marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

『雪国』その後の顛末・・・

2024-02-02 17:17:20 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

今回の内容は、あちらこちらに話題が飛び、面白くないかもしれない。けれど、僕の求めているのは、ブギウギではないけれど、美人じゃなくても生来のエネルギーというか、そういう女性の肉感的なバイタリティーなのかもしれない。

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何が作家に書かせる思いにさせていたのか。時代はどうか。主人公は何をどうしてそう行動したのか、などとすぐに考えてしまう。哲学や心理学や精神身体医学や、脳神経などという面白く齧っていると(宗教で言えば神学)読んでいくうちにそんなこと作家から主人公からいろいろ考えてしまい、ストーリーを面白く読むなんてことができなくなる。

つたない頭は、むしろぼんやりした文系より理論的な理系だけれど、これまた僕自身幼いころに彼等(👽)からダメージを受けていたので、それは抜きがたく次元の異なる世界なので、それを何とかしなければと思い、今までそれ(我ら人を動かし続けている彼等)を探し続けてきた訳だ。それでこうして終活の入り口まで生きてきたわけ。

すると、その狭間で我々という人に影響を与えている、あるいは同期してその本人になっている彼ら(👽)が少しづつ理解できるようになってきたので、人の物語のありようにいかに彼等が影響を与えてこの世界を成り立たせて動かしているかが想像できるように思われてしまうのだった。

僕らの世界は、その彼らが殆どの人をなしている。だから限りなく広がっているし、僕だけのことではないではないかと、その世界の端ばしを示してくれている彼ら(👽)との会話を僕はブログで綴っているだ。

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三島由紀夫や川端康成や武者小路など何をもってこの作家は書く意欲を保持しているだろうなどと思うと、これは危ない!と感じてしまうか、肌にあわないというか。太宰治なども、それはあの大きな家で母親ではなく乳母の世話を受け、あの長い冬の寒さで苦労なく過ごす、幼少の頃の影響を考えれば『人間失格』を書き大人になり情死するのも分るような気がする。

所詮、人のドラマじゃないかぁ、などと分かったような気持ちになってしまうのは、僕の欠点だ。下手をすると三無主義のように虚無感に陥りそうになる時がある。日本近代文学などというのは、どうも好きになれない。

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女という生き物の悲しさ、などと書くと時代におけるこの国に家父長制やつまるところ、金を稼ぐのが男社会であり、それにかしずいているのが女であった社会という時代であったなどという目線からみれば、川端康成の一連の小説は、むしろ作家本人の精神分析からすれば、大そう歪んだ精神であったなどという評価ができるかもしれない。無論、今から見ればの話だけれど。

女性にとっては今からみれば、ひどい時代であったなぁ、と。けれどももっと昔からこの国の女性はひどい地位にあったなぁと思われる時代であったように感じてしまう。それも今からなので、彼女たちはそれは、その世界でこういうものだと生きてきた訳である。

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ここで、その国の人々に疑いもなくしみ込んだ宗教性でいかに異なるかが出て来て、あのガザのイスラムの人々も、インドのカースト制の人々も、チベットのラマ教の人々も、その他多くの人々の宗教もあろうけれど、最も崇高なものは僕にとっては、聖書の神であった訳だ。かなり数段、最上の神であろう。人を創造したんだから、それ以上は考えにくい。

古代から人の肉体としてあるいは霊としての命のこと。最後は自分の肉体からも自由になるという、その行く末が明確に書かれているからである。人は必ず死ぬからね。

観念的な思いではなく、現実的な今を生きているこの自分についても思考させるものである。それは実態として、キリストが完全なる人として個々の一人ひとりと語るところにある。人格や人権がキリスト教から出てきたものであることが分かる。『生きて私(キリスト)を信ずる者は死ぬことがない』と彼は言われる。

大切なのは個人からの推奨ではなく、自らキリストと語ることだ。

それで話が飛んでしまったようだけれど、僕らこの国のDNAにしみ込んだ宗教性というのは、古代、大陸からの多数の帰化人によってその土台をなして今にある、といのが持論なわけだ。だから、西方浄土ではないだろうけれど、あの中東までつながっている(旧約聖書の世界)というのが僕が考えてきたことなのである。この話は切りがなくなるのでこの辺で。

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ブログの22年の7月から8月にかけて坂口安吾と秋田生まれの美人作家矢田津世子のことを書いた。坂口安吾は秋田美人の矢田津世子にいきなり接吻した、それは本当かという話。

彼女は東京に行って作家になるのだけれども、川端康成に「あんたのような美貌があれば女優になったらどうか」と言われたと津世子の解説文にあった。それで、川端のことを思っていると矢田津世子のことを思い出した訳。

矢田津世子の文学館は秋田の五城目にある。どれほど美人だったか、写真を掲載しているので遡って探ってみてください。次回、矢田津世子のことの少し書く。

川端康成の文章表現はうまいなぁと思うけれど、特に冒頭ね。雪国や伊豆の踊子でも。けれど、一転、その本人はどうなのかといえば・・・爬虫類のような顔をして、もっぱら一方向性の女性美化に徹してそれでイメージをつなげていっていた。次からつぎへと、若いイメージを沸かす女性を追いつずけていくのか、と思うとやはり危ない。現実生活において、お手伝いにちょかい出して死期を早めたような記事もあったけど。

そのイメージに羨ましいとは思うけど、所詮、人は老いて死んでいく人である訳だから、もっと清楚な聖母マリヤより、天使ガブリエルからイエスの誕生を知らされ、御心のままにと言い(つまりマリアは天使と会話するだけの霊のモチベーションを持った人だった訳)、イエスがエルサレム神殿で学者と口論して、それを気に留めずマリア一家は帰路についてしまい、三日も探しまわり、イエスをしかるマリア。

「父の家にいるのがどうしてわからなかったのか」というイエス。実の父、ヨセフはいつ、どこで、どう死んだのかも書かれていない。前半だけ顔を出すが、出番はなく早死にしたんだろう。

ということは、聖書はイエスの時代になって、その命を与えている神(神の使い)と地上の女の物語であって、所詮、男という生き物は切った貼ったで歴史を作って、天地を創造した神の摂理の進化(全人類への宣教)の役割を担っている脇役なのかもしれない、ということを開示した書物なのかもしれない。

死から復活したイエスに最初に出会ったのは、女であった。

イエスの兄弟もいたその家族を切り盛りしていた気丈なマリアの姿の方に僕はリアリティーを感ずるし、おそらくとてもバイタリティーがあって魅力があったんではなかろうか。僕の女性のイメージはそちらに傾く。

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心理学や精神身体や脳のことや宗教、とくに神学などと少しでもかじってくると政治の事にも関与せざるを得なくなる。ただ、興味があって読み飛ばしているけれども、深刻に考えればそれらは僕らの生活にも多大なる影響を与えている、普段はあまり考えないけれど事実なのである。人の成り立ち。

結局のところ、お金だ、と。そうだろう・・・とイエスを裏切ったユダは言う。いつの時代もそういう、下心のお金という担保があっての繋がりなのであると、ね。ここが、小説の背景にある時代背景にある。つまるところ、時代の政治的背景なのであると。とくに近代の小説は女性の地位は痛々しい。

そこまで行かずに我々は、その手前で満足できるところでこういうものだと「もののあわれ」を感じて諦観をもって人生を生きつつけているわけである。今の僕らでも。結局、不正に対しても反省もしなければ、その地位に上り詰めれば痛みも感じないというわけだ。

だから、政治的なことまでは考えさせる言葉を持たせない。言葉を駆使する作家は、既に感づいているのだが、第一に教育においてそれらを考えさせる言葉を持たせないという教育を大衆にはしてきたのである。

戦争に負け、進駐軍が国体を維持する誤ったこの国の思想あにむずびつく思想の焚書坑儒をしてしまって、その影響をずっと受けてしまっている訳だ。それは、為政者にとって都合がいい。そうしてくれたから、いまだにそうしてくれた彼らに臍のヲを掴まれているという訳だ。

しかし、考えて見たまえ。異なるいわば崇高なる次元の目線で見れば、それは時代を進化させている、つまり地上の人という生き物の精神のあり様、それは神に近づく崇高なる次元にモチベーションを引き上げんとする時代の背景があるのではないかと思わせられる。

世界はそのように成り立ってきたように思える。

つまり、人の心の浄化意識。必然的な人に沁みついた、意識するしないに関わらず、人の宗教性の実際の浄化。神、使いである彼等(👽)はそれを願っているのだろう。無論、絶滅せんとする奴ら(👾)もいるけれども。

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高校時代に国語の教科書に載った、川端康成の『雪国』、森鴎外の『舞姫』、志賀直哉の『城之崎にて』無論、他にあったんだが、文学の神様と呼ばれた志賀直哉はともかく、文章のきれいさだけを学べというものだったのか。こういう作家がいたんだよ、だけだったのか。土台であるべき、深く自分というものを考えさせない教育というものは何だったのだろう。

川端康成も安部晋三さんも「美しい日本の~」とか賛美したお二人は、自死したし、殺〇された。大江健三郎が「あいまいな日本の国」のノーベル賞の講演は西欧かぶれと言われたけれど、それは、すべて天地創造をされたその土台に基づいていたものではなかったか。

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ここまでくだくだ書いてきて、結局、数段上の人類をかなりはるかから見通している神の目線があって、その僕らには分からないそれらの演出によって僕らは生かされている、生きているということが理解されてくるということなのであった。・・・



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