◆大江健三郎が、慕っておられ、彼あの小説内容はともかく、教え子だからということも無論あるのだろうけれど、渡辺一夫教授がそもそも求めたご自身の研究勉学は、求道の営みであったろうことは、昔、ブログにも書いたが、戦時中に書いた『敗戦日記』にイエスに対しての信仰告白が多くみられることから理解されることである。「かの人」と呼んでいたイエスを(現生における組織体に)入信はしなかったが、キリストと信じて、その十字架の意味を深く知っていた人だったということである。当然、その学問を当時司る人々には、通奏低音のようにその底辺に流れているものの源泉をたどれば2000年前に十字架で死んだあの男のもとに行きつくことだったのだから。そして、その男はよみがえって今も生きているというのだが・・・。◆キリスト教には入信しないが、キリストを信じるということは、当然、あり得ることで、それが、僕のそもそもの「”すべてのしがらみ”から解放されて」という主旨でブログを始めた理由なのだ。キリスト教は、その伝統によってあまりにカビ臭くなってしまっている一面があるけれども、その源泉(始源)は、全人類、すべての人に開放されているものでもあるのだ。僕ら誰でもが、生きとし生けるすべてのものは、そこに向かって行かなければいけないし、再生はそこから始まると僕は思っているのだ。多くの文人達は、本来、欧米でなくてもこの日本でもそこを求めてきた人は(キリスト者でなくとも)多くいるし、僕はそんな人々のことばに勇気をもらっているのだ。◆それにしても、大江が東大の卒論で書いたサルトルは、自身無神論実存主義ということをはばからず述べていたのだから、全くのキリスト教神秘家で創作がその頂点とも言える、ウイリアム・ブレイクにその作家としての創作意欲をもたらされると晩年、切り替えていくのは(まったく真逆なのだから)、はてさてどうしたものなのか、と読者は思わないか? やはり、J・P・サルトルは無理があるんだよ。