「・・・芸術は物が作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意味を持たないのである。」(〔A〕(p87)<五章この方法を永らく探し求めてきた>) 先にも書いたが彼が見いだしたロシア・フォルマリズムの定義として、彼が点を打ち強調している一文である。◆大江がそのように思われているならば、なぜ、作られてしまったものをやたらに自分の作品に引用するのであろうか。詩人の要素を持つ彼には、「いや、それは関係ない、できあがったものからインスピレーションを受ければいいのだ」と言っているようにも読めるのだ。それでいいのだろうか。僕ら凡人は、引用いた作家の作品にはその時代の読者がいたのだから、時代に影響をうけない普遍的な読み取る力のある人など一人もいないと思う。だから、その方面(僕はなんども曖昧に書いてきたが)を求めようとして人類は、(「人とは何か」などの意味を求めて)文学を読み求めるのではないだろうか。◆だから、彼が引用しすぎる<できあがったもの>のその<解釈>には、当時の読む大衆がいたのだ、どのような困難を抱え、喜び、悩み、憎しみなどの大衆いたのだという体臭がまったく臭ってこないのである。それは、彼がその作品から、彼自身が求める小説の方法のみをあくまで恣意的に技巧的に<あくまで知的に>求めようとしているからであろうと思われる。そして、読者も読めるように知的訓練をせよ、と鼓舞し、励ましているのである。◆過激な主人公に言わせれば、こうなるだろう。「そうだ、神などいないのだ、「異化」の為なら地獄も見よう、性的異常者も大いに出てこよう、殺人も結構だ、・・・見るまえに飛べ!」
〔B〕のテキストの<5章「異化」からの戦略化・文体かへ>はこう言う文章で終わっている。***「自分はどうしてもこの作品には入って行けない、と感じることがある。それは読み手として、書き手の戦略を受け止められない、ということなのである。新しい書き手は新しい戦略を持つ。彼が新しいのは、すでにある文学の戦略においては見られなかった、独自の戦略を持つからである。新しい戦略は、当然のことに、旧陣営から抵抗を受けよう。その障害を乗り越え、彼の新しい戦略に進んで共感してくれる読み手を見いだす時、新しい書き手と新しい読み手の間に文学表現の言葉の、新しい「異化」の世界がひろがる。その力によってのみ、文学状況は革新されるのである。」(p65)*** ◆この本は、書き手の指南書ばかりではなく、読み手も相当の訓練するという努力をしないといけないと激励しているのである。しかしだ! 彼が若き頃に、文学は人類を救いうるか、というような思いを持った時、大いに前頭葉をかき回してくれて感謝であるけれども、文字を言葉として「異化」を求める知的方法に採用するに、内容テーマ・素材は書き手達の自由でなければならない(p204<16章 新しい書き手へ(二)>)と書いているのは、読者を受け付けなければ、ただのマスターベーションで終わるのではないか、僕にとって読めなくなった、吐き気がしてきたというのは、なんら別にサルトルの「嘔吐」ではない。(「嘔吐」これは、言葉上の哲学的な深遠な問いの次元なので)。被創造物の生き物のそれとしての通常感覚に、彼は果敢に(いたずらにとも言える)挑戦しているからである。人類が生きる上での通常感覚が、まずあってそれを世界的に生き物としての人類全般へのシェアーし、これから生き延びる世界に引き上げて行こうとする(彼が、引用するシリアスな多くの著作も底辺にはそれがあるのだ)意図が無言の内にあるのである。