マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

真弓古墳は誰の墓?

2008-02-18 09:50:51 | 古代史

このところ、真弓古墳を気にしながら万葉集を眺めていた。先日手に入れた小林恵子さんの「本当は怖ろしい万葉集」を読んでいて、とても貴重な情報が手に入った。それは巻二の百六十七の長歌で、日並皇子尊の殯宮の時に、柿本人麻呂が作りし詩とある。

http://www.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/cgi-bin/MANYOU/manyou2.cgi?02/0167

とても長いので、必要なところだけ引用するが、「思ほしめせか つれなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいましみあらかを・・・云々」、とある。日並皇子というのはどこにも存在しないが、この長歌には天武の次に天皇になると思っていたのに死んでしまった。と書かれてある。

ということは、天皇に極めて近い皇子だったと思われる。そして、それが真弓の岡に葬られた。これぞ真弓古墳に違いない。

天武の息子がたくさんいる中で、不審な死に方をして、埋葬場所がわからない皇子を探す事にした。その中に、大江皇女(天智の娘)の生んだ弓削皇子、長皇子というのがいる。

弓削皇子は天皇の後継問題の発言が元で失脚し、死んでしまった。柿本人麻呂は彼を惜しみ、何種かの詩を読んでいる。

弓削氏が気になり、調べてみると河内出身のようだ。これでダンジリと繋がった。さらに大江の姉妹の太田皇女の子供に志貴皇子がいて、河内には志木神社がある。どうも、かの有名な道鏡は志貴皇子の子供らしい。(うわさであるが・・)

詳しい証明は困難であるが、すべては一本の線で繋がった気がする。

弓削皇子は弓であるから、檀であり、ダン族である。そして、志貴皇子と連携した可能性が強い。その後、道鏡は天皇になることに失敗し、弓削氏の野望はすべて潰えたのだ。

結果、真弓古墳は名前を消されてしまった。柿本人麻呂はそれを哀れんで、詩を作り、真弓古墳が高貴な人の墓であることを後世に伝えようとしたのではないか。

どうであろう、推理としては悪くないと思う。ただ、証明が困難だな。一応、せっかくだから発表しておこう。新聞の報道よりは正しいと思うな。

この時代はすさまじい権力争いの時代であり、日本書紀に正しく歴史が記録されたとはとても思えない。いずれにしても、とてもややこしいところを急いで書き上げたので、後日もう少し丁寧に説明したい。