経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、鈴木馬左也

2011-06-05 03:16:01 | Weblog
  鈴木馬左也

 鈴木馬左也は1861年(文久1年)日向高鍋藩の家老の四男として生まれています。生家の姓は秋月、藩主の同族、分家でした。秋月家は代々家老職を世襲しています秋月家はもともとは筑前秋月の戦国大名でしたが、秀吉の対島津戦で島津と同盟し、秀吉に歯向かい、3万石で高鍋に移封され、維新におよんでいます。馬左也は9歳の時、同藩鈴木来助の養子にやられます。馬左也の兄弟はすべて優秀でした。長男弦太郎以下、長平、左都夫、馬左也4人の威徳を称えて、四哲の碑が高鍋に建てられています。実父種節は西南戦争で西郷軍に捕らえられ、獄死します。養父の来助は朝廷軍の一員として、奥州で幕軍と戦い戦死します。実父に養父それに実母も馬左也の子どもの頃にすべて死去しています。
 馬左也は藩校明倫堂を振り出しに、鹿児島医学校、宮崎県立宮崎学校、金沢啓明学校、東大予備門と進みます。これらの学歴の目的は英語習得でしょう。予備門から明治16年22歳、東大法科政治学科に入学し、27歳卒業、内務省に入ります。27歳高等文官試験合格、愛媛県書記官として赴任、県の主務会計官を勤め、転じて大阪府書記官さらに参事官になります。こういう来歴は住友との親睦を深めます。1896年(明治29年)住友本店副支配人として入社します。馬左也の住友入りを聞いた伯母は、町人なんかになりたくない、と言って泣いたそうです。官尊民卑の風潮でした。この間馬左也は参禅に打ち込みます。さらに剣道を山岡鉄太郎(無刀流)と榊原鍵吉(直新影流)に、柔道柔術を嘉納治五郎(講道館)と渋川伴五郎(渋川流)に習っています。想像するに彼の武術はやわなものではないようです。体格はいかにも柔剣道で鍛え上げた体という印象を与えます。
 1900年(明治33年)伊庭貞剛(列伝参照)が住友の総理事になり、馬左也も理事の一人になります。前年に馬左也は別子鉱業所(銅山)支配人になっています。住友財閥は別子銅山から発展したので、別子銅山の支配人は極めて重要な職務であり登竜門でした。明治37年44歳時、馬左也は住友の総理事になります。この間住友の家長は、徳大寺隆麿が養子に入り、住友吉左衛門友純と改名して、12代を継ぎます。また家法が改正され、家長の下に総理事と理事数名があり、その下に支配人副支配人が重役として連なるという機構になりました。経営の実権は総理事が握ります。ちなみに三井と住友では家長は経営の実権をすべて理事に任せます。三菱は戦後まで岩崎家の独裁でした。
 馬左也が別子銅山に赴任した同年明治32年、銅山は猛烈な風水害を蒙ります。この被疑も甚大でしたが、別子銅山にはもっと大きな、住友の命取りになりかねない問題がありました。煙害です。採掘した銅鉱石を精錬して銅にする過程で、大量の煙がでます。単純な煙ではありません。硫黄や窒素を含む煙です。遠方の田畑にまで及び、農産物の成長が阻害されます。明治21年住友は銅の産出額を大幅に上げるために、新しく山根製錬所を作りました。ここから出る煙が問題でした。総理事伊庭は山根精錬所を閉鎖し、海の沖にある無人島を利用して、そこに新しい精錬所を作ります。四つの小島は総じて四阪島と名づけられました。これなら地上か離れているので大丈夫だろうという読みははずれ、風のかげんでより遠くに煙は飛びます。明治42年被害者の農民と住友は尾道で会談しましたが、相互の言分が食い違い、決裂します。翌43年話し合いがもたれます。最初住友は被害総額を2万円程度と見積もり、農民側は70万円以上と言います。結局住友は43年度に239000円、以後毎年77000円を被害者に支払うことになります。銅産出額は5500万貫に抑えられます。被害の程度により賠償額は増減されます。住友にはこの額は大きな負担になりました。1939年(昭和14年)に希薄ガスを回収してアンモニアで中和する方法が確立して、やっとこの争いと負担はやみます。住友は煙害の賠償に総額850万円使いました。
 煙害対策と併行し、いやだからこそ銅山は近代化しなければなりません。まず三つの大きな通洞を掘り、地下の坑道の連絡をよくし、運搬、排水、通風、採掘をスピ-ド化します。飯場制度改革を行います。飯場の世話料をボスが各坑夫から取っていたのを改め、会社が負担することにします。実質減額、そして飯場の支配権を失ったボス達の指導下に、明治40年一大暴動が起きます。住友は危機を感じ、善通寺師団長に軍隊派遣を要請します。一私的団体の要請で軍隊は動かせません。師団長の配慮で一個中退(約300名)を演習の名目で派遣し、示威します。これで暴動はおさまりました。
 ローラベアリング、蓄電池電車、エンドレスロ-プも使用します。四阪島に電車を走らせ、各工場間の連絡を整備します。島で火力発電をすれば機械に影響があるので、別子の近くに水力発電所を設け、海底送電施設(ケ-ブル)を敷設します。採掘が進むに従い、鉱石の銅含有がへるので、不良鉱石から銅を能率よく取るために浮遊選鉱を行います。
 住友精神という家訓があります。第一は、浮利を追わず、です。浮ついた利益を追求しない、具体的には株売買等の投機行為をしないことです。有名なジ-メンス事件で住友関係者から一人も容疑者を出しませんでした。これも住友あるいは馬左也の自慢の種です。以下に述べるように住友の事業はすべて銅山関係から派生しています。ですからその事業はどうしても製造業が多くなります。また商事会社設立に関して馬左也は一部の声を抑えて、商事会社設立に反対しています。住友商事は戦後にできた会社です。三井、三菱、住友、安田の四大財閥中で、安田は金融中心、三井は三井物産主導のために工業化が遅れました。三菱も海運から出発したために、商業工業半々です。その点では住友は異色でしょう。別子銅山から、銅の加工、肥料製造、発電所建設、機械製造などと進みます。その点では住友の経営は遠大といえましょう。
 第二が、自利利他公私一如、です。浮利を追わず、ですから、この傾向は否定できないでしょう。もっとも馬左也は、しかし自社の利益も忘れてはいけないと、釘をさしています。他にもありあますが、ありふれているので省きます。
 馬左也は、事業は人なり、と言いました。これは成功する企業ではあたりまえのことです。が、馬左也は新入社員を寧静寮という寮にいれ、住居を提供するだけでなく、精神の訓育も計りました。ささらに、茶ロウ山道場を開き、高名な禅僧を招いて、社員に参禅させ精神の高揚と浄化を試みます。
 1921年(大正10年)、住友は合資会社になります。社長の住友友純以下、馬左也他理事3名が無限責任社員になります。持株会社です。1937年(昭和12年)株式会社住友本社と改名します。
 別子銅山から多くの企業が派生的に出現しました。まず林業が独立します。林業課から林業所になります。銅山では燃料としてまた坑木として多くの樹木を必要とします。別子付近から始まって、宮崎県や北海道そして朝鮮半島にまで植林を行いました。総面積は142000町歩、内92000町歩は朝鮮半島における開発です。現在の住友林業です。
 銅の選鉱や精錬の過程で大量の硫酸がでます。これを処理するために、課リン酸石灰を作り肥料にします。肥料製造所がつくられました。発展して現在の住友化学にいたっています。三井、三菱、三共製薬と組んで、ドイツのハ-バ-法を導入し、硫安製造を行おうと試みますが、パテント料が莫大で、退却しています。
 他の鉱山としては忠隈炭鉱と鴻之舞金山があります。後者は当時日本一の産金量を誇っています。
 銅塊からそれを棒状塊にしてそこから色々な銅製品を作る作業を伸銅といいます。住友伸銅所が作られます。銅・真鍮の引板管を製造します。日本製鋼所を買収して住友製鋼所を作ります。継目なしの鋼管を作成します。海軍の発注でしたが、ジ-メンス事件で予定が狂います。鉄道の方に需要を見出しました。住友伸銅と住友製鋼は合併し、現在の住友金属になりました。
 銅塊から最初は細工物用の細線が作られていました。電気の普及とともに、電線製造に進出します。さらに高圧電気送電用のケ-ブルも作成しました。これが四阪島への海底ケーブルに使われます。関東大震災時、電線の値段は上がりましたが、住友は価格据え置きにしています。この事業は現在の住友電工に統合されます。
 銀行は明治45年に住友家の個人資産ではなくなり、株式会社になります。倉庫業も日本全体の海運が発展するのに併行して発展します。住友の倉庫増大には大阪築港が大きな前提になります。大正5年大阪港の南部に第一号繋船岸が住友の資金でできました。後に大阪市が経費を返還しています。事業は発展して住友倉庫になります。住友が立て替えたことになります。電力は別子銅山経営合理化の基礎として同地に作られた発電所が起源です。あちこちに発電所ができましたが、最終的には住友の電力事業は、土佐吉野川水力発電所に、さらに住友共同電力KKに統合されます。工作機械製作は住友の諸事業に必要な機械類製造から発展します。明治45年に10000Vの端出場水力発電所を建設しています。住友機械工業KK、そして住友重機械工業KKという会社ができました。他に日本板硝子などがあります。財閥として珍しいことに商事会社はありません。
 馬左也が総理事だったときに住友が行った社会事業としては、大阪府立図書館設立、懐徳堂復興、職工養成所立上、大阪住友病院設立、報徳会設立及び普及、がありまた良書を数点刊行しています。「国民高等学校と農民文明(ホルマン)」、弘道館述義小解、臨済録正本などがあります。懐徳堂は町人の町大阪で唯一の儒学講習所、弘道館述義は幕末の思想家藤田東湖の名著です。わざわざ職工養成所なる名前にしたのは、馬左也の強い意向です。彼は、当時の学校が知識のための知識の提供しかせず、現実の要請に対応できていない、と批判していました。ですから学校とせず養成所としました。すぐに役に立つ人材を作ろうというわけです。
 1922年(大正11年)3月脳溢血で病臥、総理事を引退、12月死去、享年62歳でした。明治29年36歳から大正11年62歳まで26年間馬左也は住友に務めました。維新以後の住友は広瀬宰平、伊庭貞剛、そして鈴木馬左也の三人のリレ-で近代化をなしとげます。三人が主軸とした産業は別子銅山でした。これを起点にして多くの産業を輩出させ、住友は工業財閥の性格を強く持しつつ成長します。

  参考文献  鈴木馬左也  鈴木馬左也翁伝記編集会

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