◆19年ほど前に青野氏に手紙を書いたことはブログ793回、794回に書いた。素人ながら世界のベストセラー聖書について書かれた本というのは、時間がたっても読み継がれるもんだなということを思った。本の装幀が更新、再版されているということは、読まれてるのかな。(月刊)キリスト教書評誌「本のひろば」4月号に『どう読むか新約聖書』青野太潮 著 の批評が載っていたので紹介。評者、早坂文彦、日基教団西仙台教会牧師である。僕が疑問に思っていた事は先のブログに書いたが、青野氏のように読んでいいのか、とはキリスト者でなくてもやはり誰でも思うのではないかという内容。****◆(内容)原理主義的な聖書の読み方はキリスト教をカルト宗教にする、青野氏の鳴らす警告には教会は身を正すべきである、とは言え、虚心に聖書を読むのは諸刃の剣でもあると。青野氏と論じてみたいことが3点ほどあるとして次のように上げている。①自分が理解できるようにするという姿勢は虚心に聖書を読むことか。こちらの前提を読み込むことにならないか。・・・②虚心にパウロを読むなら、再度「贖罪論」への舵切りが必要ではないか。(・・・これは青野氏が著作の中でイエスは贖罪としての自分の十字架の死を考えてはいなかった、とする点についてである。)③2000年になって行動心理学はスキナー以来未完だった言語機能の説明を「関係フレーム理論」として完成させた。これによれば人間の思考や感情は己の意志の及ばぬ客観的実在であり、選択する意志のみが人間にゆだねられた自由となる。そうなると聖書の「幻」は俄然客観性を帯び、単なる主観とは捉えられなくなる。ここには、古代的世界観に通じるものがある。さらにその道具的言語理解は聖霊の内的証示を実に科学的に説明することすら可能にする。この観点で聖書の高等批評を再構築する課題があるように思うが、いかがであろうか。(この点は臨床心理士でもある評者の専門的知見から見解が書かれている)・・・
◆スピノザは言うのだ。生きている人間であるからには情念から自由になることはできない。しかし、それがどうしてそうなのかを考えることができる。その時、人は情念から自由となるだろうと。考えることをやめてはいけない、その行為プロセスに人は自由を見るのだから、と。それは、自分と他とをも相対的に見つめる一段上の思考の次元に立ちつつあるという行為なのだから。人と言う生き物は、個人の思考が普遍化さるよう思考しつつあるとき、(地上に人類を初め、被創造物を生じせしめた神の意図に近づくといったらいいか)、一歩天上に近づきつつある自己に喜びを感ずるものなのではないだろうか。◆台湾の天才オードリー・タンの子供のころの勉強ができるが故にいじめにあった時、彼はモンテッソーリやピアジェの心理学書を読み、どうして彼らはいじめをするのか学んだということだった。人とは、生存を維持すべく動物としての優位性、他への排他性、自分を配下に見ようとする思い込みの恐怖心、自己が地上での優位性を相手に認められないとき相手を不快に思い、排他しようと思うのであろう。◆スピノザは、その胡散霧散の無限や永遠などという言葉に、誰でも思ってしまう実際には手にもって確証できないものには、どこまでも人の生き物としての情念が絡みついて思い込みがあり、その土俵で気がつかず宗教論者は議論し始めているとした。緻密に肉なる人の思考を考えれば、先の「言語と思考」や「精神身体医学」の言わんとすることを考慮すべくもなく、時代に生きる私自身としての動かしがたい生は、確かにそうなのであることは誰でも認めざるを得ないだろう。だから、彼は数学的定理のような著作を残したのである。◆今、毎日、頻繁に生死が身近になっているニュースが飛び交う。人は必ず死を迎える。そこで、生きている時の様々な障害も思えばこの肉体があるからであろうと。イエスは、私は病人を救うために来たのだという。煎じ詰めれば、彼の十字架は、信じる者達のその必然的な死を迎えるその障害たる肉体を彼が担い、代理死を十字架で成し遂げたのであると。◆「私は真理である」と彼は語る。真実であるというのだ。だから信ぜよと。肉体の消滅、しかし、彼は復活する。人類の歴史が終わるまで永遠に生きるものとなった。そこで初めて「真理はあなた方を自由(消滅した情念)にする」となるのである。そこにはいっさいの条件はないのである、と。イエスの父は天地創造、人をも創造したもう神である。命を吹き込み、再び神の住われる天国へ永遠の命を持って共に住みたもうが故に! 生きるプロセスの中で事実生きているという彼との関係を思考する限り、人類は生き続けるであろう。
◆時折、スピノザの解説書などを読むと、ユダヤ教、キリスト教会から破門されたという文言にあうことがある。汎神論者だとう文言を読むこともある。前者について言えば、解説者の「神」概念を知りたく思うのだ。イエスは、頑固な律法者に対し「あなた方は昔の言い伝えに準じ死守ているだけだ」と批判したし、まさにスピノザから言わせればそこに本来、削ぎ落すべく(しがらみ)情念があるのではないかと。そして、後者から言えば、彼は使徒パウロの異邦人に語った説教。「被造物から神の存在は明らかである(なぜなら、神は天地万物を作られたのだからという根拠から)」と語り、これもスピノザから言わせれば、「唯一無限の実態としての神はすなわち自然であり・・・」とされ、誰でも確証を持ち、思考と(後代においては)解析を進めていけば、その様態に神の存在を見出す。。。というようなかなりあらっぽく言えば、そんな考えがパウロの手紙から導き出されてきたのではないかと思われてしまう。◆「万物は神の因果的・必然的法則によって決定されていて、そこには自由(※この自由は注意)はない。それゆえ、道徳の理想は万物を神との必然的関係で直観する、知的認識の完成に求められる。」****スピノザの哲学説には、合理主義、汎神論、物心並行論あるいは物心同一説、徹底的機械論あるは決定論・・・など、スピノザ主義として後世におおいに影響を与えたとされる。◆イエスは言う「真理はあなたがたを自由にする」と。プロテスタントは、神の言葉を大衆のものとした。そして、神学ばかりでなく、パウロがマケドニアで哲学と遭い、神の姿を学ぶ裾野は、それ以降、拡大に広がって時代を超えて全世界に広がっていったのである。その素地には、これも神の摂理といえようか、ユダヤ人の世界へのデアスポラがあった。イエスは、サマリアの女に言う、「救いはユダヤ人から来る」と。宗教と言うタガを外して、今や自分の生死のことして世界に神の救いが知らされている時代であると言えるのである。◆この日本には、東へ向かった多くのユダヤ人たちが来ていたのである。そして理想の国作りを目指していた。彼は唯一の神を信じていたから、その痕跡はいたるところに見ることができる。(書かれた大国主<おおくにぬし>などの昔の神様の絵を見ると髪の毛を頭の両サイドにリボンのように束ねている。あれは今でも熱心なユダヤ教信者にも見られる美豆良(ミズラ)というものでしょう?!)
◆「真理はあなたがたを自由にする」これは、イエスが語ったコトバである。つぎのような言葉をご存じの方が居られるかもしれない。「私は道なり、真理なり、命なり」これも彼が語った有名なコトバである。小難しいことを考えれば、この文言にも様々なことが思いとして湧き上がってくるだろう。「道」と言うことばは、キリスト教でなくても「タオ」などと他の東洋の宗教にも出てくるが「真理」などは言葉では一般化でき科学的に何度も誰にでも検証に堪えうる事柄に真理と名付けられていたものではないかと。あるいは、これまた「自由」などは、それ以上に難しい定義であるように思われる。◆先、憲法記念日にアップした僕の好きな第97条基本的人権「・・・人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である。・・・」とある。生身の動物の種として生存するこの地上の人類の自由とは、ある基礎がなければ実はいかようにも解釈できよう内容でもある。(だからキリストの十字架は立つ、と僕は考えるのだが。)民主主義の国と言われるアメリカも多くの南から難民が自由を求めて国境を越えて押しかけて来る。シリアやミャンマーなどからもニュースで時折、流れるとおり世界に、過去幾多の試練に堪えと日本国憲法にあるけれど、未だもって試練を経ている国々があるということだ。◆月に人が行き、「はやぶさ」が五年以上も掛けて遠い星から帰還したという時代、瞬時に地球の裏側の声が聴けるという、そんなに科学が進歩したというのにだ。◆「しがらみ」をスピノザは「情念」と書いているが、その生き物としての意識するしないに関わらず思考にまとわりつく情念をそぎ落として、真に自由にはなるためには・・・とスピノザは考えたのだ。だから、彼の著作エチカなどを読むと、何のことやらで、数学の定理のようなことが書かれている訳である。その思いを推し量れば、それもこれは僕の情念というものになるか、心に熱いものがこみ上げてくるのだ。何事も言葉の始まりは希望をもつ、しかし、それは定着し一般化された言葉は違った意味を持ってきてしまう。デカルトの「我思う、故に我あり。」という言葉を、スピノザは、「私は思惟つつ存在する」とプロセスの中に真理を見ようとしたのです。それは、デカルトという(過去の偉人たる)人の結果系の発見ではなく、いつの時代も人と言うものが存在する限り(あなたにも)、その人の主体的思考がなされているその時に、誰でもは情念から自由になっているはずである、と考えたわけです。 考えればそれはそうだと思われませんか。対象は何にでもいい。自分の言葉で主体的に考えているとき、光が見え、あなは真の自由という解放を体験していることがわかるでしょう。
◆ブログの立ち上げ主旨・・・そもそも、”すべてのしがらみから解放される” ことなどできるのだろうか、という課題を突き詰めていくと、スピノザにぶつかるのです。(ブログ2016年11月末アップ)。過去の思想家で、宗教批判をした思想家は、よく読み込めば、信仰などといって自己満足する群れにたいしての批判なのです。それは、戦い続けない限り、自己満足に落ちいって、生ぬるくなるでけであると、ましてそのような大衆の状況が政治がらみに固定化されてくると非常に危ないものに陥る危険があるということ、その人の思考、その集団の共同体をなしていく思考の危険な兆候を除外する戦い。◆仏教にはなくて(といっても日本の歴史の中では、俺のところが一番と争いも結構あったのだが)、欧米キリスト教に多いのは、それは神の言葉というものが人に委ねられてきたからであるということができる。プロテスタントは万人祭司を唱えたのだから。カトリックは、だから今でも教会を通さないと駄目だというのであろう。しかし、これは集団で神の救いが来るのではなく、ひとりひとりがまず、その位置に立たないといないとイエスは語っているのである。それは、頭で理解、知識で理解ということも重要だろうけれど、それ以上に今生にある自分の肉体で経験して、内言語で会得するというような経路を経ないと難しいようだ。あのM・ルターは神学には試練が必要だ,と言った理由でもあろう。◆欧米の哲学、そして思想、近代以降の心理学などは、必ずと言っていいほど、神が人を自分の似姿に創造した、人はその人をよく知れば神に近づけるであろうとの深層心理上の基盤を持っての追求であったといえるだろう。生ぬるさの除外の追求、キィエルケ・ゴール、ニーチェ、政治的には共産主義を唱えたマルクスが語った「宗教はアヘンである。」という言葉さえ、さらに「キリスト教の本質」を書いたホイエル・バッハでさえ、よく読めば、観念的に人と言う生きものが神の言葉を手中にしたと満足することのリスクをかなり強烈に内面打ち出すことによって、まさに言葉以上の歴史を動かすコトバに到達し、人間の地上の様々な相克の混乱の内にもそこを目指さなくてはいけないのだ、という神の摂理のなかにあると僕などは捉えてしまうのである。