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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(436回目)ノーベル文学賞を考える:肉体に引きずられる言葉(その2)

2017-10-20 07:34:54 | 日記
 2017年のノーベル文学賞、カズオ・イシグロについては、たまに新聞に名前がでる程度だったなぁ、という記憶しかない。ノーベル文学賞だから、ブームにして世界になんらかの影響をあたえるのかといえば、そうでもないだろうというのが、素直な感想。まず、第一に読まれなければいけないから(当然)、英語という言葉に翻訳されていないといけない。候補に挙がる村上春樹(彼は選考されないと以前のブログに書いた、今後はどうか分からないがある条件を満たすようにならなければ・・・)、大江健三郎も無論英語で読まれていたし米国の大学に講師にも呼ばれていたしそれが小説の中にも多数ある。彼のメタファーという奴は、聖書から採られているのが結構ある。新しき人目覚めよ、遅れて来た青年(これは「遅れてきた国民」プレスナーという人のキリスト教国に似た表題の論文あり)、ウイリアム・ブレークなど・・・細かには自分の生家の木々のある四国をモチーフにイメージを膨らませているのが結構あるねぇ。
◆これは選考者にその時代、その地域(国)にある意図的(政治的な意味合いもある)なければ選ばれないということ。それが選定理由になるのだろうけれど。で、過去受賞の川端康成などは、とても描写がうまいなぁと思うけど、僕などは、肉体に引きずられる言葉、つまり彼の女性という生き物に対する男の作家である性的幻想が美的な意味で物書きの通奏低音のような動機で流れているのを感ずるので、実はどうも肌に合わない。すべてにおいてキリスト教をベースに起こっていると考えていい実存主義以前の生き物としての前段階で止まっている、と今ではと僕には思われる(文学的表現は別です、これでもらったのだから)。正直思うに『雪国』などは、たいそう女性に対して、男の身勝手な幻想で思い込んでいるというだけで失礼な内容なのではないだろうか。相手は年若い女性で商売が前提、こちらは客、当然新鮮でイメージは妄想を書いた得る設定は十分な条件という訳だ。行商のようなロシア女に不潔だと思うところがわずかに見られるところなどは、判断基準が既にこの主人公(作者か)の中にあるわけだろうから、そういう先に基準がまずあって、特に人に対する評価をするということが僕には性に合わない。善いことならともかく、否定は駄目だな。どんな境遇者にも、生きていく積極的な意味を僕は求める。
◆ところで、カズオ・イシグロだ。受賞理由、「偉大な感情の力」「われわれの世界との感覚が不確かなものでしかなく、その底知れない淵・・・」「わたしを離さないで」のあらすじを知った時、僕は島田荘司の『エデンの命題』という本を思い出してしまった。(光文社文庫)内容には、旧約聖書についての会話も出てくる。是非、立ち読みされてください・・・。それから、もうだいぶ昔、学生時代に見た映画『ソイレント・グリーン』だったか。俳優チャールトンヘストンが出てたな、あとイギリスの名優。内容は、つまり、自分が世に不要になったであろうと判断した人(老人)は自ら死を選び、苦しまずきれいな音楽、映像を見せられながら地上からのお別れをするという施設に入り、死んだ自分の肉体を加工してもらい、次世代のために緑色のペレット状の食料になる(食糧難に備えて)というような話だった。この地球上の物事の循環サイクルを人という生き物に対しても無駄なく、環境を守りながら生き延びていく社会になるということになるだろうか。地球上の人口増加に如何に備えるかという課題も盛り上がった時代だったか・・・。
◆僕が思うに、一時のブームにはなるだろうけれど、「神は自分の形に似せて人を創造された」、人、社会、時代、それらを謙虚に観察していくことは(無論、自分も含めて)、「世の終わりがくるが私の言葉は滅びないと言われた」この地上で生き、そして死んで、しかし、聖霊として生きている、あのイエスが示された神を知ることになると僕は思っている訳です。・・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(435回目)ノーベル文学賞を考える:肉体に引きずられる言葉(その1)

2017-10-19 05:55:10 | 日記
 カミュの『異邦人』 肉体に引きずられる言葉とはなにか。古典になりつつある実存主義哲学。これは人が肉体を持っている限り、自分の肉体の有り様を自分の言葉で捉えていくという作業(考え)。しかし、殆どの人なんかそんなことしていないものだ。結局のところそれは自分の実際の姿を見ることになるから。自分の姿など考えたくないものだし、そもそも考えるようにはできていないものなのさ。それは眼に見えている実際、その瞬間から始まるのが僕らに今にとってはすべてだから。可能性を信じて、などといいたいところだが実は君たち実態に於いてはハイレベルな次元で勝負はついているのだのだ、という声が聞こえる。実存主義を乗り越えて、だから人はこうしなくてはいけないだろうという時代の後半に入っているのだということです。
◆それで、自分の身体の有り様を言葉で捉えたとして、例えば「とにかく、太陽の暑さにはすべての物事が面倒くさくどうでもいいことなのさ・・・」というような場合。今でもそれは、小説や文学の題材になるのだろうけれど、現代は既にその言葉にすることの限界が来ているのではないかと思われる。人という物がいかなるものであるかということがますますその生理医学的に知られて解明されてきたから。その意味ということにおいて。簡単に例えると、昨夜は夜更かしをした、だから今日は午後から眠くて仕方がなかった、というような場合。これは原因と結果だと一応推論できる。それと同じようなことが、もっと人の行動を起こす内面において、本人が気がつかないまでに於いても緻密に推測がなされてきて言葉にする以前にすでに読者に結果の推論ができてしまい、文字とするまでのことがないことだろうということが人の行動の動機の表現に起こってくるということだ。文学の限界・・・これについては次回。
◆志賀直哉という作家の『城の崎にて』という小説を知っている人もいるかもしれない、僕が高校の時の国語の教科書にあった。ところでなぜ、あの日本海の小さな地方の町の温泉なのだろうか。川端康成も『雪国』で地方の雪深い田舎の温泉街にいくのだが、彼のすべての小説の底辺に流れているイメージは女性に対する男としての幻想である。すべての於いて底辺に流れる一方的な偶像であるがそれがモチーフとなって筆を書き続けている。それが幻想であり、破れた時は相手が人であるだけに、こちら側は死ななくてはいけないことになる。確かに彼は現実世界で自死した。雪国でも駒子という若い芸者に、そんなことでは早死にされますよ、言われている箇所がある。いずれ彼は一方的な幻想に破れたのである。(彼の死のうとした理由は推察がつくがかなりプライベートなこととして知られている。幻想が彼の現実より強かったということだ。有島武郎しかり。当時は情死はブームだったか、おいおい、待ってくれ、という時代があったということだ。)
◆ところで、なぜ城崎温泉なのかだが、知名度が高く知られた温泉となった歴史を調べると分かりそうだ。有馬温泉とともに江戸時代、多く賑わい流行ったと。その時代、理由はある病気に対する温泉の抗生物質の恩恵を受けるためにである。けれどこれは恥ずかしい病気でもあるらしいから調べても分からないかもしれない。つまりは江戸時代と言っても長いが、ある時期、その病気のためになくなる人は江戸の六~七割りであったということだよ。性病ね。養生訓を書いた貝原益軒も、そんな本を書いたにも拘わらず1年後にその病気で亡くなったというから、肉体の快楽に関する幻想は、この肉体の実態のつまり実存を越える力を持つとも言えるわけだ。これは笑い話ではない、2017年のこの時代にも実はネットで見ようと思えば男女の性的行為は見ることは出来るからかなのか、この梅毒と言われたこの性病はかなり増えているらしいから衛生面には気をつけよ、です。こういう身体の欲求に関わるプライベートな事柄はやはり個人の良識(良心)に属し、宗教性に関わるだろうと僕は思わされるのだ。新約聖書使徒パウロの手紙にある・・・彼らは当然の報いを受けているのだ、に近いものだったろうな。
◆『異邦人』の主人公ムルソーも結局、肉体に引きずられる言葉しか出てこなかったということだ。人が他の動物と特に異なる人としての前頭葉を働かせるということが、太陽の暑さのために面倒になったということ。よって、物理的な意味合いで思考する以前に拡散している神経系が言葉を通して、それが確実に死にゆく肉体に引きずられていたということになるのです。
◆ここでようやくブログのサブ・テーマでもある「脱出と前進」が出てくる。「脱出」とは、最終、自分の肉体からも「脱出」していくこと、その備えであり、それは常に「前進」になっているということなのである。それは、腐敗拡散していく自己の肉体に関わるすべての足かせとなっているしがらみであり、自己が本来の自己になるべくことを妨げている障害であるそのものからの「脱出」であり、僕らの人生はその途上にあり、その人が本来のその人としてあるべく成長進化への「前進」なのであると考えることが出来る訳です。そしてこれが今も人を創造されし神が、我々に帰還の備えをせよ、とのたまわっておられるように僕には聞こえて仕方がないのである。・・・ 続く

世界のベストセラーを読む(434回目)この国の人々は「異邦人」なのか

2017-10-13 07:00:00 | 日記
 あることを否定するには、その否定する事柄を少なくともそれを肯定している人の理解度までに達していないとちぐはぐになるよい例だ。しかし、そのようなことを書いてもそれは人の限界というものであろう。誰しもが自己中心的で、思い込みが強く、自分にとって白か黒かを判断し、善悪を判断し、もし、そこに会話をすることを解決の手段として用いようとのするだけでも、本来、それが限界の手段であるのだが、単なる自己防衛のみの自己否定されたくないという理由でそれさえも拒否するのであれば、自己中心だけということになるだろうと思う。自己肯定するために自分を慰めるための物語まで作ってしまい、ひとりよがりのヒロインかヒーローとなっているものだ。人というのはそもそもそういう傾向を持つ生き物なのだろう。第一、自分の意見を持ち、会話するには前頭葉を働かせねばならない。
◆カミュやサルトルは、既に古典の部類である。人がいかなるものかということが、神が自分に似せて人を創造されたということから、人は、その人自身を解明すれば神をより知ることが出来るであろうとして、あらゆる人に関わる学問がなされてきたといっても過言ではないように思うのだがそれは、結局のところ、自然は科学でありその手段は数学であり、その他は哲学であり文字とする言葉であったといってもいいのではないかと思し、それが時代が降りかなりカルチャベートされてきた、だからこれからはシリアスな文学というような物は、著しにくいという時代となっているのではないだろうか。それは、このブログの主旨からいえば、外なる人の解明であった文学の働きは、内なる人の内面からの発露の表現に対して共感する人が多くなるだろうと思われるからである。奇っ怪な人物、科学が発達し人の自然体に挑戦をする文学(それは人体を揶揄するような物も)あるかもしれないが、時代はそろそろ限界を呈しているように思われるのだ。
◆つまりこうだ、「異邦人」主人公ムルソーは神を否定する、かたや判事や司祭は肯定する。冒頭から言えば、「神」というものに対する理解が違うので、否定も肯定した強制も不毛な会話で終わるのが当初から理解されてくる。それに、主人公の肉体へ与えられる「太陽の暑さ」。そもそも、暑さや痛みなどの刺激は、第一にその理解の神経系回路は、頭脳の内、人が最も人らしく反応して意識する部位である前頭葉を通過するのは最後なのであるが、主人公はその神経系をその暑さ故に、といってもそれは一つのだけの原因ではないのだが、端折って止めてしまう。第一にムルソーは他者に対する理解しあう会話がない。女性マリイに欲望は感じるのだが、その暑さのために、すべてに面倒くさく肉体に引きずられる言葉しか出てこないのである。例えば、こんな会話がある。
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 夕方、私にマリイが来ると自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むなら、結婚してもいいといった。すると、あなたは私を愛しているか、ときいて来た。前に一ぺん言ったとおり、それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。「じゃあ、なぜあたしと結婚するの?」というから、そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むなら、一緒になっても構わないのだと説明した。〔・・・・〕 (カミュ『異邦人』窪田啓作訳 新潮文庫 p46)
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◆主人公ムルソーは、町ゆく女たちを見、美しいと感じたり、自然に対する感受性、それはまさに自分の肉体に備わった動物的反応には敏感だが人としての、相手の人との内面的繋がりがつけられないのである。本来、人の情緒性は生き物としての霊的関わりにも関係するものであろうが、その統合がうまくいっていない主人公なのである。したがって、自分の死を考えるにあたっても、生きている今の感受性のみを重視し、それだけだと感じ、部屋の壁のシミに神の顔を誰でもが見るようになるという司祭の言葉に対しても、太陽の色と欲情の炎、マリイの顔以外に何も見なかったと思う。そして、このように死んで宿命を、それは私の特権だと思うのだった。
◆この国の人々もおそらく、不明瞭な次の世界に送り込まれようとする事に対しても何ら疑問を持たず、大多数の人が人生を送るのだ。僕は思うに、そういう死にゆく自分の肉体からも脱出を図るべく、常に生きている霊と共に(聖書的には聖霊というべきか、それを求めてというべきか)今を前進して生きるのが、キリスト者なのだと僕は思っているのである。・・・・ 

世界のベストセラーを読む(433回目)異邦人は切れた!〔Albert Camus :アルバート・カミュ〕・・・Ⅴ

2017-10-12 07:00:00 | 日記
 ある一つの宗教画について以前書いた。それはキリスト・イエスがランタンを持って扉をたたいている絵である。その扉の外には開ける取っ手が付いていない、内側についているのである。つまり、内なる人がその取っ手を手で開けなければ、イエスは、家の中には入れないのである。この絵は象徴的である。護教的にこれを書いているのではなく、無理繰り扉を開けよう、明けて迎えてくれといっても所詮、内側から扉を開けないと開けるのは無理という話である。これは理屈で分かる。しかし、聖書はトリックのある玉手箱のようなもの、そのきっかけをつかむと手の内が明けようとする人には示される。かなり、忍耐と時間が掛かる人はいるだろうが、一瞬にしてひらめきのように信じる人がいることを僕は多く知っている。
◆ところで、いきなり冒頭のような文言の内容から始めるとこの国の多くの人々はうさん臭さを感じるのではないだろうか。このような感じで・・・つまり、私はイエスを知っている、あなたは知らないだろう、教えてあげよう、こういう方だ・・・。いい加減にしてくれ、俺はおれだ・・・と。(ここには、歴史の中で一般化された知識としての常識のイエスが、実はそれは不完全な人の言葉なのであるが、叱責のように脅迫してくるのが感じられているのだろうから、所詮、外なる人の宗教知識については自己肯定して行くにつれ腐臭を誰でもが感じるものだ。)
◆それでは、「異邦人」の第二部最後の方である。御用祭司との会話で、まさに「異邦人」のクライマックスである。ムルソーが神(僕にとってはいわゆるしがらみのあると理解される神)を拒絶する会話の部分を抜粋する。(カミュ『異邦人』窪田啓作訳 新潮文庫 p125~)
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 祭司は「なぜ、私の面会を拒否するのですか?」といった。神を信じていないのだと答えた。その点確信があるのか、と彼が尋ねたので、私は、それをくよくよ考えるようなことはしない、そんなことはつまらぬ問題だと思う、といった。〔・・・・〕すると彼は、自分では確信があるような気がしても、実際はそうでないことがあるものだと、つぶやいた。司祭は私をながめて、「どう思いますか?」と尋ねた。私はそうかもしれない、と答えた。とにかく、私は現実に何に興味があるかという点には、確信がないようだったが、何に興味がないかという点には、十分確信があったのだ。そして、まさに彼が話しかけてきた事がらには興味がなかったのだ。〔・・・・〕「・・・私の知る限り、あなたのような場合には、どんなひとでも、神の方へ行きました。」と司祭がいった。〔・・・・〕私といえば、助けてもらいたくなかったし、また私に興味のないことには興味をもつというような時間がなかったのだ。〔・・・・〕
 「それでは、あなたは何の希望ももたず、完全に死んでいくと考えながら、生きているのですか?」と彼は尋ねたが〔・・・・〕「そうです」と私は答えた。
 司祭は、あなたの上訴は受理されるだろうが、しかし、あなたはおろさねばならなぬ罪の重荷を負うている、という彼の信念を、語った。人間の裁きには何でもない、神の裁きがいっさいだ、と彼はいった。私に死刑を与えたのは、人間の裁きだ、と私がいうと、それはそれだけのものであって私の罪を洗い清めることはない、と彼は答えた。罪というものは何だか私には分からない、と私はいった。ただ私が罪人だということを人から教えられただけだ。私は罪人であり、私は償いをしている。誰も私にはこれ以上要求することはできないのだ。〔・・・・〕彼の姿が私には重荷になり、いらいらさせた。〔・・・・〕私は神のことで時間を無駄にしたくなかったのだ。
 司祭は言った「私はあなたと共にいます。しかし、あなたの心は盲いでいるから、それが分からないのです。私はあなたのために祈りましょう。」
 そのとき、何故か知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口あけてどなり出し、彼を罵り、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟首をつかんだ。喜びと怒りの入り交じったおののきとともに、彼に向かって、こころの底をぶちまけた。〔・・・・この後、3ページほどムルソーが司祭(君と呼んでいる)に対して思いをぶちまける・・・。司祭は眼に涙し部屋から消え去る・・・。(出来れば書店で立ち読みされて)〕 彼が出て行くと、私は平静を取り戻し少し眠った。〔・・・・〕
 あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべてからにしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心を開いた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じとると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。
                             ・・・ カミュの『異邦人』はここで終わる。 
 
 
  

世界のベストセラーを読む(432回目)異邦人 〔Albert Camus :アルバート・カミュ〕・・・Ⅳ

2017-10-11 07:00:00 | 日記
 1957年に短編集「追放と王国」が刊行され、この年彼は、ノーベル文学賞を授与された。ちなみにサルトルは、ノーベル賞を辞退している。カミュは44歳、それまでの受賞の中で最年少だった。フランスを代表するばかりでなく世界的栄光に包まれた彼は、新しい長編「最初の人間」の構想を練り、一部を書き始めていたとき、思いがけぬ交通事故によって46年と2ケ月の短い命を閉じた。(1960年1月4日のこと)
◆さて、この小説にユダヤ人が出てくるのかといえば出てこない。それは、つまり人の心情がキリスト教ベースのありように周知されてきた文化、伝統の上に、自分の母親の死に対して、みじんもそれらの人としての心情を見せないムルソー、殺人を起こすがそれは「太陽のせいだ」という彼に対しての「異邦人」なのである。
 まさに異邦人であるその部分を書いてみたい。明確なのは、殺人を起こして死刑判決となるのだが、その経緯のなかでの判事と懺悔を求める司祭(御用司祭)との最後の会話なのである。判事の会話から・・・少し長いが引用する。一方向的に、イエスの言葉をどうのこうのと言い続けることに対して、例えばこのブログのように、この国の人々はどう思い、考えるのだろうか。この異邦人の状況設定は、暑いアフリカのアルジェである。
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 にわかに彼(判事)は立ち上がると、〔・・・・〕書類の引き出しを開いた。そこから銀の十字架を抜き出して、ぶらぶら振りながら私(ムルソー)の方に近づいてきた。そして、普段とは違ったふるえるような声で「あなたは、これを、こいつを知ってますか?」と叫んだ。「もちろん、知ってますとも」と私は答えた。すると彼は、大層早口に、激した調子で、自分は神を信じているといい、神様がお許しならないほど罪深い人間は一人もいないが、そのためには、人間は悔悛によって子供のようになり、魂を空しくして一切を迎えうるように準備しなければならないという、彼の信念を述べたてた。彼はからだ全体を机の上に乗り出して、その十字架を、ほとんど私の真上で振り回していた。実をいうと私は彼の理屈に全然ついていけなかった。第一私はひどく暑かったし、彼の部屋には大きなハエがいて、私の顔にとまったりしたし、また、彼がおそろしくなったからだ。それと同時に少々滑稽にも認められた。というのは、せんずるところ、罪人はこのわたしなのだから。彼の方はそれでもなお語り続けた。〔・・・・〕ところが、判事は私を「さえぎり、重ねて私に訓戒を施し、すっかり立ち上がって、私が神を信ずるかと尋ねた。私は信じないと答えた。〔・・・・〕彼は、そんなことはありえない、といい、ひとは誰でも神を信じている、神に顔をそむけている人間ですらもやはり信じているのだ、といった。それが彼の信念だったし、それをしも疑わねばならぬとしたら、彼の生には意味がなくなったろう。「私の生を無意味にしたいというのですか?」と彼は大声をあげた。思うに、それは私とは何の関係もないことだし、そのことを彼にいってやった。ところが、彼は、机越しに、クリストの十字架像を私の目の前に突き出し、ヒステリックな様子で叫んでいた。「私はクリスト教徒だ。私は神に君の罪のゆるしを求めるのだ。どうして君は、クリストが君のために苦しんだことを信じずにいられよう?」〔・・・・〕私はもうんざりだった。暑さはますますひどくなって来た。いつもそうするのだが、よく話をきいていないひとから逃げだしたいと思うと、わたしは証人するふりをした。すると驚いたことには、彼は勝ち誇って、「それ見ろ、君は信じているんじゃないか。神様にお任せすると言うんだね?」といった。断固として、私はあらため違うといった。(「異邦人」第二部)
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◆伝統、文化、因習、慣習、おまけに日本仏教の伝統が成立されてきたこの国に於いて、宣教師により多くの殉教者を出しながらも受け入れて来たキリスト教の歴史の中で、1%にも満たないキリスト者以外の人々にとっては、このムルソーと同じような拒絶をするのだろうか。無論、死が近づいてもそれが、イエスを知らない人に対しては、一方向的に強制することなどは決して無いのだけれど。・・・ 続く