◆キリスト教がこの国で1%も満たない理由は、キリスト教は否応なく自分ひとりの言葉を要求するからであると言えるであろうと思う。他人から借りた言葉ではない、生身の痛いと感ずる生きている今の自分の言葉である。したがって、僕はシャーマンのような呪文は分からないから否定はしないが、キリスト教が、それらのことを否定して、自分の言葉で今を生きている生身の普段の言葉で祈れ(つまり語る言葉を持ちなさい)と薦めているのは、事実、「復活する」からであると言える。今のあちこち痛みを覚える劣化しつつある今の生身の体の自分という”からだ”ではなく、実に、今よりもっとリアリティーのある自分という”霊のからだ”での復活があるのだ。◆だからというか、キリスト者は作品としてドラマは楽しむだろうが、人の創作のドラマに感情移入はあまりしないだろう。人生ドラマの舞台の流れの途上の一コマとして、もっと上位の演出者としての冷めた目線で、いつも現実の世界に戻ることをスタンバイして人生を歩んでいるからと思う。唯一のドラマは、今の自分の生き様であると。演出者は、目には見えない、意識しないにもドラマを信仰させる意識以上の存在者たる神が居られるということになる。その一点に掛かる。様々な人それぞれのドラマがあるが、天上界からこの地上に自分の言葉で引きずり下ろして、固執してそれが信仰だなどと頑迷になってはいけない。◆旧約聖書を読むと永遠不変の演出者がいると思わざるを得ないのだ。例え、それが記者に何でも神主体に都合良く読まれるようにと書こうとしているように見えてもである。それは自由になるための契約だからという。兎に角、契約を結ぶことだ、早く。今の僕らの社会生活の契約も本来、ここから来ているのだから。人は地上に創造され、創造者との契約を結ぶ訳だ。再び、創造者のいる永遠の世界への帰還の為の契約である。◆今、コロナ禍の中で世界で実に多くの方が亡くなっている。世界中のニュースが瞬時に分かる時代になっているのだ。我々人類がこの地上に創造されて、肉体の内にも外にも霊的戦いをおこなって天上へ帰還するそのドラマのシナリオがベストセラーには書かれているのである。****世界を見渡せ!私が世界を動かしていることを、どうして理解しないのか!、と。
◆考えて見れば、僕らは真にその人の思うところに同期しようと思えば、直接、その人に対面し話を聞かなくてはいけないということだ。その時代に。しかし、そんなことは当然、無理な事。したがって、昔の人を知ろうにも書かれて残された文章をあてにしないといけない。ところが、同じ言葉を使う同国人であっても、時代によっては文字や、言葉使いが移り変わりのよって元の言葉の意味と変わってきていることがあるから注意しないといけないが、同国人であれば調べればなんとか、少しは本質には近づける。しかし、歴史も異なるそうでない言語で伝える場合は・・・。◆ここで使徒パウロ自身のように、人手によらずイエス・キリストの啓示によるのだと宣言している場合は、彼の肉体における体験は、内なるものとしての告白は事実としても、それを自分の言葉で伝えるといった場合は、まして自分生まれとは異なる国の言語で語り、伝えようとした場合、かなりの制約を受け、制限されたものしか自分の言葉で伝えることができないのではないだろうか、ということを思わなくてはいけない、と。◆先の神学者、田川健三の「新約聖書」”はじめに”と”後の”解説”を立ち読みでも先にお薦めするとは、よく自分を含めて人と言うものがどういうものであるのかということを考えれば、ギリシャ語でパウロが「キリストの信」と書いている言葉を(ギリシャ語でキリストを信ずる信仰と書けば掛けるものをそうしないで)曖昧な「キリストの信」というかなり曖昧な幅の広い言葉で書いたと言うことに対して、翻訳するものが「キリストを信ずる信仰」というような、訳者の意図的な狭い訳を施しては、注意しないと改竄を結果することになるのではないか、と仰せられているのである。◆これは耳障りのよい言葉ばかりを話そうとしている内心体制にのっかているから大丈夫と考えている牧師さん達は真剣に考えて見なければいけないのではないだろうか。田川のローマ書簡の解説にはこう書かれている。***ローマ書簡は、以降のキリスト教2000年の歴史に大きく貢献してきてけれども宗教ドグマにのみ集中するのであればいいけれども、現実はそれではすまんだろう。この人は、自分の信仰と現実生活に取り組む姿勢をどのように対照させ、調和させるか本気になって考えたこともないのだろう、その他多数、と(パウロを非難する)。◆さて、それだからこそ、というか、人それぞれへのキリストと対話する宿題が、詰まり誰でもがキリストと対話する自分の言葉が要求されているのだと(その時代の言葉による哲学、思想なども含め責任が人類に委譲しつつあると、僕は考えてしまうのではあるが・・・)。結局、神学し、現実の今の世に身体的にも苦しまない牧師が多数いない限り、キリスト者がこの国で1%を超えることはないだろう。(だから、問えばいいのだ。伝道するためにあなたはどのように行動されますか、と!)
◆”はじめに”と後ろの”解説”を立ち読みでも読まれることを希望する。スピノザが人は逃れることが出来ないといった情念と言い、僕が”しがらみ”と呼ぶものと戦う神学者、田川健三。所謂、信仰者ではなくとも未信者の方が読んでも、彼、独特の言い回しはさておいても吹っ飛ぶようなことが書かれた内容です。作品社からの文庫で、文字が小さいのですが、ちと高額なハードカバーもあるが、聖書が読まれ続ける限り、深く学ぼうとする方には、これも読まれ続けること請け合いです。但し、怒られるけど心情としてキリスト教に個人の信仰心とかの追求しようとされる方であれば、いきなり脱線する(つまずく)ので読まない方がいい。◆限りある人が、時代や風習や伝統や諸々なことがらに影響されず、真なるものを伝えんとするとき、まして自国の言葉で書かれなかった新約聖書に、なぜ、例えば日本語に原書に近い訳ですといいながら聖書を翻訳しても、結局のところ訳する人の思い込み意訳が入り込んでしまっているではないか、という強烈な指摘批判である。言われてみると確かにそうなのだ。書かれた言語、ヘブル語やギリシャ語のプロであるので、正しく、ギリシャ語から言えば、あのパウロの書いた手紙でもギリシャ語としては、杜撰で分からないと批判されている。(これは信仰心の批判ではなくあくまで文献学的に言えばいいか)。そうだったな、パウロも確かに純粋なギリシャ人ではなかったし、第一、一応ペテロの手紙にさえパウロの手紙にはよく分からないところがある、と書いているくらいだから。彼の手紙ばかりでなく福音書もへブル的言語使いが影響している内容だと。解説に書かれている内容には僕は唸った。◆先に書いた青野太潮先生には僕でも疑問に思って手紙を書いたくらいだったが、本には著者の住所まで書かれているが、あまたいる神学者もおそらく田川先生には誰も喧嘩は吹掛けないだろう。ところでパウロの「キリストの信」、「信からの義」と実際訳せるギリシャ語には、深い重要な意味が隠れていると思った次第。
続きます。***「・・・人間はそれぞれの仕方で限界のある存在である。だから、人間を『聖』の水準に持ち上げてはいけない。人間を『聖』の中に閉じ込めてはならない。これを『聖書』に仕立てたのは、自分たちの組織に絶対的な権威を付与したいと思い続けてきた古代末期以降のキリスト教会のやった作業である。彼らは自分たち自身を絶対的な権威に仕立て上げたかったので、それで『聖なる書』を必要とした、というにすぎない。それだけのことなら『聖書』は教会の壁の中にとじこめておけばいいだけのことであるが、そうはいかない。これは人類古代の貴重な文化遺産なのである。・・・それはすべての人々に余計な粉飾なしに、ありのままの姿で公開されないといけない。・・・その後、人が書いている限り、多くの相互矛盾もあるし・・・いくら古代だからといって、ここまで質の低い文書を書くなよ、といいたくなるような代物も、あるいは、月並みを通り越していささか水準の低すぎる説教も、あるいは、こりゃひどすぎるよ、とはっきり言わねばならないものも、等などいろいろある。・・・」***◆ここで相互矛盾の例として弟子ペテロの物言いに対して、イエスの応答がマルコとマタイとでは正反対じゃないかと書いている。その箇所の田川の書き方も次の通り、まま抜粋する。****「相互矛盾の例をひとつだけお目にかける。マルコ8:27ー30並行。同じ事柄についてのイエスの反応をマルコとマタイが正反対に記している。ペテロがよせばいいのにイエスにむかって、自慢げに「あなたこそキリスト(メシア)です」と言ってしまった。・・・そのペテロに対してイエスが腹を立て、「そんなつまらぬ議論をするんじゃないよ、と叱りつけた」、とマルコ福音書の著者は記している。・・・このイエスは明らかに、自分が「メシア」と呼ばれることに嫌悪感を示している。(※僕はそうは読めないけれど、語学が達者ではないので、その意味するところはそういう意図を含んでいる言葉使いなのか?) ところが、マタイはマルコの記事を写しつつ、結論だけは正反対にひっくり返した。マタイのイエスはそのペテロを、「あなたは幸いである。このことをあなたに啓示したのは血肉ではなく、天にいます我が父(神)である」と褒めちぎった、と(16:13-20)。ここまで正反対に他人の文章の結論を作り替えるのだから、たいした度胸である。・・・」***(「新約聖書」 本文の訳 携帯版 作品社<p4> ”はじめに” から)◆面白いでしょ! 田川健三。
◆僕は一応、聖書について云々する方で、自分の言葉でその書かれたコトバを追求選とする方を神学者と呼ばせていただいている。で、掲題の方は、学生運動が盛んだったことから九州大学の滝沢克己氏と並んで、学生(学生運動された方)にはよく読まれてきた方ではなかったか。半世紀以上も前になるが、学生運動を神学校で経験された若い牧師の読まれていたものに彼の『イエスという男』があった。今も書店のキリスト教コーナーには必ず並んであるが、かなり過激と思われる文言が並んでいるから面白いと僕は思うが初めての方は要注意。彼の著作を一度、最近の本では文庫サイズにもなったので助かりだが、作品社からでた『新約聖書 本文の訳(携帯版)』の前書きでも立ち読みされるといい。清く、正しく、よく分かる・・・などという内容を求めている方が読むとひっくり返るような見解(口調といったらいいか)が並んでいる。自分が戦っているのは、人が神のコトバを読むという行為のこういうところなんだ、とはっきり分かる方だからである。◆彼の内容を知ろうとすれば、当然、世界のベストセラーの新約だけでも一通り読まれていることが前提である。まずは自分の言葉でです。いきなりこの方にぶち当たると面食らいます。しかし、学問的には非常に優れた方です(などとおこがましくも書きました)。聖書の訳の更新が行われ、新解約聖書2017とか聖書協会共同訳などがでましたが、学問的に部分的に彼の訳が採用されているところなどもあったりしますが、先に書いた理由などからと推測されるのですがその訳の委員になったりしてはいないようです。彼が訳の批判をするのに、彼のような解釈(訳ではなく、あくまで解釈という段階で)は、僕は賛成できないなぁという点は確かにありますが、次回。 ◆***携帯版から「はじめに」から一部を紹介します。***「新約聖書と呼ばれたきた書物は、本当はもちろん『聖書』ではない。こんなことは誰でもよく知っているはずのことである。自分個人の制約と欠点も抱えて生きている、その人間が書いた文章が『聖書』、つまり超越的神的に絶対的な書物、一言一句いかなる欠点もなく、崇高で超越的な神の言葉なんぞあるわけがない。・・・誰でも知っているこの事実を正直に確認することからはじめるのでなければ、我々は、歴史上『聖書』と呼ばれてきた文書集の実体を正確に理解することはできないのである。・・・・(続く)」