marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(437回目)続き:ノーベル文学賞を考える:新しい人間の誕生

2017-10-21 02:00:00 | 日記
 そういう訳で、文学における人という生き物の内面性については、ドストエフスキーあたりが人類に於いてはやはり山だったのだろうなぁ。ノーベル文学賞について、古くはカミュや(サルトルは哲学だが辞退した)、日本の川端康成、大江健三郎くらいが、僕の頭の隅にあるくらい。今回、カズオ・イシクロのSFっぽい内容に、決して非難するわけではないけれど、この僕の文字だらけのブログの主旨において(人の・人類の)世界はその方面に行くのではないのだけれどなぁ・・・という思いだった。
◆というのは、世界のベストセラー聖書、しかも旧約聖書、「神は自分の形に似せて人を創造された」(創世記第1章27節)。そして、第2章7節、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(これは、盲信という訳ではなく、この事は事実であるという設定のもとにこのブログは、進められてきたから)・・・のであるから、同じ、逃げ場のない地上の人は、他の人に対して、形ある物(血と肉がある)となり命(霊)が吹き込まれたのであれば、その時点ですでに、我々が何ら手の出せない神の創造の領域を操作しようとする意図があってはいけない禁忌領域に属することに「人」はなっているというのが僕の変わらない考えだからです。従って、臓器移植のために人が種別化され、誕生させられ、その人たちが死を願わなくなる、生を熱望するという設定は、僕にとっては時代にそぐわないだろうよ、と考える訳だ。
◆なぜなら、第一今は自分の細胞で(ISP細胞)で、臓器移植も将来可能であろうということが考えられる時代なのだよ。むしろ、この生理医学的に進化させられて我らが、「神の一人のように永遠に生きる者となるおそれがある。」(第3章22節)と神の存在の領域を脅かすような時代に入っていき、しかし、ISP細胞で誕生した新人類は、その手法を悪の手につかませない闘いを行いつつ、核の汚染により余命幾ばくかの地上の人類を救済するために、神の領域(霊)と実際(霊を吹き込まれた人間)との間を行き来し、人々にそのことを啓蒙しつつ、時代は次の世界に移行していく様子をリアルに描写する。その啓蒙にも事実にも、地球上のすべてのしがらみを断ち切るために如何に、思考を洗練させ、人とはこういう者という理解を限界ある中で教えつつ、脱出と(霊の次の世界へ、さらに高みへと)前進を図るべく時代はあるとするものが求められるのであると僕は思うのだ。時代は、「神の創造せし人は霊的な時間、空間にある」ということを知らしめるべくかなり以前から求められているのだ。僕ら人類は、聖書が語り、シモーヌ・ヴェーユも求め、大江健三郎が目覚めよ、とした「新しい人間」が誕生しつつあるのだから。
◆僕らは、自分の顔が他人からどう見られているか、知らないのだ。こころの思いとかという意味ではなく実際、知らないで殆どの人が一生を終えるのではないだろうか。鏡はあなたの顔の反転だ。合わせ鏡にしないと他人から見られる顔は分からない、これは物理視覚的に。
それと同じように、人が生きている空間に於いて、人の頭脳の中で何を考えているかも神の視点からでないと(つまり人には出来ない)分からないということと同じようなことだろう。これはどこまで行っても機械的な言葉、文字、音声での手段しか駆使できない人には限界ああるということだ。パウロが手書みで述べている。つくられた陶器(人)は陶器師(神)に何でこのようにつくったのかと文句は言えまい、と同じようなもの。**** 「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハネ伝2章25節)
◆新しい人間・・・イエスは言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ伝3:3)・・・イエスの言葉を挟んだが、僕ら人類は地上の自分達のありようも殆ど知ってはいないのだ。イエスは、イスラエルの教師ニコデモに言う。「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話してどうして信じるだろう。」(ヨハネ伝3:12)
◆これからの人類に求められる文学とは、このこと、天上への帰還の心の備えを気分や思いなどということを通り越してリアルに人類に促すものとなっていかなくてはいけない、時間はそんなに残っていないのだ・・・僕はそう思っているのである。・・・ Ω