マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

糠田王姫はイケイケギャル?

2008-02-21 21:01:27 | 古代史

明日は午前中から大阪へ出張だから更新できません。律儀な私はその分、今夜更新することにします。

さて、本題です。今日は万葉集でも一番の注目される詩の韓国語訳を書いておきましょう。

天智天皇が蒲生野で狩りをなさった時に作った詩 額田王(巻一、二十)

   あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る

【現代語訳】

 茜色に輝く紫草が栽培されている野、天皇が占有されているこの野には番人がいます。その番人たちに見られてしまうではありませんか、あなたが私に袖を振っているのを。それが不安です。
(原文)

   茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

(李氏の韓国語訳)

私の陰部はほてっています。さあやりましょう、禁をおかして、野守りは見ないでしょうね、あなたが私の足を広げるところを

天智天皇7年(668年)5月5日、新都、近江大津宮から1日の行程の蒲生野(がもうの)で、宮廷をあげての薬狩りが催された。薬狩りは鹿の角袋や薬草を採る、夏の宮廷行事だった。この1首は、その折に額田王(ぬかたのおおきみ)が大海人皇子(おおあまのおうじ)に贈ったとされている。

井上靖の小説で、とてもロマンチックに描かれたこの詩が、韓国語で解釈すると、額田王がとんだイケイケギャルであったと言うお話でした。次回はそれに答えた大海人の返歌を紹介します。今日は眠いのでこれだけ。どうして韓国語だとそうなるのかは私には説明できません。

李寧熙氏の「もう一つの万葉集」をご覧あれ。


本当に隠したいことは・・・。

2008-02-21 09:35:10 | 古代史

ダンジリ祭りの考察から始まり、私の研究も大変に困難なところへ来ている。

従来の比較的穏やかな歴史解釈、騎馬民族征服説、これを東大の江波先生が唱えだしたことで、今や日本の歴史研究家たちは、それを基本に日本の歴史を考えている。

そうじゃないんだ、私が発見したダンジリの檀族は日本書紀にも、中国史記にも、朝鮮史にも顔を出さないのだ。でも、間違いなく彼等は日本に来ている。

西暦250年ごろ、邪馬台国は騒乱に明け暮れ、台与という娘を共立し、その後亡びた。この後、邪馬台国がどうなったのか、歴史のどこにも出てこない。出てこないのじゃない、とても書けなかいほど韓半島はひどい目にあっていたのだ。魏の国が晋になる頃、中国(晋)は韓半島への興味を失い、自らも内乱を起こしていた。その隙に鮮卑、匈奴、勿吉などの胡族が華北から韓半島を荒らしまわっていたのだ。(五胡十六国時代)

そして、倭の国(韓半島南部から九州)も彼等に占領されたに違いない。当然、日本の国土にも大量に流入した事だろう。(その証拠は地名に残っている。)

応神天皇が日本を征服し、八つの旗の下に王権を成立させた。これが宇佐八幡だろう。その部族のひとつは物部氏、檀氏・・・、彼等は匈奴・鮮卑・勿吉などの蛮族で、非常に残酷な民族だったはずだ。おとなしい雲南方面から定住してきた農耕民族は戦う事すら出来なかったに違いない。あまりの残酷さに、日本人はそれ以来、外来の民族には逆らわない習性が出来たのだ。今でもだが・・。

これらの蛮族の支配が終わったのは桓武天皇の頃だ、それ以来、死刑は廃止、動物は殺さない、けがれ思想が日本の支配層に定着した。

日本、朝鮮、中国、三国が本当に隠したかったことが、このこと、日本の国がかつて蛮族に支配されていた事、朝鮮が蛮族に蹂躙された事、中国の唐の国が実は蛮族出身である事。この事実を歴史から葬り去りたいのだろう。

色々な研究から少しずつそれが分りかけている。

華北を支配した鮮卑、拓跋族は北魏を建国し、姓を元に変えた。その部族は日本に来て源氏となり、義経はジンギスカンとなり国名を元とした。

おそらく、源族は桓武の頃、都を追われ、関東に定住したのだ。そして、東北地方にはアムール河経由でやってきた部族がいて、藤原三代を築いたが、おそらく都の支配者の一員と同族だったのだろう。そうでなければ藤原を名乗れるはずがない。この仮説を総合すると、義経が東北から大陸に逃れ、チンギスになった経由がなんとなく理解できよう。

むずかしかったかな?

一番肝心なのは、河内にある巨大古墳を、誰が作ったかがわかれば、日本の歴史の大きな謎が解けるということだ。彼等はマナの壺を知っている。その後、勢力を失っている。もう答えはすぐそこまで来ているのではないか。

しかし、研究することが多すぎる。