marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(431回目)異邦人「Keep on going!(前進し続けよ!)」 〔Albert Camus :アルバート・カミュ〕・・・Ⅲ

2017-10-10 07:00:00 | 日記
 世界のベストセラー「聖書」をかじってきて、ここで大きく脱線してきたのは、この国では抜けきれない宗教性について、この国の人々は2017年というこの時代になっても、つまり神の子と言われたイエスがこの世に誕生して2017年経過しているにも関わらずというか、新聞の記事には、魂や霊やらの書籍広告が時折掲載されるのは何故なのかということなのです。だから、あえて異邦人であろうこの国の人の次の世に誰でもが行くその算段を僕は自分のことにその体験を当てはめ書いてみた訳です。
◆あの世のことと、また、あの世に行く算段は死んでしまえば「おしまいなのだから」とこの国の多くの人は、思う。そして、異邦人は誰でもが生きている間は無関係なことと思っている訳だ。ですから、キリスト教のいう「救い」とか「永遠の命」などと言われても、さっぱりピントこない。かといって、悩みがないかと言えばあるわけです。さらには、科学が人を幸せにする時代を経過して、その言葉の良い意味だけの恩恵に預かろうとする宗教も現れる。すべてに於いて一筋の永遠の脈絡の糸が見えない訳です。
◆そもそも、この国の「仏(ほとけ)」とは何なのだろうか。「法」とは何を言うのだろうか、それは「般若心経」なのか。「僧」とは、お坊さんのことなのだろうけれど、キリスト教で言えば「司祭や牧師」ということになるのだろうか。仏教で言われる学校の日本史で教えられたところの「仏、法、僧」を大切にすることについて、命を与えるという神の言葉をこの国の人々と考えたいために僕はずっとそのことについて思ってきた。仏教は神を語っていないのだろうか・・・実は、語っていると僕は思うのだが。
◆ですからあからさまに、人とはこうなるべきだとか、生き物として親が死んだら涙を流す筈だとか、死者を弔うためにある期間は静粛にしていないといけないとか、忌明け(仏教では死者は49日間、まだその辺をうろうろしていて、その期間を経るとようやく次の世界への準備が備わるその明けのこと)の期間があるのだとか・・・その他、もろもろ、つまり一番、人がこの限りある人生のこの短い期間においての偏見やいわれの中に生活する僕らにとって「生きて私を信ずる者は死ぬことがない」と言われた、イエスに出会うかどうかは、実に大変なことなのだということを思っている訳です。これはどう見ても、人の言い伝えには読めないまさにイエスのことばそのものであるというところに、永遠に生きる命の言葉であると僕は感受するのです。
◆これを信ずるに何らの気持ちの障害も、制約もない。イエスが言われた「真理はあなた方を自由にする」。そこに到達するためにこの地上に当てられた個々人の人生はあるのです・・・という抹香臭いことを考えてしまうのです。それらの心のわだかまりが生ずる事に於いて偏見や打算や、甘えは排除されていかねばならない。それは、僕らが選択枝の無いこの肉体(聖書的には「肉」)を与えられ、パウロの手紙によれば「外なる人」にも当てはまるそれに関わるすべての負の事柄をこの短く与えられた人生を通して排除していくように生きる。それが、「神は聖なれば、汝らも聖なるべし」ということになるのではないだろうかと僕は考えてしまうのです。そこには、この地上に生を受けての「脱出と前進」がある。7月に亡くなられお話もさせていただことがある日野原重明先生ではないが、外なる人が滅びても(この地上の障害を終えても)「Keep on going!(前進し続けよ!)」なのである。
◆イエスの言われた神について歴史と言われる物が認識される以前、つまり人の文字で捉えられる前の遠い遠い昔に、この不思議に優秀と思われる国の人々は、真の天地を創造し自然を創造し、人を創造し生き物に命を与えた神が知らされていた、僕はそう思わざるを得ないのである。・・・ 続く