marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(719回) (その4)昔、A牧師に出した手紙

2020-09-08 20:53:07 | 手紙

知識人について。毎年、成人式で「青年の主張」がテレビで行われておりましたのは先生もご存じかと思います。今は、成人式も年により動きますが、この「青年の主張」も見られなくなりました。わたしは、最後に選考委員の講評者である慶応大学の教授であった 江藤淳の著作に引かれて教養が高められていたと自分勝手に思っていた時期がありました。「青年の主張」は聞かなくとも江藤の最後の評価は聞くようにしてました。「夜の紅茶」というエッセイ、「成熟と喪失ー母親像の崩壊」などで賞をもらった著作がありまた。「夏目漱石」(新潮社)で日本文学大賞を得ましたし、文藝春秋では「海は甦る」などの連載を書いておりました。しかし、心にひっかっていたことが2点ありました。それは、若い時分、(確か)フルブライト留学生でアメリカに行った時に、非常に人種差別意識を感じていたことが「アメリカと私」に書かれていたこと。それと、後でノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の若いころの著作を文芸評論家として酷評していたことです。それも今では、彼が自死してしまった為に尋ねることができません。彼の死と共に日本人の青年の主張は番組も亡くなったのではないか。評論家が自死し「青年よ、年老いてもうろくし、脳溢血になって人の世話になるようなだらしない生き様をさらすよりは自分の生涯の終止符は自らで行え」と自らの死で示したことになったのではないか。そう思われてならなかったのです。では、あの青年の主張で語られてきた評価は一体なんだったのか。日本の知識人、教養人の限界はここに表れているのではないか。(川端康成も自死しました。三島由紀夫も演劇自殺をしました。内村鑑三に彼と関係する者とは一切の関係を断つと言われた有島武郎の情死はせっかくの高い教養がありながら聖書をファッシン化されて文学に模している状態で、ルカ11章25-26節を思ってしまいとても残念です。彼の遺体は腐敗がひどく誰彼わからない状態だったそうである)。まったく、地上に生を受けても、なんら真の宗教観は持ち合わせていなかったのだろうと思わされます。これが、日本の知識人か、教養人なのか・・・続く


世界のベストセラーを読む(718回) (その3)昔、A牧師に出した手紙

2020-09-08 20:49:29 | 手紙

「だれでも真理につく者はわたしの声に耳を傾ける。」(ヨハネによる福音書18章37節)しかし・・・

日本の国では人が地上の生涯を終えれば、その人の思想も消えるのではないでしょうか。否、思想にも成り得ないのではないか。後述する、小林秀雄が、言う「文化という有機体に不連続などない」・・・にも関わらずです。加藤周一(4年ほど前に亡くなった)や丸山真男やその小林秀雄でもいい、普遍的な意味あいで読まれているのはあまり聞いたことがありません(教養としてはときおり読まれているでしょうが)。むしろ、小説家の夏目漱石あたりの方が、今でも海外で良く知られている・・・。最近では村上春樹というところでしょうか(こちらは娯楽のジャンルに入るか)。日本に於いては思想、哲学においては非常に制限されていることに閉塞感を覚えている人がかなりいるのではないでしょうか。実は愚衆の方が政治として御しやすいということもあるので、その方面の教育にも力を入れていないというのが正直なところでしょう。「われわれはキリスト教国、欧米に何を学んだのか」というテーマでは、夏目漱石、丸山真男や加藤周一は必ず読まれてしかるべき方々です。日本の知識人、教養人のキリスト教(「教」とつくと欧米のゴミのついた人の言葉の古文書までも引きずってきてしまうイメージがありますので、簡単にキリスト教と書きたくはありませんが)に対する考え、その取り込み方にわたしは常日頃、関心を持ってきました。なぜなら、キリスト教を批判し、信者を死までおとしめてきたのは、体制側の為政者であり、当時の知識人、教養人であったからです。・・・続く


世界のベストセラーを読む(717回) (その2)昔、A牧師に出した手紙

2020-09-08 20:45:09 | 手紙

何年か前でしょうか、数年前、NHKでも取り上げられた話題となった「ソフィーの世界」を書いたヨースタン・ゴルデルがその著作の中で、(100年以上も前の)ウイリアム・ジェームズ「宗教的経験の諸相」が課題でその宿題かを行うに母校ハーバード大学に行かねばならないなど書かれていることに、それが一般教養で今も読まれていることに「勝負あり」を感じました。(某牧師先生もウイリアム・ジェームズは神学者であると言われていましたが、なんども言いますがこの方は神学者ではありません。神学者の学びをするとすればまずは、近藤勝彦先生の「二十世紀の主要な神学者たち(教文館)」ですね。面白く読みました。)日本では、西田幾多郎を一般教養で普遍的な意味で読むということは考えられないでしょうから。解析、評論で終わる、敗戦を知らないでなくなった西田幾多郎は鬼畜米欧戦争肯定者でした。しかし、彼がカール・バルトに留学させた愛弟子である滝沢克己(帰国後九州大学で勤められていたかと思います)は死ぬ間際に洗礼を受けました。・・・バルトが「モーツアルト」という岩波新書の中の「日本人の友へ」の中で日本から来た優秀な留学生について書いています。名前が書かれていませんが彼の事であることが神学生であった当時のM先生に尋ねて分かった次第でした。彼については八木誠一さんの著作がありいろいろ書いてみたくもあります)。何を言いたいかといえば、あきらめずに真にその方(イエス・キリスト)を追求する知識人、教養人は、彼のことを受け入れざるを得ないであろうと信ずる者だからです。真に悩む者はキリストの十字架に必ずぶつかるであろうことを信じて疑わない者だからです。・・・続く


世界のベストセラーを読む(716回) (その1)7年前A牧師に出した手紙

2020-09-08 20:40:39 | 手紙

◆時代は大きな曲がり角を迎えました。少し長いが昔、小生の思考の基点ともなる内容もあり抜粋を記録として残します。****

 経済大国アメリカ、福音をのべ伝えてくれもしたアメリカ。その私たちはアメリカの明暗に何を学んだのでしょうか。暗の部分は聞くこと、見ることは封じられてメディアでも容易に流しませんが、まっとうな目で見、考えれば「100人の村」というお話を考えるまでもなく疑問ぐらいは大いに沸いてくるところではないかとかと思います。それに、世界のお金の動きに何を学んだのでしょう。歴史に何を学んできたのでしょう。私たちキリスト者は旧約の時代、経済の興隆を追求して真の神から異教の神に目が映り表面的な反映の影で根底では荒廃の一途をたどり、国を失った、否、魂を失った歴史を学ばされます。私たちの国は敗戦後、その中にも私たちの先祖が生きてきたことを、何を考え、何を願い、何を望んでいたのかなど、どうしてその普遍的な「核」となる「芯」となるものを求めようとしてこなかったのでしょうか。沢山の宗教家も学者も輩出してきたのに何故、根付かないのでしょう。いや、それを追い求めんとの教養人は沢山おりましたし著作も読むことはできるのですが、地上の被創造物である人間であること、真の神を知らないこの国の私たちは(と言ってわたしが知っているというわけではなく知りたいと願うことが一人一人の生のプロセスだと思っているしかたの無い者ですが)、考えや意見をその人個人に帰してしまい、個人が亡くなれば、温故知新も何もかも、表面上の華やかな経済優先とばかり歴史にも学ばなくなってしまうことになってはいないか。残るのは運良く、マスメディアに載って一種のブームになるか、といっても結局、売れ行き如何での勝負で、今、必要である考え、思想というものにはなりえないのです。何が書かれ、どう読まれ、どのように世界を変え、普遍性として何を残して行かなければならないのかということが言い切れないこの国のあり方は、例え憲法議論ということをするにしても極めて危ういということになりはしまいか。・・・続く