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母校・盛岡一高や岩手のスポーツ情報、読書感想、盛岡風景などをお伝えします。

昭和50年白堊野球物語(1)-S42佐藤泰久さん作

2013年05月29日 | 白堊野球
私にとって「盛商は一高の永遠のライバル」です。
今の若い人にはピンと来ないだろうと思いますが、昭和50年夏の決勝を目撃した一高生、同窓生は私と同じ思いに違いありません。

あの日、宿命のライバルの一戦に超満員となった県営球場の光景が目に浮かびます。試合後の口惜しさ、脱力感、無力感が甦ります。当時盛商の2年生だった2歳違いの妹と1週間以上口がきけなかったことも懐かしい思い出です。

さて、盛商創立100周年記念野球試合まであと3日となりました。

そこで、盛商と一高のライバル関係を軸に構成され、一高硬式野球部創部100周年時の一高-盛商OB戦にも触れられています「昭和50年白堊野球物語」を3回シリーズでご紹介します。

この物語は、盛岡一高昭和42年卒佐藤泰久さんより白堊スポーツHPに数年前寄稿して頂いたものです。皆様の盛商、一高への熱き思いも寄せて頂ければありがたいと存じます。

では、物語のスタートです。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・・ ・・・

昭和50年の盛岡一高野球部、それは白堊野球史上5本の指に入る強チームだった。私は盛岡一高野球部の戦後第1期黄金時代は昭和24年、25年甲子園連続出場の時代、第2期黄金時代は昭和31年、32年の県大会連続優勝の時代、第3期黄金時代は昭和43年~53年、2度の甲子園出場、県大会準優勝1回、ベスト4が1回、ベスト8が2回のこの時代と考えている。その後は県大会準優勝2回、ベスト8が4回はあるものの黄金時代とは呼べないだろう。

昭和50年のチームのピッチャー林、キャッチャー金野の黄金コンビは後にそれぞれ東京六大学の立教、明治のキャプテンとなるが、盛岡一高時代はそのようなことになろうとは本人も含め誰一人知る由もない。このチームの強さの片鱗は昭和49年秋季新人大会に伺える。

盛岡市大会   ○7-2平舘、○3-1盛岡三
岩手県大会   ○7-3一関二、○6-2一戸、○3-2盛岡商、○9-2高田

と、県大会を制覇、東北大会に駒を進めた。


秋季大会の優勝は8年ぶり2度目であった。夏の甲子園出場8回(当時)を誇る一高が秋の優勝が2度目というのが意外であるが、これが「夏の一高」と言われる所以(ゆえん)でもあるのだろう。東北大会では

  1回戦  ○4-1山形電波
  準決勝  ●1-6日大山形

惜しくもあと一歩のところでで日大山形にセンバツ出場を阻まれたが、東北大会ベスト4、当時21世紀枠があれば選考対象になったであろう活躍だった。さて秋季大会では県大会の一高vs盛商を詳しく見ていこう。

 盛岡商業 001000010 2
 盛岡一高 00110001x 3

スコアから見ても抜きつ抜かれつの白熱ゲームであることがわかる。8回の決勝打は一死二塁に走者を置いて大黒柱・金野の三塁ベース上をぬく二塁打であった。宿敵・盛商との死闘はこれを皮切りに昭和50年春の大会、夏の大会へと引き継がれるのである。


こうしてセンバツまであと一歩の実力を持った一高の前に、春の盛岡に敵は無かった。

春の盛岡市大会:○16-0盛岡北、○4-3龍澤、○9-4盛岡商、○7-1盛岡四

またしても準決勝では盛商と激突したが、文句なく打ち破った。唯一の接戦が龍澤(現盛岡中央)であるところが現在の岩手県の球勢を暗示している。

しかしさしもの我が一高、春の県大会では一関一を四番金野のホームランで4-1と下したが、宿敵黒沢尻工の前に1-4で敗れ2回戦敗退となった。(平舘氏は、秋の大会決勝・対高田戦で金野がホームランを打ったのでは、とのことだったが、高田戦でホームランを打ったのは林のほうで、金野は一関一戦でホームランを打ったというのが私の手元の記録である)

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