が攻撃の速度を落とさせる。動けない者は弓で狙いを付け易い!
大勢に攻められても、敵の動作がノロければ弓矢で狙い撃ちできる。
攻撃側は、不利でも攻め込む必要が有る。
守る側は、守備を固めて相手が川中に入るのを待てばよい。
守る兵は、川の中に入らずに土手で待機する。川の中に敵が入り水中で動きが鈍く動けない敵を狙い撃ちにすればよい。
>自然地形が攻防の主体に成る訳で、この辺りの解釈が鎌倉は『三方が山に囲まれた天然の要塞」と言う話になったのでしょう。
アクマデモ初期の鎌倉の発想です。


その延長の考えに人工的な砦の石築地(元寇防堤)が有るのです。

鎌倉武士は博多湾の岸に20kmの石築地を築き、元寇の攻撃に備えた堰堤です。
この石築地や水城の防御壁の高さは、鎌倉城を考える時の比較材料として参考になる。
敵の攻撃を受ける時は、2~3m程度の高さで攻め込ませる。
町を守る城壁に相当する高さは9mが大宰府の水城方式。
鎌倉の城造りもこれに準ずる考えをした と想像するのです。


コメントを投稿