経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、福原有信

2011-06-11 03:01:48 | Weblog
   福原有信

 福原有信は、化粧品の資生堂、朝日生命、そして大日本製薬株式会社の三つの企業の創設に関わっています。うち二つは彼の創業によると言えます。有信は1848年(嘉永元年)、ペリ-来航の少し前、安房国松岡村(現館山市)に生まれています。福原家は里美家の家臣だったそうで、慶長10年に里美家が改易されて後、安房松岡で帰農しています。代々豪農として農事に励んできました。有信は父有琳の四男でした。有琳は漢学の素養が深く、有信は父親から、漢学と仏典に関する知識を与えられます。また祖父有斉は漢方医でした。有信の薬剤への関心は祖父譲りです。
 1864年(元治元年)17歳時、江戸へ出て幕府医学所教授である織田研斉の塾に入ります。ここに約1年、その後松本良順の引きで、医学所に入ります。ここで薬学を本格的に勉強し、中司薬という薬務官になります。幕府は崩壊します。有信は戦火をさけて一時郷里に帰ります。22歳東京大病院に中司薬として勤務します。この病院はやがて大学東校(東京大学医学部の前身)に吸収合併されます。23歳、海軍病院に移り、薬局長を勤めます。派閥人事の横行に将来を見極めて、明治5年24歳、海軍病院を辞めます。同年矢野義徹、前田清則と連盟して三精社を起こします。三精社の事業の一角が資生堂でした。資生堂は本来薬局として開始されました。当時西洋舶来薬品の贋物が氾濫していました。有信は自分が経営する薬局で、真の舶来薬品を処方し、併せて精確な用法を指示し、これを基礎に、特効薬品の輸入促進、精度の高い薬品製造を目指そうとしました。そのために東京製薬所という製薬会社を作ります。理想はなかなか実現されません。行き詰まります。やむなく大衆用売薬製造販売に方針を切り替えます。新しく東京製薬社を作ります。ここで製造された品物には、きちがいの薬・神令水、なかちらしの薬・清女散、口中一切の薬・金水散、けはい薬・蒼生膏、胸腹一切の薬・愛花錠などがあります。薬といえば薬でしょう。
 なお資生堂という名の店舗は明治初年当時二つありました。本町所在と出雲町にある店です。本町の資生堂は三精社創立になりますが、早々に潰れます。出雲町所在の資生堂は有信の個人資本でできた店です。有信が売薬の製造販売を行ったのはこちらの店です。銀座は明治5年 までに数度大火を起こし焼けます。東京府知事である由利公正は銀座をすべてレンガ造りに改めます。この時4丁目までしかなかった銀座は8丁目まで拡張されます。こうして新しい銀座ができますが、この際出雲町も銀座8丁目になります。こうして銀座と資生堂の縁ができました。資生堂は化学薬品製造に失敗して、大衆用売薬製造に切り替えますが、銀座の雰囲気の影響を受けつつ徐々に化粧品製造に舵を取ってゆきます。
 1888年(明治21年)資生堂は練歯磨を売り出します。歯質の保護、口内清掃、口臭防止が目的です。この薬(?)は大当たりしました。明治27年には脚気丸という脚気防止用の薬を発売します。まだヴィタミンB欠乏症と知られなかった当時ですから、この薬、効いたものやら、効かなかったものやら----。

明治30年ごろに資生堂は、化粧品製造にはっきりと方針を切り替えます。当時の伝統的な化粧品に代り、西洋の薬化学的手法による化粧品を製造販売します。以下のような製品が販売されました。高等化粧水オイデルミン、改良すき油メラゼリン、ふけとり香水ラウリン、改良水油オイトリキシン、あかとり香油アコモシン、ひげ油フロネミン、高等練お白粉、うがい水エオチンなどです。どこが旧来の化粧品と違うのか解りません。製造工程が明確なこと、べたべたした油(髷につける)や(顔に)塗りこめる化粧を廃し、よりさっぱりした束髪と洋服にあう清潔な製品を作ったのでしょう。明治35年には店頭でソ-ダ水とアイスクリ-ムを販売します。東京の中心、流行の先端である銀座の町並とマッチして、銀座の名物になりました。
 1915年(大正4年)有信の三男信三が資生堂の経営に積極的に参加します。有信が資生堂経営に本格的にたずさわったのは初期の10年間くらいで、以後の有信の活動は他の事業に向けられます。なら信三参加までの30年間資生堂を引っ張っていったのは誰かという疑問も出ます。長男の信一であったかもしれません。信三参加により資生堂の経営はより鮮明になります。この頃から資生堂と言えば化粧品の製造販売というイメ-ジが定着したようです。信三は芸術的センスの豊かな人で、製品に意匠と図案の工夫をこらします。有名な花椿のマ-クは信三の発案です。口腔衛生用練歯磨を新たに売り出します。養毛整髪料も製造します。清潔、改良、モダンが資生堂の売りでした。大正6年大阪に支店を出します。遅すぎるくらいです。大正10年、合資会社にし、チェインストア制度を確立して、商品の値崩れと質を保証します。大正11年、美容科、美髪科、洋装科を設けます。こうして積極的に新しい美とモ-ド(ファッション)を創造するために街頭に進出します。この間七色白粉(当時白粉は白色と決まっていました)、美容用の高級石鹸、そして資生堂クリ-ムを製造販売します。
 有信は医薬分業にも努力しています。資生堂は最初薬局として開業されました。当初有信は東京病院の調剤薬局を引き受けています。これは医薬分業への試みの一つです。1879年(明治12年)薬舗開業試験の制度が設けられます。明治15年、有信らの尽力で東京薬舗会が結成されます。この種の同業組合設立の目的は二つ、まず同業者の質向上、そして圧力団体として政府に必要な法制を整えさせることです。これに応じてか政府は明治22年に、法律第十号で薬舗薬剤師の地位が認めます。しかし付則で医師による調剤を例外として認めます。医薬分業は薬剤師の悲願でしたが、医師側の抵抗が強くなかなか実現しません。有信は次第にこの運動から身を引きます。
 1883年(明治16年)に大日本製薬会社が設立されます。この会社は政府資本による国策会社です。近代薬品製造企業のモデルとしてこの会社ができました。ちゃんとした西欧に負けない薬を製造するためです。発起人は東京側、大倉喜八郎、福原有信以下5名、大阪側は久原庄三郎、松本重太郎以下4名です。国策会社なので社長副社長は政府任命、支配人は官僚起用になります。有信は専務取締役になります。主な製品としては、ガレヌス製剤、薬局方試薬、他に香水、沸騰散、蒸留水、ラムネ、などもあります。化学薬品としての化粧品も製造され、この経験は有信の資生堂経営に影響したことと思われます。口すすぎ水、コ-ルドクリ-ム、整肌クリ-ムなどもあります。官営企業の常でしばらくして行き詰まります。明治31年民間会社大阪製薬KKに28000円で払い下げられます。この会社は後に名を変えて、同名の大日本製薬株式会社になります。
 1888年(明治21年)帝国生命保険会社が出現します。この会社の設立にはある事情があります。有信は運命の偶然でこの会社設立に尽力することになりました。海軍主計局長の人事をめぐり、藩閥の横暴に怒った、加藤為重以下数名の主計官が新しい局長を面罵しなぐりつけ、乱闘になります。責任を取らされた加藤達は1年間禁固されます。獄中で加藤は生命保険の計画を抱き、出獄後あちこちに働きかけます。有信に経営を打診する声が届きます。有信は昵懇にしていた海軍軍医頭高木兼寛に相談します。生命保険の内容に詳しかった高木は即断して、会社設立を有信に勧めます。資本金30万円、額面50円、創設時償却できた株式総数4327株、総株主数228名、でした。保険料を低めに置き、保険入会時の診察無料、そして嘱託医制度を設け、また代理店制度を敷いて普及を計ります。
 経営は順調でした。帝国生命の前に明治14年に設立された明治生命があり、また帝国生命の数年後に大阪で設立された日本生命があります。明治、帝国、日本の三社が代表的大手です。帝国生命は僅差ながら首位に立ちます。内紛があり明治24年有信が会社の機能を代表する専務取締役になり、26年社長になります。開業10年後の明治31年時点では帝国が僅差で一位、二位は日本でした。明治はぐっと落ちて3位です。この間長与専斉を学理顧問にします。また全国を7つの管区に分けて責任者を任じ成績向上に努力します。明治31年には生命保険会社談話会を有信たちの主導で立上げます。これは後に生命保険会社協会に発展します。明治33年保険業法が制定されます。積立準備金制度が敷かれます。これは日清戦争後雨後の筍のようにできた保険会社乱立への予防対策です。また相互組織による保険業も認められます。第一生命や千代田生命はこの頃誕生しています。
 有信は経営に新方式を導入します。利益配分保険を創始します。単に保証されるだけでなく、入会者は保険金運用の利益も還元されるわけです。カ-ドシステムも導入します。女子社員の大量採用は女性の社会進出に寄与しました。当時(日露戦争前後)における、女性の仕事は、家事労働を除けば、教師、看護婦あとは女工くらいで限られていました。明治35年始めて本店を新築します。日露戦争では帝国生命の入会者には軍人が多かったために、支出は増えます。もっとも各会社とも、戦争勃発と同時に軍人の新規加入は断っていましたが。明治43年古河虎之助が取締役になり、古河財閥と提携します。第一次世界大戦に際し、有信は反動不況を警戒して、景気の波には乗らないようにします。お蔭で好況では他者に遅れ、不況の影響も他者に比し軽微でした。政府が官営の保険事業を企てます。有信は民間会社の経営を圧迫するものとして、反対します。が、政府は計画を推進します。この問題は現在でも郵政民営化可否として尾を引いています。1924年(大正13年)死去、享年77歳でした。
 有信は医師から出発し、薬に興味をもって薬剤師になり、調剤薬局を経営し、薬剤及び薬剤師の水準向上に努め、製薬会社の経営にも関与します。薬から、当時としては似たようなものであった化粧品に進出します。さらに偶然のきっかけから生命保険会社の経営に専心することになりますが、この事も有信が医学薬学界に顔が広かったことと無関係ではありません。有信という人は人格円満であったようで、強引に先頭に立って突き進むのではなく、人間関係のバランスをとって、根回しし調整役をとるタイプでした。
 帝国生命は他の保険会社を合併し、戦後の1947年に朝日生命と改称し、同時に相互式に運営を切り替えて今日に及んでいます。
  参考文献  福原有信伝   中央公論事業出版・資生堂

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