marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(417回目)”知る”というこは世界のドラマの始まり”性的交渉”をいうのか 〔創世記第4章〕

2017-08-18 02:02:52 | 日記
 アダムは妻エバを知った。(創世記第4章1節)とある。それでカインが生まれた訳であるから、ここに於いては”知る”ということは生殖行為のことを言うのであろうが、それは、ほれ! 何分にも世界で初めての意図した生殖行為であるから、しかも、神から離れたが故に自分たちが裸であることが分かり、腰をイチジクの葉で覆った訳だから、人が意図して、自から(神=創造主のことはどうでも)この地上に勝手にとまではいかないにしろ(それにはまだ時間がかなり必要なのだが)、命(本来は神の霊を受けつつ生きるべく命)を持つ肉体を産むことができることを体験させられる訳だが、神の霊による最高傑作たる人が、自分たちもその人を産むという行為ができる、その身体に部位(生殖器のことネ・・・つまりこれが世界のドラマの始まりなのだな)を持っていることにかなり恐れを持ったのは、間違いないだろう。
◆今までは、何ら「恥」とも思わずしかし、人は人間(男と女)になってから、その重要な機能を働かす(つまりは結婚は神の偉大な神秘である=エフェソの信徒への手紙5:31-32)と言われるごとくに、実は「恥」などという基準も何もない訳であるから、(「恥」というのは他者がいて、比較の一般常識のような基準があってそう思うのであるから)、つまりこのすべてに於いてバージン世界のときはない訳だ。いずれ、4章17節にもカインは妻を知ったとあり身ごもったとあるから、生殖行為であろうけれど、ところでここのカインの”妻”とやらは、どこから現れたのか? である。
◆つまりこういうことになる。これは以前のブログにも少し書いたのですが、創世記第1章と第2章は、集められた編集前の資料が異なることしても、それでも一応ひと続きの話であると理解し読む人が解釈すると、人が神にかたどって創造されてから(この文言が神学界ではずっと問題になっている訳だが)、男と女に創造され、既に祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と言われているのだ。つまり、罪を犯す前には、自然のように祝福された生殖行為は自然に行われて、人は産まれていたということはおかしいことではないということになりますね。
◆資料が異なる創世記第2章4節以降としても、蛇が出てくる3章以前のアダムがエバ(命)と命名する以前の女の時には、2章24節で二人は一体となり、裸でも恥ずかしがらなかった(2:25)とあるから、蛇の化身の悪魔に誘惑されるまでは、自然に産めよ、増えよの行為は自然に行われ、平和に暮らしていたということ。つまり、このときの陣痛で苦しむということも罰のようには思わなくエデンの園で幸せに暮らしていたということだな。だから第三章の蛇が出てくるまでの間は、とても平和な時間が流れていたということだ。人も産まれていた。
◆では、「知る」という行為は、生殖行為としても、なぜ、わざわざここで「知った」とその行為を著しているのだろう。・・・それは、ここでこれを読んでいる「あなた」も想像できる、世界史の始まり、ドラマの始まりとなるすべての行為の始原となったからなのである。この想像は、この男と女がいる(ニューハーフとやらは別にして)世界において、今も性にまとわりつく良きにしろ悪しきにしろドラマを起こしているから想像できると思うが、つまりそのスタートとなることを、無論、それ以来、数え切れないほどの人が産まれては死んで来たわけであるから、そのことを、つまり罪を犯してしまった後の行為であるということを、自分たちが今まで自然に行い、闇を持った神の霊から離れたその行為の自らの肉の快楽のみとしても、分離できてしまうその行為の不安を、意識下に理解してしまう行為としての「知る」なのである。まさに、神の創造物の中の最高傑作を、自らの行為で、しかも罪の汚染されて取り返しが付かないが、そのためにエデンの園からの追放にもなった、それ以降の行為として自らも出来てしまうという不安の行為であることのまさに「知る」なのである。
◆従って、これ以降、肉欲的快楽を排他すべく、世界の多くの宗教は神の最高傑作であるその肉体を克服すべく、修行やら、鍛錬やらが取り込まれるようになったと推測することが出来る訳だ。しかし、完全なる回復は、まさに遺伝学的(急に現実話になるが)にも実際不可能であることは理解されるでしょう。で、どうする・・・ 続く