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松本さんの絵  第145◎翌日はKCIF 京都国際交流のオープンディに朝の10時から手伝いに行き

2013年01月04日 14時11分08秒 | 日記

 matのブログ-252 

図253  2010年11月04日(木)

       後藤謙次って


 そう、テレビでときどき見る有名な人です。もとは通信社の編集局長ですから、創立記念日にも来ます。1700人近い会社なので、総会のあとの宴会でOBが400人ほどいますので、気が付かないですが、教えられるとすぐそばでした。話題は何なんだろう、顔はテレビとそっくりとか、少し気になりますが、本人も含めて皆さりげないのがいいです。JAICAでチリに2年海外援助協力にいって、帰ってきた元支局長に会いました、ぼくもJAICAで暖かい国へ二年間ほど協力したいなと思いました。ぼくのKCIFの日本語チュータとはちがって、かなり力がいると思いました。ほかにも活躍の方はおおぜいみえますが、ぼくは詳しくしりません。立食は6時から2時間ほど、今年もお仲間の皆さまに失礼してしまったけれど、来年は二次会に参加するので、あしからずと、早めに引き揚げることに、かって地方勤務なら牢名主になるのがいいと、活躍をすすめてくれた大先輩の元関西支部委員長と、2ヶ月先輩の計三人で霞ヶ関を出たところで、ビールを飲みなおししました。ビールをのみなおすと頭に浮かぶのは、今年亡くなった現役、OBの人たちの事です。ワンゲル仲間で常念岳にも白馬にもいっしょだった人、なんで亡くなったのだろう?さみしいな。名古屋支社でいっしょだった部長は僕より若いのになんでだろう?

翌日はKCIF 京都国際交流のオープンディに朝の10時から手伝いに行きました。6時から慰労会のようなものがあって、これも立食でした。規模は80人ぐらいで、缶ビールとか巻きずし、キャラメル、チョコ、せんべいなどでしたが飲み食いに気を遣わないので、十分に話ができました。こちらは僕が新人なので、先輩の皆さんに気をつかいますが、知り合いがふえるのと同時に名前を忘れるわけにいかないのが、むずかしいです。


松本さんの絵  第146◎日系2世は、日本人ではないけれどアメリカ人ほど異国人ではない気がします

2013年01月04日 14時08分16秒 | 日記
matのブログ-256 

図254  2010年11月08日(月)       

          99年の異国人

  TBSの Japanese American はついつい最終回までみました。日系の日本人は、戦時中、散々な目 にあったんだなあ。ずいぶん前の事ですが、僕の知ってる日系の内間さんはハワイ出身でした。第二次大戦で戦ったそうだから、ドラマのような442部隊にいたのかもしれません。外国の通信社の記者でしたが東京支局に来た当時は、日本の習慣があわない、言葉が分らない、毎日イライラしているようで、何かにつけて日本人に、怒ってばかりいる人でした。僕は海底ケーブルの通信線を保守していたので、回線が故障すると、ずいぶん文句を言われました。ある時怒りがおさえきれないようで、お互いの腕をぶつけて気を晴らそうと言ってきました。利き腕を立て、左右に振って打ち合うのですが、けっこう痛かった。交差して打ち合うのもあるようですが、それでは真剣勝負になって、どちらかのもろい腕が折れるかもしれません。僕は若かったので、案外平気でしたが、内間さんは50才を過ぎていたので折れるなら内間さんと思ってました。ただ内間さんの腕は、ぼくより、ふたまわりほど太く、筋肉もありました。メッセンジャーボーイが中に入ってやめましたが、そんな事があってからは、以前とは違って、僕の気心がわかったような安心した顔をするように変わっていきました。いま思いだすと、日系2世は、日本人ではないけれどアメリカ人ほど異国人ではない気がします。

 当時はテープに穴があいたものが、際限なく出てきて、巻き取りに遅れると、ワイヤールームの中がテープで足の踏み場もなくなります。テープは巻き取って、モデル50に入れると印字されて、海外のニュースが英文で読めます。そういう事をするのは、英字記者の補助で採用された若い人でした。     東京支局では英文科を卒業した大学生や、英文タイプの経験のある人を採用していましたが、大半は若い女子社員でした。

ワイヤールームで巻き取りに手間取ると、テープと格闘します。暇なときは、少し巻き取りを手伝いましたが、若い子は、本業のタイプをする前の雑用ですっかり消耗してしまい、気の毒なくらいでした。原因は回線の乱れなどで一度とまり、再びテープが出ると、巻き取りに失敗する事が多かった気がします。静止衛星に移り、その後は回線の故障は格段に少なくなりました。いまは、ホットラインなど特別な用途以外は、インターネット網で間にあう時代になりましたけれど。


松本さんの絵  第147◎日本人で変な人はそのまま変わりものが多そうですが

2013年01月04日 14時03分59秒 | 日記

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図255  2010年11月12日(金)

        路上パーフォーマンス?


   この忙しいのに、暇なことをして、ふつうなら、誰も気にしないで通り過ぎるはずですが、なぜか立ち止まる人。東京の下町を歩いているとこんな場面に出くわしました。急ぎ足で道を横断する寸前で、動きの止まった外国人がいます。そして、小銭を入れてくれるまで、全く動きません。一日いくら稼ぐのだろうか、その稼ぎで世界を旅しているのだろうか、アーティストで、普通の人とは価値観が違うのだろうか。わかりやすくいえば、変なひと。きょうの宿泊は、安くて、いまはやりのゲストハウスだろうか、いちどそんな宿に泊まって、いろいろな国から来た変な人の集まりに入って、話をするのもおもしろいかも、と妄想がふくらみます。日本人で変な人はそのまま変わりものが多そうですが、外国人はアーティストにちがいない、しかし、中身は普通の人と思うけれど、それは僕の偏見かもしれません。


松本さんの絵 第212◎加藤氏によると、こんな天候の際には這い松の下を掘って、雪洞をつくり

2013年01月03日 19時56分38秒 | 日記




図323  加藤文太郎編  最終

  上高地の主といわれた山小屋番の話です。日本アルプスと呼ばれ始めたころから、大正、昭和になると、上高地に近代的なホテルが建ち、小屋番は、山岳警備の役も兼ねて登山者の指導もするようになったそうです。大正池に隣接する帝国ホテルの管理人で、木村小屋の主であった木村殖の回顧録を読みました。小林喜作親子の遭難のこと、国立公園に建てた穂高や、槍に建設した山小屋の話、遭難、自殺、転落事故などで死んだ人は、ヘリのない時代には大正池に流れる沢筋で荼毘に、遺骨はそこに埋めるしかなかったとの事です。

その数は木村氏の知る限り、当時すでに500体を越すのだそうです。いまはヘリ出動で、回収しますが、回収不能でよく年の春になっても見つからず、その数も入れるとかなりの数と思います。なので、上高地や飛騨側の沢水は飲めませんと、標識があると思います。木村さんは多くの山男をおぼえていて、昭和5,6年の忘れられない人に加藤文太郎を挙げています。彼は孤高の人として、新田次郎の物語に登場しますが作った話より、わたしは加藤自身が書いた「単独行」、事実にもとずいて書かれた谷甲州の「単独行」に興味があります。

木村氏によると、厳冬の二、三月にひょっこりと小屋を尋ねてきて「これから槍、奥穂をまわって、徳本を越えて帰る」と一週間ちかくの行程をポツリポツリ話したのだそうです。ガッチリした体格で日焼けした顔は、いかにも根っからの山男に見えた。予定を過ぎても上高地に帰ってこなかったことがある。「さあたいへんだ、あの加藤さんが、やられちまったかも知れない」ということで大騒ぎとなった。嘉門司の弟子にあたる、常、庄吉、それに蒔き切りであがっていたベテラン八人ほどで、捜索隊を編成した。

以下は、木村殖の回顧録

目も開けられないほどの猛吹雪の中を進むと、向こうから黒い影が近づいて来た。

加藤文太郎 「どこへ行くのですか?」

常、庄吉 「どこへ行くかではありませんよ、何しろ予定を三日も遅れて、てきっり遭難かと、加藤さんを捜しにきたんですよ」

加藤文太郎 「どうも申し訳ありません。しかしぼくは大丈夫ですから、今後もし日程が遅れたとしても、絶対に捜しに来ないでください。おねがいしますよ。

ぼくに限っては、絶対に特捜隊をださないでほしい」


加藤氏によると、こんな天候の際にはハイマツの下を掘って、雪洞をつくりリュックの荷物を全部出して、腰から下をリュックのなかに入れるのだそうです。上着はカモシカの毛皮のチョッキを着て、頭は自分で考えた頭巾をかぶります。目の部分は透明のセルロイド張りの窓が開いているものだそうです。のちに、冬季、槍、北鎌尾根で連絡が途絶えたとき、数週間たっても加藤文太郎が、ひょっこりもどってくると信じていたそうです。北鎌尾根から雪の崖の斜面を千丈沢の底に転落した事がわかったのは、翌、昭和11年4月、春の雪解けの頃でした。

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松本さんの絵 第213◎黒い塊が、鳥に向かって、放物線を描いて襲いかかりました。

2013年01月03日 19時54分03秒 | 日記

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図324   2011年09月21日(水)

     それなりに知恵はありそう

 

暑いなつも峠を越したようです。この夏に、悩まされたのは、暑さではなく

鳥のフン公害でした。広い敷地のよりによって、私の駐車番号の上が、鳥のトイレらしいのです。当然白い車の上に、毎朝 大きな 公害がくっついています。公害は泥のような感じで、洗車してもそのあとブラシで、こすらないと、きれいになりません。2,3日放置すると、かなり接着力が増します。

で、枝を落とす作戦に出ました。つり竿の先に、ノコギリ を取り付けて

下の枝から、切り落としました。枝の太さが4,5センチあるので、切るのは楽でありません。翌日の朝、期待に反して黒い泥状のものが、白いボンネットに、たくさんついていました。さらに上の枝を切り落としました。

翌日は、泥の落ちる位置がずれたくらいで、変化なし。真上の枝を、切り落とすことにしましたが、高くて難易度が高くなりました。翌日は、泥の量が、わずかに減りましたが、やはり上の枝に止まるようです。

その枝はさらに高くなりました。全部で7本ほど枝を落としたところで、真上の枝葉はなくなりました。しばらく様子を見ることにしましたが、その後泥は

落ちてきません。鳥たちは、どこかほかの場所を開拓すると思います。

9月になってようやく解決しました。気がついたのですが、作業をしていると、どこからとなく鳥が来て、見物します。現場を見ないので犯人とは断定できませんが、腹が立つので、仕返しをしたくなります。

古いゴムちゅう、というものを作ったことがあります。Y 字の形の、木の股を切り出して、左右にゴムをつけて、石の弾丸を飛ばすものです。

練習すると、石なら10米や20米は飛ばして、標的に当てることも出来ます。こんかいは脅かすつもりなので、硬い木の実(椿の実)をつぶして、

鳥に狙い定めて、打ちました。瞬間、パシッ、ヒユーと鞭を打つような音とともに、黒い塊が、鳥に向かって、放物線を描いて襲いかかりました。

驚いた鳥は飛び立ち、数日起きに、数回繰り返すと、そのご近くの木に寄りつかなくなりました。これまで迷惑をかけられたお返しが出来て満足しました。鳥はそれなりに知恵があって、フンが白い車のボンネットに落ちるのを楽しんでいたのでは。