マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

鬼塚氏名古屋へ

2008-02-13 09:56:53 | 古代史

私の師匠、鬼塚さんが所用で東京から帰る途中、名古屋で一泊してもらう事になった。

実は三年ほど手紙のやり取りをしていた仲なのだが、お目にかかったことはない。しかも、携帯もパソコンもないアナログ人間。どうやって落ち合うのか今から悩んでます。今夜は名古屋名物のひつまぶしでもご馳走することにしよう。

さて、万葉集です。昨日ネットで探してみたが、原文を見られるところは意外と少ない。しかし、絶対に原文を見なければだめだ。意味がわからなくても、絶対に原文を見る必要がある。

なぜかを説明しよう。

(原文)

樂浪之  思賀乃辛碕  雖幸有  大宮人之  船麻知兼津 (過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌)反歌

(読み下し) ・・・ネットで探しました。

楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ

((現代訳)・・・ネットで探しました。

 ささなみの志賀の唐崎は元のように何の変わりはないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊びをした大宮人もいなくなった。それゆえ、その船をいくら待っていても再び見ることはできないのだ。

問題は、枕詞とされている、楽浪だが、さざなみと読んでいる。この枕言葉は、高市皇子の歌の中に何回も出てくる。楽浪と言えば、遼東に設置された郡名ではないのか。志賀を近江と決めつけ、亡びた楽浪からヤマトへ向かう高市皇子の嘆きを、さざなみと言い換え、あたかも近江を懐かしんだように偽装したのではないか。

また、滋賀に唐崎という地名があるのだろうか。大宮人は、私にはわからない。

上の詩は柿本人麻呂が高市皇子に返した歌だ。元の高市皇子の歌(原文)は、

古  人尓和礼有哉  樂浪乃  故京乎  見者悲寸 (高市古人感傷近江舊堵作歌  [或書云高市連黒人])

(訓読)いにしへの、ひとにわれあれや、ささなみの、ふるきみやこを、みればかなしき

(私の勝手な訳)私が好きだった楽浪の都もここと同じように、落ちぶれてしまった。見るものはみんな嘆いているよ。

その詩に、柿本が慰めて、「楽浪も、志賀の辛崎も、あるにはあるけど、都人はいないよ。」と慰めたのかな。

ぶっ飛び訳で申し訳ないが、高市皇子が高句麗人(百済人?)と知っていれば、当然、楽浪を地名と考えるだろう。読み下しで、「ささなみ」と訳す神経には恐れ入ってしまう。

「楽」がどう読むと、「ささ」になるのだろうか。細波がさざなみでしょう。

枕詞として、「楽浪」を「ささなみ」と読まされている人に、日本史の真実は絶対に見えてこない。皇族が朝鮮(楽浪)から渡来した事、遼東に朝鮮人がいた事を隠したい日本の学者は、絶対に楽浪を地名とは認めないだろうな。学者と言うのはそんな程度だ。