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津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

新潟港から寺泊港へ

2013-06-09 | 旅行
本年02.03、佐渡汽船は創立100周年を迎えた。同社は「おおさど丸」に代わる新造船名を一般公
募し、04.24「ときわ丸」とプレス発表した。HPによると、去る4月に日本海内航汽船を「吸収合併」し、
貨物事業部を創設している。その期日は04.02。同社は佐渡汽船運輸を親会社とし、1958(S33).11
設立の嘉志和汽船を最前身とする。12名の旅客定員を持つ「第一越佐丸」(→「第二日海丸」)から
受けた強烈な印象は忘れられない。

長年にわたって越佐汽船の独占を許してきた越佐海上に、佐渡郡民の決意と意志が結晶した
佐渡商船株式会社が発足することとなった。


『60年のあゆみ』はこのように記している。競争排除により、経営基盤を固めた大阪商船や東京湾汽
船の創業と異なっている。
佐渡商船は1913(T2).02.03設立され、用船により04.01から営業を開始した。社史によると佐渡汽船
商会「國東丸」を用船とあるが、これは本間金五郎「第一國東丸」13299 / LMQP。続いて大阪から
用船した「大成丸(150トン)」は、トン数から木村寛一「大成丸」11666 / LHRPと見られ、香港建造「東
雲號」を前身とする。越佐海域に不向きな「大成丸」に代えて用船した「永田丸(149トン)」は梅田潔
「第二十二永田丸」1093 / HGQJと思われる。こちらは「共立丸」を前身とする。



第一佐渡丸 17078 / MNJT、190G/T、鋼、小野鐵工造船所、1914(T3).07



第二佐渡丸(初代) 17086 / MNKH、224G/T、鋼、小野鐵工造船所、1914(T3).08

佐渡商船は1914(T3)新造船2隻を発注し、「第一佐渡丸」09.18、「第二佐渡丸」11.01に越佐海峡に
登場した。この2隻は、同時発注にもかかわらず、船型は異なっていた。
創業時より抱えていた競合問題は、後に設立された越佐商船(前佐渡汽船の後身)を交え、昭和恐
慌下に深刻化した。社史には「新潟汽船(越佐汽船の後身)と当社の間には宿命的ともいえる競争
意識が当社の創立の時点から交錯しており」「共同計算方式をめぐって‥昭和6年に至って新潟汽
船の都合から物別れとなり、競争はますます激しく展開されるようになった」とある。
1924(T13).07新潟汽船は「大國丸」を摂陽商船から購入し、新潟~両津航路に投入した。1930(S5)
までは「第十五度津丸」も所有している。「大國丸」に代え、1931(S6).03.25北九州商船「睦丸」を用
船した。「物別れ」となったのはこの時から。
「大國丸」は中村萬之助所有「第十六萬盛丸」として、中村自らの経営する中村商部造船部(難波島
町)において建造され、後に摂陽商船へ売却されている。



洲本港における「大國丸」。摂陽商船当時と思われる。左に写り込むのは初代「山水丸」。



キャプションに両津桟橋とある。左「大國丸」、右「第十五度津丸」。「大國丸」は新潟汽船のファンネルマーク
を纏っている。新潟汽船(越佐汽船)伝統の船名「度津丸」の内、船影の特定された船は、この船し
か知らない。
大國丸 26165 / RSJG、273G/T、木、1919(T8).09、中村商部造船部(大阪)
第十五度津丸 9979 / LGHJ、98G/T、鋼、1909(M42).08、新潟鐵工所
「大國丸」は新潟港口燈台に差しかかる姿も残している。





今年の梅雨入りは5/14沖縄、5/15奄美、5/27九州四国九州、5/28近畿東海、5/29関東甲信と、
例年より10日程度早かった。その週末、未だ新潟は梅雨入りせず、東進してきた低気圧の影響
も小さい予報となったことから、思い立って上越国境を越えた。



ぎんが



つばさ



すいせい



「日海丸」のバウマークとファンネルマークは塗り替えられていなかった。
日海丸 120125 / JF2163、497G/T、鋼、1996(H8).09、神田造船所(川尻)

新潟の街に宿を取り、新日本海フェリー入港の前、起きがけに山の下埠頭に程近い新潟鐵工所大山
工場跡へ向かった。甘い香りのニセアカシアの花が風に舞っていた。ここで多くの70形電車が解体されて
いった。
最後の廃車回送は1978(S53).11.15。石打から上沼垂まで自力回送され、上沼垂からへDE
10牽引により運転された。この日、新津駅で声をかけて下さった乗務員氏のお心遣いにより、新津
から上沼垂構内まで、クハ76049の助士席に便乗するという、生涯忘れえぬ体験をした。最後の姿を
記録しようと、必死に歩いて探した撮影地は、葉を落としたニセアカシアの印象的な大山だった。住宅地
に変化したを眺め、目を瞑ると、もの悲しい光景が浮かんでくる。



DE10の牽引により、臨港貨物線を大山に到着したクハ76002ほか。右手に広がるは、先に引
き込んだ車両を解体していた。



あいびす 140126 / JD2077、263G/T、アルミ、2005(H17).02、墨田川造船
右手に佐渡島を望みつつ、朝の402号線を寺泊港へ向かう。「あいびす」撮影後、出雲崎町を経由し
長岡市へ向かった。今もお付き合いさせていただいている元国鉄マンB氏を訪問した。昭和50年代に
長岡運転所を訪れたファンは、誰もが氏のお世話になっていると思う。仕事中に突然訪れるファンをお
相手して下さった。B氏と話をしていると、年月の経過を忘れる。数えてみたら、当時10代だった僕も
当時のB氏の年齢を超えている。
数年前のこと、毎夜のベッドを日本海沿いの無人駅のベンチに求めていたとお話ししたところ、B氏は
大変驚かれ、「どうして宿のことを言ってくれなかったのか」と、顔を顰められた。それは丁度、拉致
事件の頻発していた頃にあたり、「人さらいが出る」という噂話が、長岡の街でも囁かれていたとい
う。長岡運転所の70形電車終焉の頃、悲しくも恐ろしい、あるまじき事件は発生していた。

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