marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(400回目)400回を記念して少しバチ当たりなことを・・・〔創世記第3章〕

2017-07-29 21:41:43 | 日記
 今までのキリスト教史の中で、旧約聖書(ユダヤの方にとってはこれのみが純粋な「聖書」です)はいらない、イエスの事が書かれた新約聖書のみが必要であるから・・・というようなことも言われたことがあったようですが、新約聖書のみを読むにしても、やはり天地創造が書かれ、それ以降の神の選民族と言われた歴史が書かれているので、旧約聖書は気になって仕方がない。
 新約聖書の多くの手紙を書いたパウロさん自体は、生前のイエス御自信の生の声は聞いていないにも関わらず、キリスト・イエスを知る以外の知識は糞土のごとくに思うと手紙に書いているのだからという訳ではないのでしょうが、かといって、彼は、旧約やその他の律法も熟知していたスーパーエリートのような男でしたから、その否定すべき内容も知っていたのです。イエスという新しい、しかも父を見たのだといようなとんでもない男が現れてクリスチャンという集まりごときになってきた、これは成敗せなあかんということで、その理由たる先祖伝来の知識は誰にも負けないくらいの男であったのです。ヘブル語、アラム語、ギリシャ語、ラテン語(ローマ市民権を持っていた)は話せてガマリエルという当時の大学者に師事していたようです。で、つまり肯定できる先祖伝来の基礎知識を知らなければ否定もできない訳で・・・。
◆それで、異邦人の僕らも旧約を読み始める訳だが、何せ先理解がまるでないと機械的に読んでも実は意味が良く分からないところもある。おまけによく読まなくてもというか、文章が理屈的にあわないところが見られ、これはまずい。先のブログ少し読まれたし・・・。世界のベストセラー聖書もやはり、ただ読むだけではというか、周辺の予備知識というものがなければ、さじを投げ出しそうだ。
◆しかも初心者には、それでなくても神様の事が書かれた神々しい書物だ。どうしようっという訳だ。それで、教会でも聖書は読みましょうと読書日課にも入れてくださるのはいいのだが、なにせ書かれていることが、なんでだ~というようなことが書かれている。一応、字面は、つじつまがあわないと正直者が丁寧に読み始めると、それなりに文句も言いたくなる、しかし、大切な神様の本だし文句も言えなさそう・・・、さもありなん、それが旧約聖書というものだ・・・とその道の先生方がおっしゃられてもなぁ。
◆分かるところも多い。しかし、それは今の僕らには関係ないようだし、万物を造られた神様であるけれど、大切に読まなければいけないようでもある。その道を求めている方に実は、神様の使いのグループがいくつかあって、その昔からの資料を似たようなところをつぎはぎして編集したものなのです・・・というようなことを教会ではおそらく間違っても言わない。
◆先の旧約の大家であられた関根正雄先生当たりの時代(昭和51年頃)は、旧約でのその資料はヤハウェ資料、エロヒム資料、祭司資料が少しと諸々、旧約聖書の物語のはっきり言ってつぎはぎ(これは大変失礼な話だから)資料を編集して、ある程度、字句もとても大切で意味のあるもであったからそのまま、そのそれぞれの個別に書かれていたであろう資料(貴重でとても大切な資料であったと考えられる)を編集(当時としてはきちんと整理してそのまま書き留めた)したと思われるのです。この先生は「神の霊」のことを強調されていたので尊敬。
◆それで、引き延ばしてきました「誰の目線で書かれたのか」なのですが、ここまで来ると詰まるところ元の基本となる資料は、天地創造に加わった、あるいは人を創造するに際に加担していた御使いの記録者なのであったということになるのでしょう。ここで言っているのは無論神話があったという事ですが、もともとのそのものを書いた方々という意味です。「神は霊である」と言われていますから、その御使いが僕らも読める個別の記録を書いたということはかなり波長の荒い地上の人の次元と霊の世界との空間を行き来できていた御使いが記録したものを残したものと考えられるのです。
◆で、聖書の研究は現在でも当然、行われているわけで、イエスが再び来られるまで止むことはないのですが、聖書のそれは、学習すればそれで卒業ですということでは決してなくて、共に彼と歩み、また無論、知識だけでの学習ではなくて、個々人の課題、人生のすべての宿題というものをともに学んで地上の生涯を終えるという意味合いが含まれている訳です。生きた、イエスの言葉に触れると言うことは、実に多くの慰めとなるのです。・・・ 続く 
 

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