経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、石橋正二郎

2010-12-31 03:24:29 | Weblog
     石橋正二郎
 ブリジストンタイヤの創業者です。正二郎は1889年(明治22年)久留米に生まれています。家系はやや複雑です。久留米藩士龍頭民治の子徳次郎は母方の伯父である緒形安平の経営する仕立物屋「しまや」に奉公にでます。徳次郎(初代)は安平の妻リウの実家、久留米藩石橋家を継ぎます。初代徳次郎に二人の男児があり、兄が重太郎(後徳次郎を襲名)、弟が正二郎です。二人はしまやの経営を任されます。正二郎は生来病弱で内気な子供でした。利発で成績はトップ。兄徳次郎は対照的に、腕白のスポ-ツマンタイプ、勉強は嫌いな方でした。兄弟仲は良く、それぞれ分担してしまやの経営にあたります。
 正二郎は高等小学校卒後、久留米商業学校に入ります。この間、一部生徒により企てられたストライキに、少数グル-プとして参加を断固拒否した逸話があります。自分の意志に忠実で言い出したらきかない性格が現れています。久留米商業時代の同窓に、政治家石井光次郎がいます。正二郎は神戸高商をめざしましたが、父親の反対で断念します。正二郎としては、たかだか田舎の仕立物屋経営に男子二人は要らない、という所存でした。
 こうして正二郎は兄徳次郎とともに、しまやの経営に従事することになります。積極的に経営を引っ張っていったのは正二郎の方です。始めから、一介の仕立物商で留まるつもりはありません。どんどん新企画を実施します。まず製造品を足袋に特化します。店名も「しまや足袋」になります。それまで借金経営を一切拒んできた父親の方針を改め、銀行からの融資を受けることにします。この件では父親と対立しますが、押し切ります。徒弟に給料を払います。当時徒弟は商売を教えてもらう立場ですので、正式の給料支払いは破天荒な企てです。正二郎には、この破天荒な企てが実に多いのです。彼の事業家としての特徴は要所要所で思い切った決断をして躍進することです。その最も端的で代表的な例が、タイヤ製造です。
しまや足袋では行商もしました。足袋製造業者で行商をするのは珍しい試みでした。行商の主な狙いは宣伝です。自動車を購入し、九州中を宣伝して行商します。まだ全国で車が1000台あるかいないかの時代のことです。もちろん久留米では最初の自動車所有者でした。社名も「アサヒ足袋」に変更します。より印象の深い社名にしてブランド化を狙います。足袋のサイズに応じた価格を廃止し、均一価格にします。こうして無駄な作業を省きます。均一価格は当然です。足袋に必要な布地の量は知れています。製作に必要な労働と技術がコストの大半です。大人の足袋も子供の足袋も制作費は変わりません。均一販売は当然の合理的措置ですが、当時の足袋商は旧来の慣習を墨守していました。父親の堅実(従って保守的)経営にくらべて、恐ろしく斬新で積極的経営です。
 1919年(大正7年)久留米に洗町工場を作り、社名を「日本足袋」に変更します。この間東京と大阪に進出します。事業規模は拡大し足袋業界では四天王の一角にランクされるほどになりました。第一次大戦では恒例にもれず大儲けします。仕舞い時を忘れず手堅く対応しますが、戦後の反動不況で四苦八苦します。1000名の従業員を雇用し、100万足の足袋の在庫を抱え込みます。ここで正二郎の一大決心が行われ、苦境からの前進突破が試みられます。地下足袋の製造です。正二郎の経営者人生において一番光るのは、この地下足袋製造への飛躍です。地下足袋はゴム製品です。こうして後年のタイヤ製造、高度な製造業への基礎が築かれます。
 1921年(大正10年)縫いつけ式地下足袋を発売します。足袋にゴムの底を縫いつけたものです。激しい労働に縫いつけが耐えず不人気でした。2年後はりつけ式地下足袋を発売、足袋に粘着財でゴム底をはりつけたものです。これは非常に人気が高く大いに売れます。ここで地下足袋なるものの紹介をしておきましょう。現在ではあまり用いられませんが、昭和30年ごろまでは、農作業や工事現場、炭鉱など激しい肉体労働をする人は地下足袋を着用していました。地下足袋が出現するまではわらじをはいていました。わらじはわら(稲の茎)で編みます。丈夫なものではありませんし、防水もできません。正二郎が地下足袋を発売するまで、似たような物がありましたが、実用的ではありませんでした。正二郎は改良に改良を重ねて、はりつけ式地下足袋を作りました。当時は第二次産業革命の進行中です。あちこちで工場やビルが建ちます。更に軍隊という大口需要があります。鉱山と電気工事に従事する者は地下足袋着用が義務化されました。前者ではワイル氏病の予防のため、後者では感電を防ぐためです。加えて関東大震災です。東京中が工事現場になったようなものですから、地下足袋は加速度的速さで売れました。大正3年工場が火事で焼けます。すぐに鉄筋コンクリ-トの新工場を建てます。ヘンリ-フォ-ドに習って流れ式作業を取り入れます。1932年(昭和7年)には地下足袋の年間生産は1000万足を超えました。この間第一次大戦で捕虜となったドイツ人技師を雇って技術改善に努めます。当時(現在でもそうですが)ドイツは技術先進国でした。地下足袋生産への飛躍は正二郎の時代を見る目の確かさを示しています。社名は「日本ゴム」になります。
 1928年(昭和3年)ゴム靴製造を開始し、福岡に新工場を作ります。1931年にはゴム靴の輸出数量は3400万足を超えます。ゴム靴製造では日本がアメリカやドイツを抜いてトップに立ちます。昭和5年兄徳次郎が相談役に退いて、正二郎が日本ゴムの社長になります。徳次郎は経営を弟に任せ、自身は市会議員、商工会議所会頭、名誉市長を歴任し、久留米という地域の発展に尽力しています。この間代理店網を整備し、専売店を作り、価格統制と区域統制を行っています。販売店が勝手に価格を変更し、よその店の縄張りを荒らしてはいけないということです。この点は松下幸之助のやり方と同じです。石橋正二郎という人には、技術屋としてのセンスと力量があります。地下足袋、タイヤ製造への執着は明らかに理系あるいは技術者の感覚です。しかし同時に製造だけでは会社が成り立たないこと、販売網の整備が企業の死活を分けることを知りぬいていました。
 昭和3-5年にかけて、正二郎はタイヤ生産を考え始めます。タイヤは自動車の地下足袋のようなものですが、かかる圧力が格段に違います。周囲はみな反対します。特にそれまで正二郎を信頼しきっていた兄の徳次郎が猛反対でした。当時日本のタイヤはグッドリッチとダンロップが販売額も品質もだんとつで、日本産製品は足元にも及びませんでした。地下足袋とゴム靴で儲けているのだから、海のものとも山のものともわからない、新規業種に飛躍することはなかろう、というのが周囲の大勢でした。正二郎はタイヤ製造に踏み切ります。アメリカのモ-タリゼ-ションを観察していると、タイヤの将来性は大きいものです。こういう商売人の目も彼にはありますが、同時に新しいメカニズムに挑戦してみたいという、技術屋的根性も無視できません。この点ではトヨタ自動車を創設した豊田喜一郎とそっくりです。正二郎はタイヤ生産にこだわり続けます。
 1933年(昭和6年)社名を「ブリジストン」とする、日本ゴムとは別の会社として、タイヤ生産は発足します。外資系二会社の製品との差は歴然たるものでした。ブリジストンが殴りこみをかけたので、タイヤ業界は乱売そして価格引下げ競争になります。トヨタと同じく、品質の差はサ-ヴィスで補います。責任保証制を取り入れます。故障したタイヤはブリジストンが引き取ります。足元を見られていんちきされることも多かったようです。支払いの時期は貴店のご随意に、という企業としては屈辱的条件も提案します。昭和8年は10万本のタイヤを生産します。が、10年までは収益ゼロでした。地下足袋やゴム靴でえた利潤を吐き出しているようなものです。兄の徳次郎は心配して側近に「うちのタイヤは売れているのかね 正二郎が困ったことに手を出したばかりに---」と例にないぐちをこぼします。昭和11年クロロプレン系合成ゴムを開発します。12年には統制経済の風潮にあわせて本社を東京に移します。1941年(昭和16年)の時点でそれでも、国内のタイヤ生産は、ダンロップが42%、ヨコハマゴムが32%、ブリジストンは28%でした。ヨコハマゴムは古河財閥がグッドリッチと組んで作った外資系の会社です。
 正直この段階国内シェア-が3割近くもよくあったものだと思います。統制経済で民需は抑えられ原料の供給は制限されますが、日本陸軍は装備の機械化をめざし、特に軍用車両の製造には熱心でした。トヨタと同じくブルジストンも民族資本として陸軍から保護され優先されました。ブリジストンが生き残れた原因の一つはこの点にもあります。ブリジストンもトヨタと同じく、戦後の技術革新で世界企業に成長しますが、戦時体制により強力な競争相手から保護されたことは事実です。社名が英語という敵性言語であるのはよくないとして、日本タイヤに改めさせられます。(昭和26年ブリジストンに復旧)ジャワ島占領と同時に、当地にあったグッドイヤ-社の工場管理に駆り出されます。この時正二郎は、戦況が不利になり撤退することになっても、生産設備は温存しておけ、と派遣される部下に言います。戦局の推移を冷徹に見通す眼の確かさに驚かされます。部下はいいつけを守ります。この事は戦後のグッドイヤ-社との技術提携に際して大いに有利に作用しました。終戦の間際に、軍から工場の本州への移転を命令され、時期遅しと抗弁し、遠ざけられます。軽井沢の別荘で不遇をしのいでいるとき、鳩山一郎と知り合います。鳩山の長男威一郎と正二郎の次女安子は後に結婚します。二人の間にできた長男が前首相の鳩山由紀夫です。
 1945年終戦、正二郎56歳の時のことです。正二郎はすぐ会社再建に乗り出します。海外の工場はすべて失いましたが、幸い横浜と久留米の工場は焼かれていませんでした。また軍の命令でスクラップにすべき3000トンの工場設備は担当者の気転で温存され隠されていました。ばれたら厳罰は必至です。勇将の下に弱卒なし、です。天然ゴムからガソリンを作るつもりで、軍命令で東亜燃料KKにあったこの原料ゴムを買い取ります。財閥指定を避けるために、日本ゴムと日本タイヤを分けます。前者は兄徳次郎の系統の者が経営します。打つ手が素早い。昭和21年には他社の例にもれず、労働争議が勃発します。ブリジストンの組合は企業内組合でしたが、共産党の細胞が入り、一部が過激化します。組合は、給与他の労働条件改善と同時に、会社の人事権の掌握を図ります。クロ-ズドショップ制(closed shop)と、役員会議への役員数と同数の労働者代表参加を要求します。前者になると、労働組合員以外の者は採用できないことになります。正二郎は待遇改善には極力努力するが、人事権の委譲は一切だめで押し通します。この件で一部妥協しかけた長男の幹一郎に、今後この件では一切口を出すなと、命令します。幹一郎も人事権を渡そうとしたのではありません。一部の組合幹部と接触しようとしたのです。正二郎は人事権云々という限り、組合との交渉は無用という態度を取り続けました。経営者としては当然の態度です。
 昭和25年渡米します。しばらく前から、正二郎は日本のタイヤ生産技術の遅れを痛感し、グッドイヤ-社との技術提携を模索していました。渡米して作業能率、規模、そして技術のどれをとっても段違いであることを更に知ります。特に日本ではタイヤの中に入れて、タイヤの強度を補強する繊維が木綿であったのに、アメリカではすでに合成繊維レ-ヨンでした。正二郎はこの技術を熱望します。グッドイヤ-社との交渉の要点は次の通りです。グッドイヤ-が受け取る技術料と、同社がブリジストンに支払う委託生産費の額の問題がまずあります。更にグッドイヤ-の製品をどちらの会社が販売するかの問題があります。ブリジストンとしては、当然自社で販売したいし、グッドイヤ-反対のことを考えます。適当な線で交渉はまとまりました。なおこの時グッドイヤ-はブリジストンに25%の出資を提案していますが、正二郎は峻拒しています。
 昭和25年朝鮮戦争が勃発します。戦時景気で儲かりますが、先物買いした原料ゴムの価格暴落で30億円の損金をだします。ゴム関係の企業も右へならえで、この危機は日銀特融で切り抜けます。昭和28年ナイロンコ-ドのタイヤを生産します。ナイロンが入ったタイヤです。昭和32年株式を公開します。38年社長から会長へ、同時に担当常務制を施行して、新社長幹一郎以下の合議制を計ります。48年相談役になります。1976年(昭和51年)肝硬変のため死去、享年87歳でした。正二郎の社会的貢献はいくつかありますが、代表的なものは、石橋コレクション(美術品)と久留米医大設立への膨大な寄付があります。
 現在ブリジストンタイヤの資本金は1263億円、売上額は2兆5970億円、純資産は1兆1207億円、総資産は2兆8084億円、従業員数は13万6684人です。(すべて連結)また世界市場ではブリシズトンとミシュランとグッドイヤ-三社がシェア-の半分を占めています。三社のジェア-はほぼ均衡しています。

 参考文献 創業者・石橋正二郎  新潮社

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