経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

大岡忠相と田沼意次(3)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2019-10-25 13:38:59 | Weblog
大岡忠相と田沼意次(3)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(運上、うんじょう)
 田沼政権は産業のあらゆるところに税金をかけます。農業のみならず商工業者の営利にも課税します。この課税を運上(うんじょう)と言います。運上とは簡単にいうと間接税に相当します。運上を取るために業者に株仲間を作らせます。業界の主だった連中を集めて団体(仲間)である証に株を持たせます。独占団体です。株仲間の形成は一つには運上の徴収であり、また物価の統制のためでした。例を沢山挙げてみます。大から小までいろいろあります。江戸の両替商に仲間を作らせ冥加金(運上)として9000両を徴取します。江戸の質屋一軒につき月銀二匁の運上、焼亡した医学館再建のために江戸の(だけ?)医師に一か年銀五匁の運上、京飛脚仲間は年30両、菱垣廻船仲間は銀20枚(ということは2両か)、天満青物市仲間は年にして銀20枚、などなどです。既存の商売だけでなく新しい商売を申し出てその仲間を公認してもらい運上を上納するという方法もあります。投機的な金銭(金銀銅)の取引を行う金銭延売買会所に1500両の運上、更に、家屋敷を担保とした金銀賃借証文に間違いがない事を証明する家賃奥印差配所設置の申し出でを認め、4000両の運上を取ります。油や木綿を取り扱う商人も株仲間を作らせられ運上を支払わせられます。零細な農村工業にも少額の運上が課せられます。更に江戸市内ではびこるもぐり売春にも目をつけ、そういう土地に自身番を作り一定の租税を取り立てます。文字通りあらゆるところから薄く広く運上金を集めました。
 当時の最大の輸出品である銅は大坂の銅座に製造販売を集中させます。白砂糖や朝鮮ニンジンは国産化します。長崎での貿易にも積極的に介入し運上を取ります。
 こういう政治を行うために勘定所の権限を拡大し人員を増やします。また鉱山開発や新種の農法あるいは新規の企業経営など、いわゆるイノヴェ-ションに従事し提案する人間が出現します。先に述べた金銭延売買会所や家賃奥印差配配所などもこの種のイノヴェ-ションに属します。このようなイノヴェ-ションを提案しそれに従事する人たちを当時の人は「山師」と言いました。代表的な山師の一人が平賀源内です。すべてが運上運上、金銭金銭、収入収入ですから拝金主義は横行します。
 更に意次は自己の権勢を維持するために多くの大名や自分が引き立てた旗本などと何らかの意味で婚姻関係を作ります。閨閥です。
 情実は効きやすくなります。常に金銭が介在します。汚職は意次の意図とは別に横行します。意次自身が陽気で派手でしたのでなおさらです。ただし風儀は乱れましたが、下級武士(旗本・御家人)が昇進するには好適な環境でした。当時の狂歌に
  世にあうは道楽者におごり者、ころび芸者に山師運上
というのがあります。田沼政治への風刺です。同時にもう一首、
  世に合わぬ武芸学問御番衆の、ただ慇懃に律儀なる人
があります。この「世に合わぬ人」の不満怨念を代表して田沼政治を屠ったのが松平定信です。ここで第二の歌の内容ですが、田沼時代に学問が衰微したとは考えられません。むしろ盛んになりました。そのことは別項で取り上げます。次に意次の積極政治の代表である、印旛沼干拓と蝦夷地開発について見てみましょう。

(印旛沼干拓)
 印旛沼干拓は吉宗の時代から試みられ失敗しています。田沼時代の1780年に干拓の話が持ち上がります。新たな開発計画を立てたのは印旛沼当地の代官宮村孫左衛門です。宮村は名主二人に干拓工事の具体案の提出を命じ、この二人の献策を取り上げます。宮村は金主として大阪の天王寺屋藤五郎と江戸の長谷川新五郎の二人の豪商を選びます。当然この二人の出資者は工事成功の時には作本の一部を営利として取ります(これも山師です)。宮村の工事計画は意次らの目にとまり、視察の結果工事着工は許可されます。工事は利根川が印旛沼に流れ込む部位を閉塞し、同時に沼の水を南方に排水するように計られました。工事は順調でしたが、1786年激しい風雨が続き閉塞のための防水塘は破られ工事は失敗します。数年前浅間山の大爆発で火山灰が降り注ぎ利根川の底が上がっていたのが失敗の原因です。印旛沼干拓の失敗は田沼政治にトドメを指します。同年意次は老中を辞任しています。予定では3900町の新田が開発されるはずでした。反当り一石(150KG)として年4万石の増収ですから魅力と言えば魅力でしょう。
 余談ですが後年といっても昭和20年代川崎製鉄の西山弥太郎が千葉県に新しい工場を作った時、鉄冷却のために大量の水が要るので印旛沼の南方を開け水を工場へ導入しました。これができたのは技術の発展によります。

(蝦夷地開発)
 蝦夷地は江戸時代中期以後日清間の貿易に不可欠な土地になっていました。まず金肥の原料の鰯が捕れなくなります。代用が蝦夷地の海で捕れる鰊です。この鰊と鱒の油を取った残りが油粕として肥料に使われます。また日本では銀が減少し幕府前半のようには輸出できなくなりました。代わって輸出品となったのが銅と俵物(ナマコやアワビの干した物、高級中華料理の材料)です。俵物の原料も蝦夷地界隈の海で捕れました。ですから蝦夷地の海産物は内地の農業にとっても貿易にとっても不可欠でした。この蝦夷地の北方にロシアが進出してきます。ロシアのピョ-トル1世は18世紀初頭の北方戦争で宿敵スウェ-デンを抑え込み、西方を安定させます。次は東方を目指します。18世紀後半にロシアを支配したエカチェリ-ナ2世は日本に興味を持ち、ベ-リング海から千島半島に南下する一方、難破した日本船の乗組員を保護し日本語学校を作ります。蝦夷地の支配は松前藩に任せられていましたが、松前藩は支配の秘密を幕府に知られるのを恐れて実情は知らせん。ロシアの使者は追い返します。幕府の役人が蝦夷へ行っても現地のアイヌ人には固く口止めをします。らちがあきません。1771年ハンガリ-人ベニョフスキイ-がシベリアから脱出の経路中阿波や奄美大島に寄港し、ロシアによる蝦夷地侵略の企図を長崎のオランダ商館長に託します。また実際にロシア船は日本渡来しだします。
 1781年仙台の藩医で蘭学者の工藤平助が「赤蝦夷風説考」を著わします。彼は蝦夷地の地理等の概略とロシアの北方領土への接近と侵略の可能性を説きます。この本を入手した意次は部下の勘定奉行松本秀持に検討を命じます。松本の答えは蝦夷地を開発しロシアとの交易を行い、併せて北辺の防備を固める、の意見でした。意次は蝦夷地への調査団を派遣します。調査団は士分だけで総計10人でした。松前から東方と西方の二方に分かれて調査が行われます。東方の調査団は根室から知床に至り更にエトロフ・クナシリ島に入り、エトロフ・クナシリ島には日本人が住み、ウルップ島は日露混住でありその北シムシル島にはロシア人が住んでいると報告します。西方の調査団はカラフトまで渡るつもりでしたが、稚内で越冬し十分な防寒対策がないために多くの死者をだします。調査団の報告は過大なものでした。蝦夷地は地味豊かで広大で農業に適しており、少なくとも当時の全国収穫高の20%の収穫はみこめる、さらに金銀などの地下資源は豊富だと言っております。調査と開発防衛はさらに続行される予定でしたが、意次の失脚ですべての計画は否定されます。松本秀持は勘定奉行罷免、蝦夷通の土山宗次郎は公金横領の疑いで切腹、報告を江戸まで持ち帰った青嶋俊三は即解雇の処分を受けます。青嶋は後一時入牢させられ病死します。意次を失脚に追いやった松平定信は蝦夷地調査に赴いた者は小者に至るまで徹底的に処罰し、蝦夷地開発は放棄します。

(南リョウ二朱判)
 幕府は1765年に明和五匁銀を発行します。五匁銀の発行により、幕府は、金一両に対し銀60匁、と公定しその相場で取引せよと命じます。当時の金銀の実際の相場は、金一両が銀50匁、でしたからこの五匁銀は特に大阪の大商人には不人気でした。幕府はこの失敗にもめげず1772年に南リョウ二朱判を発行します。幕府公定相場はやはり同じ、金一両が銀60匁、でした。加えて南リョウ二朱判は、銀貨でありながら「朱」という金貨の単位を用いていることです。当然大阪の大商人には不人気ですが、幕府は押し通しました。四朱が一分、四分が一両ですから、南リョウ二朱判は8枚で金一両になります。当時の相場と比較すると10数%の銀安です。銀安はすでに述べた通り江戸での米価を引き下げます。また通貨量は10数%は増加しますから物価は上がり景気はよくなります。庶民特に江戸の庶民には都合のいい事態です。加えてこの南リョウ二朱判発行には別の意味があります。それは金銀相場の自由変動制(金銀複本位制)を否定し、銀貨を金貨に従属させ金本位制への志向をこの政策は持っている事です。換言すれば経済面での中央集権化が促進されます。特に田沼政権のように財政の中心を商工業に移行させようとする政府においては、金本位制(ほんの端緒ですが)は必須になります。当時の西欧でも完全な金本位制を施行している国はありません。南リョウ二朱判は定信政権で廃棄されますが、定信が老中を辞めた後復活します。そういうわけで物価は田沼時代に一番安定していました。
 金銀比価の固定は重要な意味を持ちます。大阪と江戸の商人富豪が組んでやる両替投機つまり金銀の価値変動を見込んで為せる投機は抑制されます。物価は安定します。意次に
代わった定信は南リョウ二朱判を廃止します。この点では定信は庶民の生活より大坂江戸の豪商の利益を優先させたと言えましょう。

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