経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、井上馨

2011-06-16 04:15:20 | Weblog
    井上馨

 井上馨、通称聞多(もんた)は1837年(天保6年)に周防国吉敷郡湯田村字高田で生まれています。毛利家13代藩主敬親が襲封して、村田清風による藩政改革が行われる1年前です。先祖は100石の扶持をもらっていたとか言いますが、馨が生まれた時、生家は1町余の田畑を持ち、耕作して暮らしていました。父親のしつけは厳しく、家事労働と耕作の合間に教育が行われました。17歳藩校明倫館に入ります。19歳220石取りの志道家の養子になります。この年ペリ-が浦賀に来航しています。井上家も志道家も毛利元就以来の旧家名門です。もっとも馨は後に井上姓に復しています。
 蘭学研究を志願します。江戸で師匠につき学びます。藩主や世子の小姓に任じられます。当時小姓というと側近予備軍です。ペリ-来航以後洋学の方向は大きく変わります。蘭学をやめ英学を学ぶものが激増します。馨も同様です。英学英語を学びました。もっとも当初はまともな本がない状態ですので大いにこまりました。一方高杉晋作と交際し、次第に攘夷論者になってゆきます。しかし馨の攘夷は、武備を整えての攘夷です。武備を整えるためには外国から学ばねばなりません。結局開国ということになります。このように馨の意見は合理的で固執せず、やや曖昧で融通の効く傾向があります。
 洋学修行というので藩は馨他に英国渡航を命じます。井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉の、総勢五名でした。渡航費用は一人1000両、五人で5000両です。どうやって捻出するか?藩が買う鉄砲代金を担保にして御用商人から5000両借り入れました。この辺の事情はよく解りませんが、一藩士にこんな駆け引きができるという事は長州藩の機構にかなりの緩みがあったのでしょう。また馨は藩命で汽船を12万ドルで購入しています。商人の補助があってのことですが、こうして馨は取引のコツを覚えてゆきます。また信じられないことですが、この間高杉の提唱で某国公使暗殺を企画しています。馨もまた英国に同行する予定の山尾もこの企てには賛成しています。忙しいことです。
1963年(文久3年)五人は英国へと出航します。5-6日で上海に着きました。上海は英国他の欧州列国が作った町です。その繫栄振り、特に汽船の多さに馨は圧倒されて攘夷は無理だと考えを変えます。英国についてかの地の様を見て、彼我の文明の差を知り、同時に倒幕を志します。幕府に恩のない長州としては、統一国家は幕府以外の組織であるべきだと、思ったことでしょう。英国についてしばらくして、長州が関門海峡で外国船を砲撃し国際問題になっていることを知り、滞英4ヶ月で馨と伊藤は日本に帰ります。正使高杉以下の談判委員の一人として、外国艦隊との交渉の通訳を務めます。この間馨は反対派の刺客に襲われ身に30数箇所の傷を負い、九死に一生をえています。高杉の一派として狙われたのでしょう。彼はすでに公然たる開国論者になっていました。
 明治維新。馨は長崎県判事になりました。同時に外国事務方も兼ねます。伊藤博文は兵庫県判事、五代友厚は大阪府判事になります。以上の三府県では(他に東京、横浜、函館なども)知事や判事は単なる行政官ではなく、同時に外交官も勤めました。これらの都市には港があり外国と交易をしています。為替相場、関税、密輸出入防止、外国人犯罪取締り、外人と内地人のトラブルなど国家の運命そのものに直結する事務があります。そしてその事項の多くは経済問題でした。特に幕末維新の混乱で幣制は乱れており、外国からの抗議は殺到していました。こういう中、諸外国とのやり取りで実務を磨かれ台頭してくるのが、革命の第二世代伊藤、井上、大隈、江藤達です。長崎県判事の時代、馨はキリシタンに極めて寛大な意見を提案しています。別に彼がキリスト教徒であったわけではありません。外国と仲良くしなければならない、と信じた開明派であったからです。はっきりと反攘夷であり、廃刀を主張しました。明治初年このようなことを言うのは非常に危険です。薩長土肥それに旧幕臣の多くは攘夷を非現実視しましたが、他の藩の武士には過激な攘夷派が多かったのです。横井小楠、佐久間象山、大村益次郎達はその犠牲者です。
 明治2年大隈重信が大蔵大輔になります。次官ですが、実質的には長官です。翌年馨が同職につきます。部下の中に渋沢栄一がいました。明治6年の政変で馨は辞職します。渋沢も袖を連ねてやめます。馨の辞職の理由は一つには尾去沢銅山事件です。これを司法卿江藤新平に糾弾されてやめたといわれています。もう一つの理由は政府の貨幣政策への批判です。新政権はお金が要ります。太政官札はじめ信用のない紙幣がどんどん出回りました。馨と渋沢はこの方針に抗議して、つまり健全財政を主張して辞任したようです。
 馨は少なくとも一つの悪事を行っています。尾去沢銅山事件です。この銅山は現在では秋田県に所属していますが、当時は南部盛岡藩(岩手県)に所属していました。南部藩は土地の豪商村井茂兵衛に採掘権を与え賃貸ししていました。維新の戦争で南部藩は負け、70万両の大金を新政府から要求されます。やむなく藩は銅山を外国資本に売ろうとします。南部藩は結局銅山売却を破棄し、25000両のペナルティ-を支払わなければならないことになります。一時期村井が借金して立て替えます。藩はこの金を村井に返します。この時封建制度の慣習で、返却ではなく内借という形の文面になりました。「一金25000両、右内借奉つり候事実証也」の文面になりました。中央政府はここに眼をつけます。内借金25000両を即返納し、新たに採掘権料55400両の即納を迫ります。村井が5年間の年賦を申し出ても、政府は意見を変えません。そして村井の資産を差し押さえ、銅山の採掘権を公募します。岡田という人物に政府は指名入札させ、20年年賦を許します。狡猾な民間資産の没収です。岡田という人物の背後に馨がいるということは公然たる事実です。司法卿江藤新平は馨を追及します。江藤の調査では馨はほぼクロでした。やがて政変(征韓論)が起き、江藤は野に下り事件はうやむやになります。
 もう一つ馨は悪事をしています。彼は大阪の藤田組に大きな影響力を持っていました。あるとき大量の偽札が発見され、藤田伝三郎以下の藤田組が疑われます。藤田は逮捕され厳しい尋問を受けます。藤田はあくまで否認し、容疑未確認のまま釈放されます。偽札事件の黒幕は馨だと言われました。事件の真相は解りません。大久保利通なき後の薩摩閥凋落に焦った一派の仕組んだ陰謀とも言われます。自殺者、内通者がでました。大阪市民の多くは事件はあったと思っていました。
 馨は少なくとも三つの企業群の創始者と言えます。最初の二つは三井組と藤田組です。馨は官を辞して、先取会社という組織を作りました。租税である米の徴収と運搬そして換金などを政府に代って代行したり、他の国産物の運搬と売買を行う、いかにも封建経済から自由経済に移行する過渡期にあるといった感じの会社です。やがて馨は政界へ復帰します。後を東京では益田孝に任せます。益田は馨の援助の下に、三井組と資金提携して会社を経営します。これが三井物産の濫觴です。益田は三井と提携しましたが、事実上は彼の単独経営で、益田は会社の利益の何%かを受け取るという、請負方式でした。少なくとも明治10年代までは。大阪で益田の役割を担ったのは藤田組です。益田孝と藤田伝三郎に関しては既に列伝で取り上げています。
 例の尾去沢銅山はやがて大阪の藤田組の経営に任されます。あまり成績の良い銅山ではありませんが、藤田伝三郎の甥である久原房之助が新工法を用いて再開発します。さらに久原は藤田所有のこの銅山から手を引いて、茨城県日立の鉱山を再開発して一山当てます。久原のこの新規一転の試みを援助したのが馨です。日立鉱山から日立製作所が派生しました。久原と小平に関してはすでに列伝があります。こう見てきますと、馨は三井と日立という日本を代表する大企業の創設に深く関連していることになります。藤田の方は人材を欠いたためか、大阪のロ-カル企業に留まっているようです。
 井上馨といえば明治10年代後半における鹿鳴館外交が有名です。これは表面を衒って外面を飾り、形だけでも西欧列強に追いついたような体裁を見せて不平等条約改正を有利に運ぼうという魂胆と言われますが、馨が「国境のために限られざるの交誼友情を結ばしむるの場」として外交を展開した事も事実です。明治14年の政変で大隈が追放されます。財政は松方が担当し、不況という痛い犠牲を経て経済が安定しつつあった時代です。だから鹿鳴館外交のような優雅な外交が展開できたともいえます。結局外国人判事の問題で井上は非難され退陣します。治外法権の問題はさらに、大隈、青木、榎本、陸奥などの外交担当者を経て解決されます。
 馨には悪い噂が絶えません。一つは茶器の蒐集です。単なる蒐集ならいいのですが、欲しい名器があると無理やりにでも強奪に近い形で持って行ってしまうことです。ですから茶器愛好家は馨の耳に入る事をおそれたといわれています。もう一つは藤田家の相続への介入です。藤田伝三郎の死後の相続は馨が取り仕切りました。そして一切藤田家の意見を聴きませんでした。
 1915年(大正4年)死去、享年78歳。明治政府は明治4年にできた薩長連合内閣に土肥の人材をいれ、参議に最終的決定権を与える、有司専制により政権の形を整えます。征韓論や自由民権運動で有司の一部が脱落する中、この政権の中核を担ったのは長州閥、特に、伊藤、山県、井上馨の三人でした。馨は首相にはなりませんでしたが、外相としては何回も入閣しています。
 井上馨には以前から興味を持っていました。彼を経済人に入れないわけにはいきません。そして手にいる資料が非常に少ない。あれこれの資料を継ぎ足ししてこの小論をまとめました。馨を経済人列伝に取り入れる理由の第一は、彼が長崎県判事から大蔵大輔にいたる経路で、その時代の経済問題に取り組み、試行錯誤の中で彼の財政家としての感覚を築いてきたという経歴です。彼は明治6年に辞任しますが、彼の経済人としての主旨は通っています。貨幣量増大への危機感です。また馨は渋沢栄一と4年に渡り大蔵省で共同作業をし、同時にやめています。以後渋沢は民間に出て事業を経営する一方福沢諭吉と並ぶ明治財界の指導者になります。渋沢の背後に馨がいなかったとは考えられません。退官後先取会社を創立した事も経済人として評価できます。近代的とはいえませんがともかく会社です。馨が作ったこの会社は、三井と日立という日本を代表する大企業の創設に連なってゆきます。最後の理由が、彼が多くの会社の顧問を兼任し、利権をむさぼり貪官汚吏の代表と言われ日本悪人伝にも登場していることです。この非難のかなりの部分は当たっているでしょう。三井物産の創業者とも言え、同時に藩閥政治の実力者であった馨には、事実か否かはともかく、この種の悪評は避けられなかったでしょう。しかし貪官汚吏も経済行為のうちです。特に馨のように表の事業で成果をあげれば、裏稼業の能力にも魅力を感じさせられるというものです。経済行為とは所詮は利権を追う作業です。井上馨の行動の中に幕末維新そして明治という時代を生きぬいた、骨太い経済人のエネルギ-を感じさせられます。 

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  悪人列伝(近代編)     文芸春秋社
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