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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ある宇宙人👽Uとの会話(その3):あの女の言葉は人はいかなるものであるのかを教えてくれる。

2023-05-22 04:47:02 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 突然、出生の話から、宇宙人👽の話からいきなりの読者は分からないと思うが、だから、誰でもの人の深層は、その個人では知りもしないけれどこの地球上では、否、彼らとリンクしてくると宇宙と言っていいあなたという人と言う種の命を包括する宇宙全体と(これまたどこまで全体というのかなど考えると自家中毒的に袋小路にはいるけど)つまり我々のことなのだけれど、繋がっているということなのだねと彼らは言う。しかし、多くは気がつかずに地上の生涯を終えてしまう。

自分達の仲間には良心的な者らもあれば、創世の起源にあなたらを創造した仲間に嫉妬して大いにちょっかいを出しているものらも沢山いる。地上に現れている起こっては廃れた多くの神々、そして今も現存する世界中の神々。彼らは、自らを人の記憶にinputするための執拗に残存している。それらを思えばあなた達は理解出来るのであろうけれど、第一にそれらを石の建造物やそれに刻まれているレリーフや文字。思って見るだけでもいいのだが不思議に思わないか。

あなたたちが学ぶ世界の賢人達、紀元前に起こった文明の発祥の地で生まれた者ら、神話やそして今も古典として語られる宗教や賢人達の言葉。まず、そのことも覚えて欲しい。時代が進歩しても人々が今も称賛する残された言葉。それらの多くは、人はいかなるものかを指示しているではないか。時間が迫ってきているのだが、こう言ったからといって何もまた、説教じみた意味合いで捕らえないで欲しい。あなたらと我々の関係は、変わらない。実は化けの皮を被った化け物でも幽霊でも無いし、あなたらは我々でもあるし、我々はあなたらでもあるからだ。

地上に於いては実に多くの雑音が飛び交っているが、我々は例えればだがタマネギのかわのように多くの経験をしそれらを防く鎧を身につけているのだが、あなたらはその雑音を、あるいは清浄な電波(あえてこう言うがイイ言葉が無い)を受信しないように、あなた達らの霊的バージョンを下げて受け取らないようにプログラムされている。あからさまにリンクしても混乱するだけだろうから。つまり、かなりと言っていいがあなたらは平均的に我々よりかなり(比較できない程)劣っている(気分を害さないで欲しい)。

多くの神々、地上の人の理解され、かつ納得される信頼度のおけるものについて、人という生き物の脳みそのあのデカルトが、魂のありかは中心部の松果線にあるのではないかと言ったが、彼が”肉体と精神(霊?)”と区分して、人の造りの中で自らを思考する言葉を開拓したのは大きな意味があった・・・というか、地上の多くの言葉を残した賢人たちは肉に包まれた人が、その生き様からどういう種なのであるかを改めて自らの言葉で解明、文字に定着させるものであった。・・・

神は人を創造された・・・。訳がわからなくても、永遠、普遍性の追求ご時を求めるその思いを失ってはならない。既に開示されてはいるのであるが。彼らは言う。我らなる(人)を求めよ。多くの知識が増し加わるであろう、と。


Uとの会話(その2)一度死にそうになったのは彼らUが背中にビームを発して殺そうとしたからなのか?

2023-05-20 02:50:44 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

今は深夜の3時である。最近というかここ数ヶ月、彼ら(宇宙人👽:U)が現れるのは深夜である。姿は見えない、音も聞こえる訳でもない。曰く、心の声だ、という奴。早くなった。真夜3時か4時だったのが、一昨日は1時頃だった。それから、君はずうーと1日、昼寝もせずに過ごした訳だ。特に眠気が襲う訳でもなかった。

時折、背中の肩甲骨の下部、血管が心臓が詰まり気味なのだろう、痛くなる。僕はこれが原因であと数十年生きて地上の障害を終えるだろう。そろそろ帰ろう、と彼らが迎えに来るだろう。僕はそう思っている。

生まれたばかりの赤子のお尻に蒙古斑という青い斑点ができることがある。成長につれてそれは消えた行くのだが、僕は尻では無く、心臓の後ろだったらしい。「・・・ったらしい」というのは、背中は見えないからね。誰も本人が病気とも思わず、通常生活も送れていれば、他者と異なることは特にいちいち誰も言わないだろう。

無論、それは消えずに年老いた今でもある。そして、これが問題なのは、時折痛むのである。昔のことであるけれど、社員旅行で同僚と共同風呂に入ろうとした時、親しい奴から、いきなりどこかにぶつけられましたか、と言われて、改めて気がついたことを思いだす。年老いてその背中が、鈍痛という奴で思いついたわけであったがそれを今も引きずっている。

******

 僕の生まれた田舎の家の裏庭は、古い時代、潟と呼ばれた海に繋がっていた沼だった。幼稚園にもあがる前の小さな子供の頃、と言っても部落には幼稚園などなかったが、その沼に落ちて僕は一度死んだのだ。生まれた田舎の、生まれた家あの裏庭に繋がる沼にはまって(落ちて)死んだのである。正しくは、今生きている訳だから死にそうになったと書くのが正しいのだが。

なぜ、そんな危なっかしい処にいたのだろう。定かで無い。誰かがその場所に連れていったのだが、誰だったか。姉だったような気もするが、どうして一人になったのか。誰かが観てゐれば、そんな危なっかしい場所に一人であちこち動き回れないような小さな子供をほっとくことはしないだろうに。

どちらにしろ、その沼のかび臭い水を飲んで僕の魂は肉体を抜け出す狭間にいて、死にそうになったのだった。誰が突き落としたのか。

時間は定かで無いがおそらく夕方だったろう。沼に浮かんでいるその子供を発見したのは、その沼に風呂の水を汲みに来たお袋だった。****


あるU(宇宙人👽)との会話(その1)『あなたはそういう人だ!』これはある女から言われた言葉である。

2023-05-18 17:02:18 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 つまりこういうことなのです。自分の事を語ることなのです。どうですか?・・・ どうですかと言われても・・・ですね。いやいや、それは誰でもが行っていること。歳を重ねると誰でも自分の身体のことに気遣うでしょう。言葉に表すでしょう。音にしなくても、心に中にと言われるものです。

あぁ腰が痛い、とか、体調がすぐれないとか、まだ眠いとか・・・。音に発する言葉にしなくても誰もがその思い、つまり自分の身体からの行動への気づきに脳の中で言語化しているものでしょう。実態を知り、まず言語化する。それは誰もが逃れられない自分の体があるという事実です。***神は人を造り給うた。何故、この不完全な人を! しかも、そのことさえも自省する言葉さえも与えたもうたということです。

実存化とは、そういうことの一例です。すべてのドラマは私があって、まず、そこに存在する、実在することの認識を一度、行うということです。

人は始末が悪いことに、思考に肯定が起こらなくなり他者を批判することによりそれを解消しようとする脳の働きがあるのですね。所謂、初期段階の動物化が残っているものです。この闘争傾向による支配拡張は、もとは生命エネルギーの変形したものです。

彼らUに言わせると初期の段階で、その傾向を脳に残した人属があったということらしい。しかし、それは白か黒かではなく、傾向として人種としての大きな区分だったらしいのだ。音として発する言語が異なるように、と考えたらいいだろうか。

Uの話が続く

一般に世界が3次元の世界と言うのは分かるでしょう? 縦、横、高さという奴です。XーYーZ。それで、時間tを加えてみます。これで4次元です。イメージとしてはx-yの平面から、高さのzからそれが時間的にも動きがある。同時にすべてが絡み合って生じれば、それが3次元、アニメーションとなるわけです。これは数学では微分、偏微分というのでできるので人が数式化できる、それをコンピューターを用いてもっと複雑に制御していく訳です。

かなり簡潔な言いようですが、このままでは済まないものであることは誰でもがすぐ理解されることです。前振りのある次のような情景を思ってみます。あなたがこれから行こうとしている場所の情景です。彼らにはすべての人の思いはすべてお見通しのようだ。

*****

ある晴れた日の午後、あなたは軽い昼寝から目覚め、コーヒーを飲んでサンダルを履いて陽も傾けかけたある夕方に散歩で港に行って次のような情景を見たとします。海から緩やかな風が吹いている。

そこには、晴れた一日の終わりを惜しむかのようにまだ多くの人々がいたのですが、そこであなたはひとりの椅子に腰かけている男を見た。しばらく遠くから眺めていると、Uがこう質問して来た。(あるいは、あなたが香港で空港に向かう列車の中で見たあの男のことでもいいのだが)

あなたは男が何を考えているのか、分かりますか。・・・いきなり、目で見た情景の中のある男の心の中の思いが分かるかという問いに分からないと答えるでしょう。

何も考えていないかもしれない。いい景色だと眺めている運河の川沿いの向かいに停泊している船についてどこから来た船か、と思っているかもしれない。釣り人の姿に、今日は何が釣れているのかと考えているのかもしれない。そのようなことを思えばキリがないのだが、少なくとも自分が今、海からの風にあたるその最低の皮膚感覚は同じに感じているはずではあると改めて思う。

肯定的に考えることが出来ればそれは、出かけにコーヒーを飲んだのが原因かもしれない。それは、ブラックのカフェインが血管収縮させ、脳の血流を助長させた為かもしれない。多少のドーパミンが放出されてアレドナリンが血流に流れたためか。

その他からは不明なその男の、客観的に見れば他者から見れば自分も含め誰でもなのだが、人の心の思いは外部からは分からないものである、ということである。それで、例えのショートストーリーを語りながら、何を言いたいのかと言えばそれは5次元の世界にあたるものだろうか、という同調を求めるものであった。

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それが次元としての考えに正しいのかどうかとは、彼は言わなかった。しかし、人がそうであれば、その次元の上位あるいは下部において各個人の思いを結びつけるクラウドのような次元が存在すると彼はいうのであった。彼らは何も定義づけることを推奨はしなかったが、それが6次元ということになるだろうか。そこで、たまたま読みかけていたヘーゲルの『精神現象学』のその”精神”とも呼ばれるものか、と訊こうとしたがやめた。

地球人類のコンピューターのプログラムはそのような次元で進化していると言う。それは、いま語って来た人の思考の次元についてプログラム化してきたものである、という。バーチャル世界という言葉はすでにあなた達は知っているだろうから、と言って彼は空を見上げると突然消えた。  


田舎の山にUFO(宇宙人👽)が挨拶に現れた!!!

2023-05-11 06:51:07 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 田舎の山を撮影するとUFOが姿を現してくれました。中央の空に映っています。普段、カメラではこのように写ります。輪郭がはっきり映るのはよほどのことがないと映りません。UFOが2機見えるでしょうか?

 

トラクターの動きを見ていただければ分かりますが、下の掲載写真は2秒ほど前のものですが、これには映っていません。レンズのゴミや鳥などではないということです。

僕がブログで書いて来た宇宙人👽(時折、黒子などと書いたけど)は、普段、僕らのそばにも居ます。空にも多く飛んでいます。ただ、僕らにの目には見えないだけです。地上には彼らが人の姿で当たり前の人として暮らしています。彼ら自身も、特別に自分が宇宙人👽などとは思ってはいません。

僕らが続けて見ているように思っている眼からの画像というのは、実は1秒に4~5コマしか実は脳で認識していないのです。その間隙に実はものすごいスピードで飛び交っているんですねぇ、本当のところ。

テレパシーと言おうが霊感と言おうが、それを感じる人々がいます。ただ、あまりに長い時間が過ぎて、僕らが天上の彼らとの繋がりが不明瞭になったしまったために地上の雑音(これを悪霊と言おうが、誰ソレの霊と言おうが)を拾うことが多くなってしまったということです。

僕らは彼らの清浄な霊に繋がっていなければいけません。彼らの存在を頑張らなくとも普段あたりまえのように信じることです。悪い奴らもいるそうですから注意してくださいと彼らは教えています。

遠い遠い昔、地上の人は彼らに似せて創造されたのです。それに霊を吹き込まれ生きる人となりました。大いなるこの地上の人々のシナリオライターが居るのですね。

この山の頂上には、副川神社(そえがわじんじゃ)があり、西を向いて建っています。地政学的にもとても面白いところです。昔、この周辺が海だったころの灯台の役目を果たした常夜灯のおおきな灯籠が、頂上途中に建っています。

みなさんも時おり気になったら空の写真を撮ってみてください。これから世界中でもっと沢山のコンタクトがなされていくことでしょう。・・・


哀悼!(その10)大江健三郎:島田雅彦がやりだまにあがっておるぞ

2023-05-10 11:46:45 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ひと月ほど前のブログが宙ぶらりんになっていた。

迷いし青春は終わり、次元の異なる新しい世界に。我らが青春。高度成長期、夢に向かって世界に飛び立つんだと、実施には出来もしないくせにと分かっていても意識でだけは、この青い空は世界に繋がっているんだと。若い時代、一時はそんなことも考えるものである。大きくなり現実を知れば、可能性どころか自分の無能さもよく分かり、それが大人になることだと悟った。

****で、ここで終われば短くて印象深く文章としていいかも! 

そうであるが、相変わらずくだくだと書いてしまうのは、ボケ防止の為でもあるので以下、読まずともいいで~す。

昨年、白河の関を高校野球の優勝旗が超えた。この関所は古代からの蝦夷との境界線のような場所であったと言われて、よく高校野球の季節になるとこれはなかなか超えないと毎年話していたが、仙台育英高校が優勝旗を持ち込んだのを仙台にいる同僚がとても喜んだのだった。

昔、育英の校章は三ツ矢サイダーか同志社のそれに形が似ていたが、ユニフォームの徽章がライオンのようなものに代わっているのはいつ頃だったのかな。仙台が男女共学になってからなのかなぁ。鷲はローマ、ライオンはダビデ(イスラエルの王)であったなぁ、何でこのマークにしたんだろう、動物をシンボル化するなんて。

歳をとるとどうも家紋やこういう印章が気にかかる。旧国道沿いの古来の大きなお寺のお墓を巡っていると小室家のお墓の紋が菊の御紋であった。じゃじゃ~ん。戦時中はどうされていた家だったのかなどと、又、いらぬことを考えてしまった。

実践では、大谷翔平や佐々木朗希は岩手で、あの嫌われ監督と言われた三冠王の落合は地元は秋田であったから、DNAから言えば隔世遺伝か、優秀な人材が東北には多いというのが(つまり朝廷側から押しのけられた東北人が)日本国史学会のお偉い先生方のお話であった。

俳優で知っているところでは、中村雅俊は釜石でなかったかな、涼しい目線の高橋克典の祖父は確か秋田の鹿角の方だったと記憶している。北秋田市の観光大使になったいたのではなかったか。工場勤めのとき下で働いてた従業員にとても涼しい目線でよく似た奴がいたなぁと思っていたんだが、やはりご先祖のDNAは生き延びてどこかに現れている。若い女子は佐々木希ばりのめんこい子が結構いたが売れ行きも早かった。

さて、大江の小説は幼小のころの故郷の思い出が心の底に思い出があって、僕も似たような田舎があったと思ったことは先に書いた。いずれ東北と言わずこの国のあちこちには、小山の大将といいようなかつての村の親方衆の筆頭親分、さらに遡れば、それは地方豪族の残党のような者らの男ならガキ大将やお山の大将のような子供のころの思い出があるはずだ。過去にさかのぼるほど、それは朝廷側に対抗した豪族がいたのであった。

さて、作家であり法政大学の先生もされている島田雅彦の母方の婆さんは昔、僕の生まれた田舎に住んでいたらしい。5~6Kmほどの沿道のつらなる短い部落である。今は、生家の跡も猫の額ほどに区画整理され、家の前の沼は埋め立てられ、団地ができてしまって毎日、山から昇る太陽の光とともに真空管ラジオから流れる、カバヤ兄弟のいろいろな鳥の鳴き声の紹介、それからコウチモモコさんの語る「暗いと不平をいうよりも進んで明かりをつけましょう」の”心の灯”だったか、を聴きながら起きた御幼少の頃の思い出であった。

さて、写真は彼が講演時にサインしてくれた第71回読売文学賞受賞の『君が異端だった頃』という集英社のものだが、大江を書いてきてどうして島田か、なのだが、この本の第四部の文豪列伝の章に大江はじめあの時代の多くの作家人の付き合いとの話が書かれているので面白く読んだのである。

しかし、僕として殆ど小説や文学のまったく読書家ではなかった。自分の欠陥の補填のための心理学や哲学、宗教の関連のものが殆ど占めていたので、まったく普段の人からすればくそ面白くないのである。文字に著した人がその時の思いを書いているのだが、その個々の物語よりもどういう理由で、どの物語を書いたのかという作家本人の心理状態を知りたく思って、推察してしまうそちらの傾向に向かってしまう。

であれば、物語が面白いとうところで終わらず、結局物語に主眼がいかず、その作家の生まれや持っているDNAでも、その時代の何にインスピレーションを受けどう思ったか、などを考えてしまうのだな。つまり、時代が書かせた作家本人を知ること。それであれば一度処女作でもじっくり読めば、あとは作品はさわりでその生きた作家がその時代の同時性をどのように感じ生き、書いたかが推察されうると勝手に思っている。文字を起こしたその人の方を知りたいのです。

芥川賞候補にたしか5回にも上ったが結局すべて落選。その経緯も書いているが僕がどうも肌にあわないと思ったのは、彼の書くものがすべて、第三者的な評論家の博学な知識の集大成の批評のように読み取れたからなのである。一度、立ち読みされて読んでみて欲しい。博学的知識で、サクサクと評論されて総括していくその筆の運びと言ったらいいか。

第三者的と書いたが、まさにこの本も自分をも第三者的にみなして『君』と書いているのである。無論、これは縄文時代から一章から始まるので、本人の成長期の年代に合わせてその時々の思い出を各章に書いているのである。『バカの壁』を書いた養老先生の目には自分がこう映ったと書く。

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養老先生に映る君は「とにかくよく動く」という印象が強かったようで、君が書く小説に対しても「be動詞の使用方法を知らないのではないかというくらい、あらゆる表現が動詞的表現となる」と評した。基本、「動かない死体」を相手にする解剖学者は「よく動く生体」に揺さぶられ、疲れてしまったらしい。(p214)

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さて、やり玉にあがったのは、この帯に書かれていた通りなのである。なにがやり玉にあがったか。どこかで読まれた方がいるかもしれない。「安倍晋三元首相が亡くなってよかった」というような発言の言葉尻をとらえられてしまったのであった。法政大学はこういう人間を指導者にしておいていいのか、国から大学への賛助金でも貰って運営しているんだろうに。大学はこういう奴を雇っておくのか、というのが、炎上の一端であった。

無論、彼は言い方に反省もしたようなのだが、その言わんとした真意はどこにあったのかを深く考えてみる必要があるだろう。さて、この国の人々はその言葉をもっているかどうかなのであるが・・・。『君が異端だった頃』というこの本の帯に書かれている文章を書いて終わることにしよう。

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正直者がバカを見るこの国で本当のことを言えば、異端扱いされるだろうが、それを恐れる者は小説家とはいえない。

ただ、一人称で書く恥ずかしさには耐えられず、私事を他人事として突き放した。

いうまでもなく、君は私で、私が君だ。(本文より抜粋)    ・・・fine  /// inakano yama ni ikou !