マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

邪馬台国、卑弥呼の本当の名前?

2008-02-05 10:06:47 | 古代史

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先日から、まゆみさんのHPで邪馬台国が盛り上がってしまった。昨日は、邪馬台国と卑弥呼は、中華思想で凝り固まった中国が名づけたんだから、本当の名前をマヨ博士に聞いてみよう。などと書かれていた。

「そんなこと俺に聞くなよー」って言いたいけど、マニアとしては無視できない。できる限りは答えなければ・・・・。

結論から言うなら、やっぱり分らないだな。聞いたままの音を中国の言葉に置き換え、その中でもっとも侮辱的な表現をしたのだと思う。しかし、「やまたいこく」と言う国名があったかどうかすらわからない以上、中国人が勝手にそう呼んだ可能性は捨てきれない。それにしてもひどい表現だ。しかし、匈奴なども国の名前に「X」をうたれている。

大体が、われわれ日本を「東夷」と呼び、野蛮人扱いだったのだから。

まずは、邪馬台国。「邪」の字、中国語辞典をみると、「や」ではない。発音は xie、意味は、よこしま、奇怪・・・。もちろん、この国を最大限侮辱しようと言う中華思想からだが、少なくとも、「ジャー」の発音に近い。馬は「ま」、台は「たい」、通して言うと「じゃまたい」かな?

これを「やまたい」と言うのはいささか無理で、大和につなげようとする日本の歴史家の陰謀だろう。

また、後漢書は実は魏志より後に発刊されたもので、魏志のウソを知っていたので、わざと「台国」を「壱国」と表記した。つまり、魏志倭人伝の通りに行っても邪馬台国はありませんと宣言している。(到ると書いてあるのを至るに変更している。)

卑弥呼はやはり、卑しい名前だ。これほど侮辱されれば戦争になってもおかしくはない。

魏にとって、卑弥呼はその程度の人だったわけだ。

「日の巫女」、で天照大神に比定する人もいるが、それは違う。同じ魏志倭人伝の中に、狗奴国の男王「卑彌弓呼」(ひみきこ)が出てくる。これが男なのだから・・・。

さて、これからがむつかしい、「契丹古伝」の第三十七章に辰国が出てくる、少しだけ引用しよう。原文はむずかしいのでなるべく簡略して書きますが、

「さて、辰国は昔から続いてきた。神祖のあとに「辰云謨率(しうむす)」氏あり。・・・・略・・・「辰云謨率(しうむす)」氏、に子があり、その兄の子孫が「日馬辰云(びばしう)」氏 となり、弟の子孫が「干霊辰云(かるしう)」氏となった。干霊(かる)はわかれて干來(から)となり、遠く海を渡り、高令になった。・・・略・・然れども、今はどうなったかわからない。

そのなかで繁栄してきたものがいる、絶頂なのが、「あめしう」氏となった。もと「東表」の「謨率(むす)」氏の出身で、殷と婚姻を結び、国を「賁弥辰云(ひみしう)」氏に譲った。「賁弥(ひみし)」立って日もたたないうちに漢寇方に薄り、その先、「きふた」に入る。撃って之を退く。・・・・・云々」(難しくて申し訳ない、私も十分に判らない。)

卑弥呼の存在は、日本の史書ではまったく出てこない中、唯一、この幻の史書にそれらしい名前を発見した。この「ひみ」氏は馬韓の滅亡とともに亡びた。

この人が卑弥呼とすると、卑弥呼はおそらく三韓の中の馬韓にいた。公孫氏が遼東で魏に亡ぼされたときに、卑弥呼は魏に降伏したのだろう。魏はそれを宣伝に使い、とても大きな国に見せたのだ。その位置関係は図に示そう。戦略的に重要だった邪馬台国は許され、魏に朝貢し、魏帝は卑弥呼に対し哀れむように言葉をかけた。

魏志には238年に朝貢したとあるが、これはうそで、本当は公孫氏が亡びた後に朝貢した。

だから、他の史書には正しく239年に訂正されている。

倭の国が日本ではないという私の主張を信じてもらえない人に、邪馬台国が北朝鮮にあったなど、とても信じていただけないだろう。これは私がサボっているからで、もう少し時間がいただきたい、いつか必ず証明する。

私の歴史研究の中で邪馬台国の存在はとても小さなもので、取るに足らない国だと思っている。なぜなら、ほどなく卑弥呼は死に、その後、トヨが立ったものの、国は消滅し、遺跡すら発見されていない。たいした国ではなかった証拠だろう。なのに、日本歴史の中で邪馬台国の扱いはとても大きい。少しだけ考えを変えて、倭が日本とは限らないと知るだけで日本の歴史が見えてくるのに・・・残念な事だ。

上の図は現時点での私の描いた韓半島である。今後修正する可能性は大きいが、おおむね正しいものだと確信している。

非常にややこしい話ばかりで申し訳ない。本当は研究室に発表するべき内容なのだが。

ブログでは限度がありますので、今日はこのぐらいで勘弁してもらおう。