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連歌と茶会  発見、日本史(3)

2013-04-07 02:21:13 | Weblog
    連歌と茶会 発見、日本史(3)

 連歌と茶会(飲茶・茶道)は極めて典型的な日本の文化です。両者に共通する特徴は、集団で行う遊びであり文学芸能であることです。連歌も茶会も淵源は平安時代にまで遡れます。連歌が始めて登場するのは白川法皇の命で編纂された5番目の勅撰集、金葉集です。茶は成尋(の弟子達)や栄西など、僧侶によって宋国から日本に将来されました。連歌も茶会も盛大になったのは室町そして戦国時代です。鎌倉時代から室町時代にかけて日本の農村社会は大きく変わります。惣村が出現します。荘園領主の支配とは無関係に、耕作農民は独自の地縁集団を作ります。惣村の農民は村の神社を中心に団結します。これを宮座と言います。都市の商工業者も同様の座を作って団結しました。こういう団結を一揆といいます。連歌と茶会は座と一揆という極めて大衆的な動向から生まれた文化であり芸能です。
 連歌は始めから大衆の生活文化でした。鎌倉時代にも「花の下連歌」と言って、庶民が春の花見時に木の下で一杯やりながらわいわいがやがやと和歌を作りあっているうちに連歌ができました。この極めて大衆的な連歌を芸術文学にまで仕立て上げた人物が二条良基です。彼は準勅撰といえる連歌集「筑波集」を作成し連歌の規則を定めました。連歌は和歌の5-7-5-7-7の語のつながりを上の句の5-7-5と下の句の7-7に分断します。まず上の句を歌い、それに他者が下の句を付けます。さらに第三者がその下の句に新たな上の句を付けます。こうしてどんどん句が連なれてゆきます。だから連歌といいます。会衆は三人以上です。二条良基は連歌に関しては極めて大衆的な人で、連歌作成には身分は関係しないと断言しました。まあそれも当然で連歌自体が花の下連歌から始まっているのですから。二条良基という人は五摂家の当主であり、一流の歌人であり、有職故実の家元であり、同時に北朝の有力な廷臣でした。連歌はさらに一条兼良や心敬をへて宗祇に連なってゆきます。一条兼良は最後の勅撰集「新続古今集」の編纂者です。良基、兼良そして三条西実隆の三人は上層公卿の出身であり、室町戦国時代を通じての貴族文化の保持者であり、そしてこれらの文化を江戸時代の庶民文化に仲介する役割を果たしています。単なる仲介ではありません。彼ら公卿達は江戸時代に貴族文化を家職として受けつぎます。同時にこの家職としての古典文化は江戸時代の庶民文化の背景基軸として重要な役割を果たします。こうして朝廷公卿は武家政治全盛の時代にあっても文化の護持者として生き残り、現在の天皇制の基礎を造っていきます。
 宗祇は1421-1502年にわたって生きました。80年の人生のうちその前半は室町将軍の権勢の盛期、後半は応仁の乱以後の戦国時代の開幕期です。相国寺に入ったと伝えられますが、彼の人生の前半のことは一切不明です。和歌を一条兼良や東常縁に学び古今伝授を受け、連歌界の英才として頭角を表します。彼は西行や芭蕉と同様に終生旅に生き旅に暮らしました。戦国大名の教養指南者であり、また情報提供者でもあったようです。宗祇も二条良基にならい、連歌作成における季節と気分の変化を重視しました。連想の自由を保障するためです。彼が二人の弟子とともに詠んだ「水無瀬三吟何人百韻」のうちから最初の部分を掲載してみます。
   雪ながら山もと霞む夕(ゆうべ)かな        宗祇
      行く水遠く梅にほう春            弟子A
   河原にひと叢(むら)柳春みえて          弟子B
      舟棹す(さす)音も著き(しるき)明方    宗祇
   月やなお霧わたりたる夜に残るらむ         弟子A
微妙なニュアンスの差ですがこの五句の季節は、晩冬か早春-春-晩春か初夏-夏-秋と変化してゆきます。発句は後鳥羽院の
   見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思いけむ
からとられています。新古今集冒頭の歌です。水無瀬には後鳥羽院の離宮がありました。もう少し遡りますと、後鳥羽院のこの和歌は、清少納言の枕草子冒頭の「春はあけぼの、秋は夕暮れ」への反論です。連歌では当然発句つまり最初の第一句が重要視されます。こうして発句だけが独立し俳諧俳句というジャンルができました。江戸時代は俳句全盛の時代です。なお宗祇は「新撰筑波集」という作品を残しています。なお俳諧の諧は諧謔の諧です。
 茶はインドのアッサムから中国の雲南を中心とし四川と湖南の一部を含む照葉樹林帯、いわゆる東亜半月弧といわれる一帯を原産地としています。中国の河北には後漢の時代には持ち込まれていました。演技三国志で主人公の劉備が貧窮の時代、母親になんとかして茶を飲ませてやろうとして黄河を往来する舟を待つくだりがあります。日本には留学僧が平安時代以後持ち込みました。有名なのが栄西です。この頃から茶は寺院特に禅宗の寺院で愛飲されました。禅苑清規と茶令という規則が設けられています。なぜ禅院で愛飲されたかは簡単に解ります。眠気覚ましです。この点ではコ-ヒ-の初期愛飲者がイスラム神秘主義者達であったこととほぼ軌を一にします。禅僧もイスラム神秘主義者も眠けにはなかなか勝てなかったのです。
 茶は鎌倉時代には寺院外でも多くの人に賞味されます。室町時代になるとさらに飲み方が大規模になり、闘茶の大会が開かれます。茶の銘柄を懸物つきで当てる大会です。南北朝期に活躍したバサラ大名佐々木道誉が有名です。この頃にはすでに武士豪商のみならず一般の庶民も飲茶を楽しんでいたと思っていいようです。
 画期は東山文化、八代将軍義政が主宰する銀閣寺を中心として展開された文化の時代です。義政が日本の文化に尽くした貢献には大なるものがあります。建築、作庭、書画、茶道、陶磁器収集鑑定、当然能狂言などなどへの影響は甚大です。失礼ながら政治はおっぽりだして遊びほうけた人ですから。特に茶道への影響は計り知れません。義政は陶磁器それも唐物の収集にふけりました。彼は美意識の強い人でしたから彼が収集鑑定した陶磁器は東山殿御物として権威を持っていました。彼が建てた銀閣寺の東求堂は書院造りの第一号です。書院造と言えば畳の間、書院、床の間があります。これは日本建築の元祖です。書院、畳の間の出現で日本式茶会が中国式茶会から分離独立しました。東求堂同仁斎はまだ単なる書院でしかありませんが、ここから茶室が始まります。
 それまでの茶会はかなりらんちきなパ-ティ-でした。舶来の物品を掛け物とする博打でもあり、最後は酒席になり杯盤狼藉で終わります。村田珠光という人物が出現します。彼は奈良で生まれ興福寺下の称名寺に入っていました。寺務懈怠で追放されます。珠光は京都大徳寺に入り一休宗純のもとで参禅します。ここで彼は、茶湯の中にも仏道があると悟り、従来の茶席を著しく精神化します。茶禅一味です。まず唐物礼賛を控えます。床には唐絵に代り墨蹟をかけます。茶席は四畳半の小座敷で行います。そしてここが肝心なところですが、飲茶を通じて亭主と客人の精神的交流を計るべく務めます。こうして草庵風、山里風、わびさびの世界が開かれました。珠光の事跡はやがて堺の商人武野紹鴎に引き継がれます。紹鴎の弟子が、魚屋の千利休です。利休から和製の陶磁器も名物として尊重されるようになりました。利休も堺の大商人です。茶会茶道発展は堺の商人により了導されました。利休は秀吉の政治的顧問になりました。それが仇となって彼は非命に倒れます。現在の茶道は利休の子孫が運営する裏表両千家の流派、さらに多数の流派があります。
 茶会の精神はまず数寄の精神です。現在ではこの数寄心も多分に精神化されていますが、本来数寄とは「好き、女好き」という意味です。それが茶会の盛行とともに、舶来の中国製製品、特に陶磁器と書画大好きに変わりました。舶来愛好礼賛の風潮です。現在ならグッチのバッグというところでしょうか。この種の陶磁器などには莫大な金銭が使われます。その辺の事情を上手く利用したのが、織田信長です。彼は投降した勢力から服従の証として彼らが一番愛好する茶器を献上させました。また部下の将士にも一定の軍功をあげて一定の地位に就くまでは茶会の開催を認めません。部下操縦の一環として茶会を利用しています。利休が処刑されたのも派手な唐物礼賛の秀吉と、山里風の古雅な和製陶磁器を愛好する利休との趣味の違いが、利休収賄説にまで発展したせいもあります。
珠光、紹鴎、利休と代を重ねて茶会は精神化されてゆきます。紹鴎は数寄心を定義して「数寄者というは隠遁の心第一に侘びて、仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ候へかし」となります。しかし私は数寄という言葉に本来の原意である「好き、女好き」というニュアンスをどうしても感じてしまいます。数寄の発展形態である侘びさびにも、隠された贅沢という逆説と若干の嫌味も感じます。本来共に飲む茶、共同飲茶、茶会とは明るくて楽しいものです。侘びさびにはどこかひねておどけて滑稽なところがあります。侘びかさびかはともかく、飲茶の風習、茶道の盛行により日本料理が発展しました。懐石料理です。これは宮廷や幕府で行われる正式の料理の簡易版です。一汁三菜、酒と菓子、実質的で食べやすい料理です。
 さて茶会の心とは何でしょうか?数寄については既に述べました。数寄・好きの精神をもう少し具体的に考えますと、当座性(座興)、雑談の連鎖そして振舞いになります。茶会の最も重要なイヴェントは会話です。茶と料理などを楽しみつつ、自由な会話をします。つまり雑談、そしてここで肝要なことはこの雑談がとぎれない事です。そのために一定の形式と基軸を定めます。茶礼および茶器の鑑賞です。雑談と言えば軽く聞こえますが、これは自由な連想です。連想の自由は気分の自由につながります。そして振舞い。振舞いとは相手の心境を慮って配慮し行動すること、サ-ヴィスの提供です。茶会のかなり煩瑣な礼式はこのサ-ヴィスを継続的に保証するための装置です。雑談の連鎖、サ-ヴィスの応酬となりますと、当然そこには当座性・即興性という特質が入ってきます。なにせサ-ヴィスと雑談なのですから。これらの特質は最後に集団での遊びにつながります。人為的に行動の形式規範を定め、それを演じることにより即興的に振舞い会話する、つまり遊びです。別の言葉で言えば一座建立、人為的に作られたお芝居です。さらにこれに一会一期が重なります。会うて分かれて分かれて会うて、末は野の風秋の風、一会一期の契りかな、すなわち当座性即興性です。
 数寄についてもう一言。数寄は茶会や連歌に共通の精神ですが、この心は徒然草の吉田兼好、方丈記の鴨長明、そして平安時代の大原三寂、さらに川原院の会合につながります。数寄の原点には明らかに清少納言の枕草子があります。枕草子の主題は「おかし」です。この言葉は、興趣がある、そしておかしい(滑稽だ)という両義を含みます。連歌そして茶会の原点には「おかし」の精神がありその意味の半分は「滑稽である」です。日本の文化は根底にこの滑稽さを内含しています。
 ここで茶会は連歌とつながります。連歌も、集団での掛け合い、言葉の連想、そして即興性と相互の気持ちへの配慮を特徴とします。連歌と茶会は、詩作と飲茶という外面的行為をはずせばその精神は酷似しています。こういうある種の滑稽味を帯びた、集団での遊びを芸術文学にまで高めたところに日本の文化の奥深さと豊かさを感じます。この事は現在日本が圧倒的にリ-ドしているアニメ制作にも通じます。
 最後に茶が世界史に与えた影響に関して一言いたします。中国の宋王朝は北方騎馬民族と交易という名で、所得移転をしてきました。北方の胡族が一番ほしがったものは銀をのぞけば絹と茶でした。北方の民族が健康を維持するためには、繊維質とヴィタミンCの豊かな茶がどうしても必要でした。欧州の18世紀以後茶がアジアから、コ-ヒ-が新大陸から怒涛のように流れ込みます。この種の嗜好品の愛飲により、貨幣流通量が増大し、つまり有効需要が増え、それがイギリスを中心とする産業革命につながります。イギリスなどは中国からの茶の代金を払えないので、苦肉の作として阿片を見返りに輸出しアヘン戦争を引き起こしています。日本では戦国期以後着実に茶の生産が増えます。幕末維新時の輸出品の主力は生糸と茶でした。茶は日本が製造業中心の国家へ離陸するための資本を提供しています。

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