marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(83回目)

2016-08-08 00:37:53 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 今回も大いに脱線。
「私はプロテスタント(新教徒)で、同志社大学の神学部の神学部もプロテスタンティズムの拠点なので、これまでカトリックの立場からのキリスト教史を勉強したことはありませんでした。今回、特にお願いして大森先生から差し入れていただいた『キリスト教史』はカトリックの正当的立場から書かれたものです。プロテスタントの世界で「善」とされていたことが、カトリックの見方では「悪」となってしまうのがとても興味深いです。プロテスタントからすると「宗教改革の時代」がカトリックの立場では「信仰分裂の時代」となるのです。(p91) 獄中記:佐藤優(岩波現代文庫)」・・・神学は世を渡り行く”武器になる”と仰せになる 佐藤優さんの獄中での言葉である。 
◆カトリックの長い歴史のあった時代、イエスの声に耳を傾け、自分の言葉で捕らえ、それが真のイエスの言葉で私にはそう語っていると公にし、組織の維持のために、権威のためにのみ、つまりイエスはそのようなことは語られていないと自分の言葉で語り始めた人々を火あぶりの刑に処した歴史があったことに対して、心理的に同じことが繰り替えされないとは保証されないのではないかと思うわけだ。(これは当然、心理的いわば心の中での話)その権威、組織維持のために、目に見える光を装うであろうと。これが、僕がおそらく戦いになるだろうと書いたキーワードである、”従順と良心”である。世界の兄弟、みんな仲良くしよう・・・ってな。
◆その道の人達は、神学大学に短期間(4年生、院生で6年)で素直に聖書を学び、おそらく主イエスに習えと従順も学ぶだろうが、それ以上のことは体験で学ばないというのはどうした訳だろう。みんな光の方ばかり向いて、日陰にいる人を立ち上がらせたのはイエス御自身ではなかったのかと思うが、そちらの方面はとんと目をやらない。立派な肩書きの方の心持ちのよい話、それは実際はどうであれ、作られた話でもいいのだ感動させれば、というような、少し情緒を終わりに味付けにしてと、なんだそれ!のような話がまかり通る。(はっきり言って恣意的な感動させる英雄譚を語る人は、何か雄弁な筋書きの自己満足、そして人をも俄に感動・・・と何か大きなイエスの言葉から言えば勘違いの人が結構いる。であれば、日本仏教者でも本当に人々の為に尽くした人々が多くいたのだし、イスラム国でも過去の英雄的働きをなした殉教者の語りを聞いて、おいおいと涙を流して感激に噎ぶのである<これは本当です>のと大差ないさね)
◆自分の言葉に素直であれば、当然おおいに疑問が沸くはずであろうが、畏れ多くも神の言葉ということで、他のことは一切振り切って、聖書の書かれたことに疑問をもつとそれはキリスト教ではありませんと言い張る方も驚くことに、本当におられるのである。その道の組織体、身体なるイエスの言葉それは教会であるとして、その保護のもとに一切の批判を切り捨てる方々が実際におられるのである。日陰がないと育たないモヤシである。フォーサイスの言葉「神学無きところに教会なし」どころではない。(これは神学者近藤勝彦先生もご賛同の言葉。知識としては詰め込むが、あとは各人、御心のままにである。なんといいても畏れ多い神様の言葉を取り次ぐ方々であるから・・・しかし、それで本当にいいのか)
◆イエスが語られた”命の言(ことば)”の課題は、高尚な神学者だけのものではなく、砕いてみれば僕ら素人が素直に自分の言葉で、聖書の記事を捕らえようとしたときに、考える、思う、自分の言葉で納得する・・・、その時代に対してイエスは私になにを語るか、或いは、その時の私はなにか・・・のような事なのだ。・・・Ω

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