経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、中内功

2011-06-22 02:29:59 | Weblog
        中内功

 スーパ-「ダイエイ」の創始者です。現在でもこの人物の名前を知る人は多いでしょう。強引なほど積極的でど派手で大衆受けをする経営方法を駆使しました。カリスマです。少なくともダイエイの従業員にとっては。なお彼功は経団連副会長を歴任し、勲一等瑞宝章を受けています。功の字は本来つくりが「刀」で「力」ではないので、「功」という字は不適当なのですが、ワ-ドにないので「功」で代用します。
 功は1922年大阪市西成区に生れました。第一次大戦景気も過ぎ、日本の経済が不況に向かおうとしている頃です。祖父は医師、父親は薬剤師でした。生れてしばらくして神戸に移ります。父親は社会運動にも参加していました。神戸といえば、賀川豊彦の生協運動の発生地であり、また川造船争議(日本で始めての大争議)があった土地です。このような事情は功に眼に見えない影響を与えています。旧制神戸三中(現長田高校)、神戸高商(神戸商科大学)を経て、日本綿花(後の日綿実業)に入社します。学生時代はおとなしい、影の薄い生徒だったと伝えられます。
1943年応召。満州とシベリアの国境地帯の要塞砲部隊に配属されます。やがて南方のフィリピンに転任します。勤務地はリンガエン湾です。10倍以上の敵兵と猛烈な艦砲射撃にさらされ、九死に一生を得て復員します。守備兵13000余名のうち86%が死亡し、僅かに1745名が故国に帰りました。フィリピンは当時比島と書かれていましたが、餓島とも仇名を付けられていました。制海権を奪われ、補給はほぼなく、当然食料は圧倒的に不足します。ジャングルの中で野生の物を探すか、夜襲して米軍の食糧を奪うかして食いつなぎます。食人の噂も消えません。死亡した兵士の尻が切り取られていたとかの話が流布される現実でした。功は米兵の投げた手榴弾をくらいます。もしこの手榴弾が50cm近くで爆発するか、功の姿勢がもう20cm高ければ、彼は戦死していただろうといわれます。幸い重傷ですみました。このフィリピン体験は功の行き方を変えたといわれます。復員して以後の彼の行動には、学生時代のおとなしい印象は全くありません。
 戦後は闇市が盛んに開かれていました。政府の統制をかいくぐって、非合法に得た物資が闇市で売られます。なんでもありました。戦後の国民はこの闇市でもって食いつないでいました。正直に政府の決めた配給量を守っていては餓死します。現に法令を遵守して餓死した裁判官もいます。法を守らせる者は自ら法を守らなければならない、という信念にこの裁判官生き、そして死にました。悪法も法なり、と言って従容として毒杯を飲んだソクラテスに似た行為ですが、私は正直裁判官の行為にはあまり納得がゆきません。しかし他の裁判官はすべて餓死を免れたのですから、彼らはなんらかの形で闇の市場に頼っていた事になります。もちろん私の家族も含めて全国民も同様です。闇市を取り仕切っていたのは第三国人といわれる人達です。旧植民地の朝鮮や台湾、そして占領地である中国の人達が、終戦前にうけた差別への復讐として闇市を暴力で支配していました。市に並べられる品は偶然ではなく、統制の取れた地下組織で流通交換されて供給されました。警察も手を付けられないほどの傍若無人な第三国人に挑戦したのが、任侠の徒つまりやくざです。やくざの挑戦により、一般の日本人は比較的安く、闇の品を手に入れることができたのも事実のようです。
 中内一家、父親と功を含めた四兄弟はまずこの闇市から商売に入ります。例えば神戸のある薬局でフィナセチンという物質を手に入れます。これを自宅で加工すればズルチンやサッカリンという人口甘味料がつくられます。当時日本人が一番欲しがっていた物の一つが、砂糖ですが、なかなか手に入れにくく、少ない配給で足らないところはこの種の人口甘味料でしのいでいました。ペニシリンやストレプトマイシンという抗生物質が出回り始めた頃でした。肺炎とか結核とかに優れた薬効をもちます。生きるか死ぬかは金次第でした。生きようとし、なんとか費用を工面できる人は、大金を払っても抗生物質を手に入れます。肺炎は体力次第、結核はまず死病でした。中内一家はこれらも闇で手に入れ売りさばきます。父親が薬剤師ですので裏の事情には精通していたはずです。こうして資金を貯めます。
 1951年(功29歳)、一族は大阪市内の道修町(薬問屋が密集する町です、ドショウマチと読みます)で、サカエ薬局を開き、薬の大安売りを始めます。時価の3-4割安く売ります。当然大繁盛でした。なぜこのような行動に中内一家がうって出たのかは興味があります。当時の流通機構は中間搾取が酷く、買い手は割損をする仕組みでした。大衆に貴重な薬品を安価に提供するという率直な善意もあります。流通機構への反骨精神もあります。中内一家はだれもが、気の強い人でした。大量に仕入れれば、安く買え、また買い叩けます。現金決済をすれば、その分安く仕入れられます。大安売りですので現金(日銭)は得られますから。大量の大安売りで「サカエ」の名を売れば、それがブランドになって以後の商売もしやすくなります。大量の大安売りで得た大量の現金で次の店舗増設や新しい商売も始められます。なんとなく自転車操業ですが、以後のダイエイの商法はこの伝で行きます。また倒産した店の商品や在庫流れも買います。この点では闇市にも参画した経験が役に立ちます。
当然反発も起こります。まず従来の小売商や卸売商が反発します。メ-カ-もあまり安く売られれば、やがてはメ-カ-自身値下げをしなければならないので卸売りに圧力をかけて、サカエ薬局に品物を回さないようにします。サカエが戦い疲れたところで援軍が入ります。主婦蓮という消費者団体が製薬メ-カ-を価格カルテルとして告発します。この告発は成功します。製薬会社は圧力をかけなくなりますが、今度は各メ-カ-自身が価格競争に乗り出し、サカエの存在意義が希薄になります。メ-カ-がかなりな程度濡れ手に粟の商売をしていたことになります。彼らに価格競争を強いた点ではサカエ薬局の意義は大きいと言えしょう。後のダイエイの歴史的社会的存在意義もここにあります。四兄弟と言いました。長男が主人公の「功」次男が「博」三男が「守」四男が「力」です。始めは共同経営でしたが、後に博、更に力とは経営権を争い、喧嘩別れになっています。なおサカエ薬局の社長は次男の博で、功は平社員でした。もっとも営業においては功が切り込み隊長として活躍しました。父親は長男の功をあまり買っていなかったようです。それというのも他の三人に比べ功は勉強嫌いで、三人が国立の大学卒であるのに対し、功は県立の高商卒でした。父親のこの対応への反発と学歴コンプレックスは功に終生ついて回ります。彼は忙しい中ある大学の夜間部に通い勉強しなおしています。
 昭和20年代後半、当時アメリカで盛んだったス-パ-マ-ケットがぼちぼち出現し始めます。ス-パ-の営業の特徴を象徴的に言えば、キャッシュレジスタ-とセルフサ-ヴィスです。大量販売と不必要なサ-ヴィス削減で廉価販売を狙います。日本におけるス-パ-の嚆矢は九州の吉田日出男が創始した丸和フ-ドセンタ-です。この企業は、主婦の店、というブランドでチェ-ン展開を始めます。中内功は吉田に学びます。そして1957年(昭和32年)大阪市内の千林でダイエイの1号店を開きます。千林は大阪の東北方面にあり、中小の小売商がひしめく、大阪でもなうての商店街でした。始めはサカエの延長として薬品を販売していましたが、吉田の忠告に従い、功は主力商品をすぐ食料品特に菓子類に切り替えます。商法は当たります。この間妻萬亀子と結婚します。新婚旅行の途中、妻の寝ている隣室で、功は商談をしたという逸話があります。松永安左衛門にも同様の逸話がありました。
1958年神戸三宮1号店ついで2号店を開きます。力を入れた商品が牛肉でした。廉価を維持するために、沖縄に牧場を造り、そこから直輸入します。ダイエイ商法の特徴は、圧倒的な販売量の上に立つ大安売りでした。そのためにはストアブランドを創始します。上記の牛肉もそうですが、東洋紡のダイヤシャツもブランドの代表です。ダイエイは東洋紡製品ダイヤシャツを大量に廉価で販売しました。東洋紡としては困るので、防衛のためになんとかしてダイエイへの流通ル-トを断とうとしますが、失敗し、結局ダイエイと東洋紡は協定し提携して、ダイヤシャツの大量生産と大量販売に至ります。売り出した時600枚でしたが、3年後には売る上げが100万枚なっていました。1円玉騒動という逸話もあります。ダイエイでは当然つり銭を必要とします。1円玉が足りません。銀行で換金しても足りません。ダイエイは1円券を発行し、ダイエイのみに通用するシステムを考案しました。ところがこれが市中で通用可能になります。慌てたのが日銀です。通貨発行権の侵害になります。日銀はダイエイの取引銀行である東海銀行にダイエイ用の1円玉を特別に供給しました。ある銀行の前をぞろぞろと身なりの良い婦人達がダイエイの袋を提げて通ります。目ざとい支店長は行員を総動員して、この夫人達を尾行させます。そして彼らご夫人達は関西のあらゆる方向から、ダイエイに買い物に来ていることを知りました。この銀行はただちにダイエイを取引先に選びます。以下の表を見てください。

             1957年    1975年
 電気洗濯機普及率     20%      98%
 電気冷蔵庫 同      2.8%     97%
 電気掃除機 同       0%      94%

 高度成長期が終了する頃には家電製品そして自動車も、各家庭にすべてそろいました。ダイエイもこの波に乗って売りまくります。以下にダイエイの売上高の増加を示します。 

3100万円(1957年、開店時)
266億円(64年)
1430億円(70年)
7600億円(75年)
1兆1340億円(80年)

この間1964年には東京に進出します。1972年に百貨店のトップ三越を売上高で抜きます。1974年の時点でス-パ-はデパ-トの販売量を抜いています。1985年、小売総額にしめるス-パ-のシェアは22%、対してデパ-トのそれは8%です。流通革命という言葉が流行しました。   
ダイエイの発展は時代の状況に即していました。千林店が開かれた1952年には既に日本経済は高度成長へと離陸しています。高度成長経済が成り立つためには、需要の増大とそれを可能にする資本と技術の蓄積が必要です。戦前そして戦時の蓄積に加えて、戦後における欧米からの技術移転も加わり、日本の産業技術の内容は高度になり、欧米先進国の水準に迫っていました。戦中そして戦後の耐乏生活に耐えてきた国民の需要、生活高度化への渇望は、ここで一気に噴出します。その代表が、三種の神器といわれる家電、TV、そして自動車です。チキンラ-メンの類も同じです。大量消費の欲望の波に乗って、ダイエイは売りまくります。ダイエイを大きく伸ばした商品の代表が、菓子と牛肉です。菓子、甘い菓子、砂糖と牛肉は戦後の生活で国民が一番憧れていたものです。昭和20年代の生活を覚えておられる方なら実感できるはずです。食糧に限らず、衣料も家電製品も、ダイエイは大幅な廉価で売りまくり、大衆の消費欲望を満たしかつ煽りました。欲しくてたまらない物が、大量に目の前にある、しかも充分に手の届く範囲にある。この事は経済学の法則を超えて、大衆の消費意欲を刺激します。高度成長経済あってのダイエイと、私は言いました。逆も言えます。ダイエイに代表される流通機構の変革は経済成長に促進的影響を与えております。
中内功はダイエイの方針である廉価販売の支障になる制度や旧習に果敢に挑戦します。特にメ-カ-による価格統制を猛烈に非難し、廉価販売を強引に推し進めます。標的と成った代表が花王石鹸と松下電器です。ダイエイが安売りし過ぎると、他の小売商や卸売商が困ります。値下げしなければ競争に負けます。この趨勢が一般化すれば、製造元である花王石鹸自身が、値下げしなければなりません。花王はダイエイへの出荷停止に踏み切りました。結局公取委が入る事になり、両社は妥協します。松下電器は再販価格維持を徹底しており、傘下の電気店が勝手に売価を下げる事を許しません。ダイエイは松下に挑戦します。松下はダイエイへの出荷は停止しますから、ダイエイは密かにどこかの問屋から商品を仕入れ販売します。松下は商品番号から出荷した店を突き止め、圧力をかけます。消費者団体はダイエイに味方します。松下とのこの戦争は30年、つまりダイエイが経営不振になるまで続きました。
ダイエイは、価格は消費者が決める、と言います。松下は、一定の価格を保持しないと製品の質が向上しないと、主張します。両社共に一理あります。大量販売のためには大量生産が望ましくなります。この方向を押し進めれば、販売会社一社、生産会社一社、さらに両社を垂直に統合して、生産から販売までを一元化すればいい事になります。これは社会主義いや共産主義体制です。またこの方向で廉価にこだわると、商品の差異化に支障をきたします。なるべく均一な商品を作る方が、安くできますから。当然商品の質向上への意欲は減退します。事実旧ソ連では生活必需品はなんとかありました。しかしすべての分野において商品の質向上への関心は薄かった、というよりそういう関心が持てなかったようです。だから品質向上したがって生産技術向上のためには、生産者であるメ-カ-に一定の留保を認める必要があります。この事は流通経路にある小売商卸商にも当てはまります。彼らに一定の判断する余裕を与えないと、彼らからの生産者への注文助言刺激の機会を奪う事になります。この問題は現在の経済状況に特にあてはまります。ユニクロが廉価の商品を売るのも結構ですが、なんでも廉価廉価といっておれば産業は衰退します。ただしダイエイが挑戦した当時では、生産者や流通経路にはかなりな剰余があったと思います。
ス-パ-で成功した中内功は以後、不動産、料理屋レストラン、パチンコ、サラ金、百貨店とあらゆる消費分野に貪欲に進出します。結論から言えば、この事がダイエイの命取りになります。1983年から3年間ダイエイは連続赤字に陥ります。ここで功は一時経営の前面から退き、既にヤマハの経営建て直しで評価を得ていた、河島博を迎え入れ経営を全面的に任せます。河島は、重役会議に功が出席するのを停止し、大卒を大量に採用して人材の向上を計ります。売上重視から利益重視に切り替えます。売れれば良いってものじゃない、利益が上がらねばなんにもならない、と言います。投資回転率、商品回転率、資金繰りを重視し、粗利益と在庫回転率の積を判断基準にします。ともかく在庫を減らし、販売でのロスを減らし、むやみなディスカウント(安売り)を禁止します。QCサ-クルを催し現場の意見を吸い上げます。それまでは常に功の鶴の一言、叱咤で諸事決まり、上意下達でした。なによりも有利子負債を徹底的に削減します。河島が経営を引き受けた時、ダイエイの総資産の64%がこの種の負債でした。河島はこれを8%に削減しました。不良資産、不良企業は売却されます。
こうしてダイエイは河島の手腕でV字回復と言われるほど、急速に立ち直ります。この間3年間。ここで河島は傍系会社に追われます。功が経営の前面に立ち現れます。時はバブルの時代でした。土地取得、企業買収に走ります。功の価値観は、大きい事は良い事だ、です。なんでも買いまくります。ダイエイホ-クスがいい例です。やがてバブルは崩壊します。土地の価格は急角度を描いて落下します。合併買収した多くの企業は採算割れになります。なによりも本家のス-パ-が、消費の低迷で、振るいません。またすでに大量廉価販売の時代でもなくなっていました。消費者はその欲望の多くをかなえられ、欲しい物を持っていました。これからはそういう口の肥えた消費者により高度の商品を提供しなければならなくなっていました。バブル崩壊から5年後の1997年時点での、負債総額は4兆円になりました。強引なリストラは現場を荒廃させます。唯一利益の上がっていた企業ロ-ソンには、他の企業の赤字補填のしわ寄せが行き、ロ-ソンはオ-ナ-殺しという不評を浴びます。四面楚歌の中1999年、功は長男と共に辞任し、経営権を他者に委譲します。2005年死去、享年83歳。
中内功の手法は、大量廉価販売による薄利多売です。次が大規模企業化による同業者更に、生産者への圧力です。ダイエイにより多くの零細商店が潰れました。さらに土地取得と大規模店開設のリンクです。開業する予定の土地を買い占めます。ダイエイ店開業により地価は上がります。これを売って儲けます。これは阪急や東急が沿線開発に際して用いたやり方です。また他業種を買収し、多角経営の利点も模索します。こうしてダイエイはどんどん企業を買い占めました。買占めの資金は借金つまり負債です。高度成長という右肩上がりの経済においては、この手法は有効です。薄利多売で稼いだ金は、同じく薄利多売に回せます。土地価格の増大は濡れ手で粟の利得を呼びます。好景気の内は多角経営に伴う危険は糊塗できます。バブルがはじけた後の経過に関しては既に述べました。4兆円といえば東京と新大阪を結ぶ新幹線を5つくらい作れる金額だそうです。
高度成長経済と大衆消費社会、それまで欲しかった物、食料、衣服、家電、TV,自動車が、大量に、目の前に、手の届くところにある、という状況のもとで、功は大量の財貨をばら撒き、大衆の貪欲さを満喫させました。人間は一つの時代にしか生きられません。功も一つの時代の時代精神を直感的に把握し、大胆に生きました。彼は彼の信念のもとに、部下を叱咤し、怒鳴り、時には殴り、製造者には挑戦し、自らも貪欲に蓄財に走り、企業を指導しました。大衆の貪欲さは功自身の貪欲さでもあります。中内功のやり方、その積極性と徹底性、そして非妥協性は、昭和初年の金子直吉に似ます。ただ金子が工業投資を重要視したのに対して、功は商業資本主義に徹しました。また金子が企業破産当時、自己の財産をほとんど持たなかったのに対して、功はファミリ-カンパニ-を多く作り、自分と一族の資産保全に計りました。
中内功は戦後経済界のカリスマです。時代を見抜く目と指導力、先見性は優れたものです。天才と言ってもいいでしょう。しかし商業資本特有の臭い、いやらしさをどうしても彼に感じてしまいます。豊田佐吉、武藤山治、小平浪平達に私が感じる、すがすがしさは功には感じません。工業資本と商業資本の違いでしょうか?あるいは私の偏見でしょうか?次の列伝にはもっと生臭い例として、小佐野賢治を取り上げてみましょう。

参考文献  カリスマ、中内功  新潮文庫

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