経済(学)あれこれ

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歌舞伎と浮世絵(3)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2019-12-09 13:56:22 | Weblog
歌舞伎と浮世絵(3)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(滝沢馬琴)
 滝沢馬琴は1767年江戸深川に生れました。父親は家禄千石の旗本松平氏の家臣でした。父親は堅実で有能でまた松平家の筆頭家臣でしたので、幼少年期はまずまずの暮らしができました。馬琴は三男で上に兄二人がいます。父親は厳格な人でしたが教育熱心でもありました。馬琴は生来記憶力が強く、意地っ張りで腕白でした。馬琴9歳の時父親が死去します。兄二人は他家に仕官します。馬琴は松平家に留まりましたが、俸給は父親の時に比べて大きく減額されます。やがて松平家を飛び出し、兄の斡旋で戸田氏に仕えます。暗愚な幼君の相手が嫌で、18歳、致仕し以後27歳まで一種の放浪生活を送ります。その間俳諧師、医師、儒者、狂歌師と試行錯誤を繰り返し、やがて当時戯作者として名の高かった山東京伝の門を叩きます。京田は弟子にはしてくれませんが、馬琴の素質を評価しなにとか面倒を見てくれるようになります。こうして馬琴は戯作世界とのつながりができました。京田は彼が書いた人情本が幕府の忌諱に触れて処罰されます。馬琴は京田の世話で耕書堂(蔦屋)の手代になります。京田としては将来作家になりたいのなら、出版元の事情を知っておく方がよかろうと思い、また放浪し零落した汚い身なりの馬琴の生活を救ってやろうというつもりでした。もっとも馬琴の方は生来傲岸で誇りが高く、京田の配慮にそう感謝するでもなく、蔦屋の客分のようにふるまっていました。蔦屋の方でも京田の紹介とあるので馬琴のわがままは大目に見てくれました。この特殊待遇を利用して馬琴は読書にあけくれ、また黄表紙本を出しています。この時彼は後世に伝わる曲亭馬琴の名を使っています。
 27歳、江戸飯田町の下駄商会沢氏の家に養子に入ります。理由は生活の安定の為です。相手の妻となる女性「お百」は年上で再婚、加えていわゆるブスでした。馬琴としてはこの家で適当に商売をしながら作家人生を送るつもりです。断っておきますが馬琴が初めから物書きになろうとしたのではありません。生来誇りと自信の強い馬琴が、微禄でバカ殿の機嫌を取るに絶えず、いろいろ試行錯誤した末こうなった次第です。馬琴の金との縁はあまり濃くなく、将来もずっと金との相克は続きます。結果から言えば馬琴の収入の大部分は原稿料でした。馬琴は筆一本で食った物書きの嚆矢と言えましょう。
 馬琴は下駄屋という商売が嫌いでした。理由は武士たるものが人の足の下にある下駄など下賤な物を作れるかという事です。副業に手習の師匠をします。子供に字を教えます。遠慮していた姑が死ぬとさっさと下駄屋をやめます。一方作家生活は旺盛で作品を作り続けます。その名を今ここで記す必要はないでしょう。手習小屋もやめ、下駄屋を辞めて薬屋を始めます。もっとも生活費の大部分は原稿料で稼ぎました。馬琴の生活は単調なものでした。妻は無学で話し相手にはなりません。問題は長男です。教育して医師と為し宗伯と名乗らせます。57歳神田明神下同朋町に転居します。宗伯は医師になりましたが、病弱で医業をまともに務める事ができません。収入は、どういうわけか仕官して得た松前侯からの下賜金だけでした。宗伯は結局父親馬琴の助手のような仕事をすることになります。宗伯は結婚します。結局期待した長男は役に立たず、生活は馬琴の筆一本にかかることになります。また宗伯は普段は温順な人間でしたが、時々ひどい癇癪を起します。そうなると収まるまで手がつけられません。馬琴が期待過剰で厳しくしつけあれこれいじり回して育てた結果でしょう。このように馬琴の家は不幸とは言いませんが、常に問題を孕んだ家庭でした。馬琴は家を切り盛りしながら、作家生活に没頭ないし逃避していたとも言えます。69歳の時宗伯が死去します。またこのころから視力が衰え74歳時にはほぼ失明状態になります。
 48歳から「南総里見八犬伝」を書き始めます。非常な長編小説なので少しづつ書いて行きます。八犬伝は好評でした。失明してからは宗伯の妻お路が助手を務めます。当時の女こととて漢文は読めず、難しい漢字も不得手です。反して馬琴の作品特に八犬伝では漢字を多く使います。眼の見えない老人と漢字に暗い嫁のコンビですが、信じられない事にお路は次第に漢籍になれてきます。生来聡明な性格だったのでしょう。75歳八犬伝は完成します。ほぼ同時に妻のお百も死去します。馬琴にとっては影の薄い妻でした。馬琴は1848年82歳で死去します。
 馬琴は傲慢偏屈で武士意識の強い人でした。加えて社交嫌いでした。生活資金の足しにと書画会を催します。そのためには高名な人たち文人墨客に頭を下げて出席を請わねばなりません。この作業が馬琴には死ぬほど嫌でした。ところで会を開けてみると当時の代表的な作家たちを始めとして会場は立錐の余地もないほど大入りでした。馬琴は彼自身の名声を知らなかったのです。書画会は孫である(宗伯の遺児)太郎に御家人株を買うための資金作りが目的でした。曲がった事が嫌いで八犬伝の名声が立つと、周囲の者は原稿料の値上げを勧めましたが、馬琴はそれを不正として断りました。生活はかつかつまあまあというところでした。作家の生活などそんなものでしょう。漱石は朝日新聞の社員であり、鴎外は軍医、龍之介は英語教師、茂吉は医師でした。特に詩歌で食ってゆくことはほぼ不可能です。近代文学の方向を示した理論家北村透谷の妻は、子供だけは決して文士にはしないと言いました。ごく一部の人を除いて現在でも状況は変わりません。
 馬琴はいろいろな挿話を潤色して物語に翻案し作品を書き続けますが、そのうち彼は日本の歴史に興味を示し始めます。多くの作品があります。生活のために書くのですから当然でしょう。彼の代表的な作品で現在でも読まれている本は「椿説弓針月」と「南総里見八犬伝」です。前者の主役は源為朝、後者の里見家は江戸時代初期に改易になりましたが、戦国時代を生き抜いた大名です。ここでは馬琴の名を不朽ならしめた八犬伝の荒筋を述べてみます。
 安房国に里見という大名がいました。時代は室町戦国期と設定されています。里見の城が敵に囲まれ落城寸前になります。里見の殿様は愛犬八房(やつぶさ)に、お前が敵将の首をとってきてくれたらなあと愚痴を言います。この時殿様は冗談に、もしそうなら娘の伏姫(ふせひめ)をやるのだがなあと言います。暫くして八房は敵将東条某の首を咥えて現れます。これを機に反撃に転じた里見は勝ち危機を脱します。八房は厚遇されますが満足しません。伏姫の側に寄り付きます。里見の殿様ははっと気づきます。結果は伏姫の意向もあり、八房と伏姫はともに山中に入ります。忠義な家来が山の中に入ると八房は伏姫と仲良く暮らしています。家来は八房を鉄砲で狙い撃ちます。とたんに情景は変わり、伏姫も八房も消え、伏姫が首にかけていた八つの宝石が飛び散り四散します。これが物語の序曲です。以後の物語はこの八つの宝石、それは仁義忠孝礼智信悌の八つの道徳を表示し象徴するものですが、この珠を持った人物の履歴と活躍、会合が物語の筋になります。結局珠を持った八人の武士が集まり、里見のために尽くすのですが、彼らは、例えば犬塚、犬田、犬村などのようにすべてその苗字には「犬」がついています。八犬士は伏姫と八房の間にできた、従って獣姦の結果の子供です。
 八犬伝は中国の四代奇書の一つ「水滸伝」の翻案です。水滸伝では宋初にある将軍が、道士により閉じ込められていた108の惑星(世の治安を乱すもの)を誤って解放し、後にこの惑星の顕現とされる108人の豪傑が活躍し宋王朝を助けると言う物語です。私の感懐では水滸伝の方が面白い。水滸伝の豪傑の背景と出自は塩賊(政府が専売する塩の密売を事とする山賊)です。代わって八犬伝の主役は武士です。水滸伝の豪傑の活躍が奔放なのに対して、八犬伝の主人公の活躍は抑えられています。加えて水滸伝では飲食い宴会の場が多く設定されているのに、八犬伝ではそういう場面はほとんどありません。黒旋風の李キとか花和尚の盧智深などのような破天荒な人物は八犬伝では出てきません。
 滝沢馬琴は武士意識の強い人でした。ですから彼の黄表紙本は硬くて人気が今一つでした。馬琴は作品に勧善懲悪を盛り込みます。その代表が「南総里見八犬伝」です。彼は交際嫌いでしたが、蒲生君平や渡辺崋山とは親交がありました。また本居宣長を尊敬していました。


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