◆イエスの語られた”種まきの例え”について、その中の神の言葉が撒かれた(つまり聴いた人)が、はじめ喜んで受け取るけれど「自分の根」がないので、いろいろな雑毎で困難があると棄ててしまう、ということを語っているのである。けれどもそもそも、誰にでもあたえられているというその「自分の根」とは、どこにあるのだろうか? 誰彼にはあたえられていないのだろうか? 人がイエス・キリストの言葉をいい話だなと思いつつも、多くの人が、それは世の宗教の一つであって、自分は家が葬式仏教だからとか思って、なかなか実は巷の宗教などとは関係なくて、地球上にすむ人類への創造者の言葉である、などとは考えてもみない。それは、確かにどのような方法でも、この世界に目に見えぬことを伝えようとすれば、まずは”不完全な人を媒介にしなくてはいけない”という限界があるからなのであろう。人が話すことの限界、困難。◆第一「おれには、おれの考え・・・」という考えは、実は誰しも正当なのであるけれど、問題はそのことさえも意識もしねぇ、という人について実は問うているのである。あくまで、思う思わぬにかかわらず問われているのは「自分」なのだ。行き着けば、まっこうくさい話だが、必然的にいつかはなくなる肉体について、その意味と有り様を問うたことがあるか、ということだけだ。◆親鸞の説いた浄土真宗の「悪人正機説」は、実にキリスト教にとても似ているけれど(僕は、中国で”善導”が唱えたと言われているけれど、更に西から来たキリスト教に触れていたからと思っているのだが)、第一”自分は悪人である”と自覚しない人には、そもそもそういう意識がないから、唱えるお経はその人の心には有効に響かないということになるだろう。”自分の根がある”とは、その訳の分からぬその宗教の言葉を受け止める「自分があるか、それを問い続ける自分があるか」ということなのだろう。キリスト教で言えば、”罪”の自覚を考えられるそもそもそれ以前の基礎の「自分」”ということだ。◆世界のベストセラーは「自分」ということ、それにイエスが語り、使徒パウロが手紙に書いた「生きる」「死ぬ」という言葉の意味を探りつつ読むだけでも、すでにその時点で、この「場」に存在し動きつつある「異界」の入り口を垣間見ることが出来るであろうと思われるのである。「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」(ヨハネ伝3:3)