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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(592回) ノンクリスチャンの方へ、『霊』のこと、少し立ち止まって緻密に今を考えて見ること

2019-09-27 12:33:15 | 聖書・聖句

 下記に宣べることは一般論ではありません。あくまで僕が経験から教えられたことです。当たり前のように工学系の仕事もしてきて、海外にも行かせてもらいました。日本中も出張で、北は北見から南は鹿児島まで、殆ど大手の電気系のメーカーに行きました。普段の仕事では行くことはよほどのことが無い限り日本中を廻り歩くことはないでしょうから今思えば感謝なことでした。ただ。一点教えてもらったこと。それは、漠然としか言えませんが、企業もすべては「人」にあると思わされたことです。

◆ブログを投稿する方も熱心に肉体的修行といわれるものを積んだ者でもありませんでしょう。キリスト教は仏教とは異なるのですから。しかし、若い方には今も、修行を行うような「道」を求めている多くの方がいるのです。時折、そういう若い人に会うのですよ。(キリスト者よ、時は迫っていますので急がねばなりません!。)

◆普段、人は生き物の習性として一般論の中の評価判断を頭の中で捜し、自分の意中の思いに波風がたつと、その反論をするように心が出来ているものです。ましてや宗教という魂の、霊の、命に関わるような言論についてはまず、言葉に出さないことが肝要であるということは、この国はその経験から学んだものであるようです。(このことについて教えられたことはいつか書きたいと思います)。

◆キリスト者は一番、理解しているのですよ。人に聞くな!第一には、まずあなたに語りかける声に聞けということになるのですが、その、そのまま根源の声を謝ると大変な事態になることは、周知の事件で見られるとおりです。「あなたは信じると言われましたね、誓ったんだからこの花を街角に立って全部売ってきなさい」などと昔、どこぞやの宗教団体が行っていた、いわゆるカルトと呼ばれるものとは、実はキリスト教は真逆の事柄なのです。キリスト者はまさに光を装った悪魔と戦わねばならないのです。

◆人に聞くのではなく、生きているイエスに聞くのです、と書けばあなたは笑われますか? 僕のブログで以前に書いたS・ヴェーユは「神を待ち望む」という本を著しました。そこで僕は彼女がカトリックではなくプロテスタントであれば、違った考えをもたれたであろうと述べました。神はあのときからすでに来て臨在しているのですよ! 我々が気づいていないだけなのです

◆我々は弱いですからキリスト者であってもすぐ横を見て一般論に解消して判断しようとしてしまうのですね。ヨハネの福音書の終わりに何のことかという不思議な話が書いているのです。この終わりに書かれた福音書としては不釣り合いのようにも考えられる物語が何をいっているのか、何を第一にキリスト者は自分のことばを育まなければならないかを考えてみる必要がありそうです。

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「ペトロは振り返ると、イエスが愛しておられた弟子(でし)がついて来るのを見た。この弟子はあの夕食の時、イエスの胸近くに寄りかかって・・・・尋ねた人である。ペテロはこの弟子を見てイエスに言った。「主よ、この人はどうなのですか」イエスは彼に言われた。「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。(ヨハネによる福音書21章20~23節)

 ******************************  長年、信仰を持たれた方(92歳)が24日夕 天に召されました。記念にこれを記します。・・・・ 

 


世界のベストセラーを読む(591回) ノンクリスチャンの方へ 「聖霊はすべてを教えてくれるであろう」

2019-09-26 08:52:07 | 聖書・聖句

◆「聖書、聖句」のブログカテゴリーに投稿の人々は、それぞれが上から促しがあって投稿をされるのだろうと思います。一般の方々は常識から読めば、失礼ながら少し良い意味でですが、考えが変わっている人々なのかと思われる方が多いのではないかと思うのですが(その証拠に投稿数が少ないなど)、人も一つの生き物としてのジャンルであるともっと高い次元でといいますか、イエスの言われた言葉のその意味を体験するようなことに少しでも触れると、その個人では創作できないが内からの言葉が湧いてくるという何とも言えない喜びのような感覚を持つものです

◆それは、生きている「霊」に触れているから、ということになるでしょう。ここでまた日和見的に考えれば、ある人々はそら、抹香臭くなってきたぞと思うかもしれない。しかし、そうではありませんね。この地上には不完全であるが人以上の言論を話す生き物がいないので、それは人が人に言葉や文字で伝えることの人間の限界かもしれません。しかし、キリスト者というのは、人間界以上のことを教えられている生き物として、どのような状況になろうと内からの促しのことばを発せざるを得ないのです・・・ということになりますね。一点、それは喜びであるからです。人は、そのことを批判できないのです。神はその人に語るのであって、巷に流布された一般化された固定化観念から判断する基準は持てないのが事実であるからです。DNAも含めた人それぞれに神は示されるから、ということになります。もし、そのことが誤っていればその人に神は人生を通して誤りを示すでしょうし、正しければ多くの人の「霊の次元」の共感を呼ぶでしょう。

◆心理学的には、それらの人は過去に心に傷を負っていた人なのかもしれない。そのことに気づいていないのかもしれない。あるいは、その肉(キリスト教では、霊と魂と肉体を人に対して用いることがある、一人の人を形成するものとして)を引き継いできてくれたご先祖からのDNAを誰でもが引きずっているわけですが、それらの今はいない人の促しによるのかもしれない。僕はそのことを無視しません。事実あるのではありませんか。聖書の中にもそのことを恐れた人々が出てきているのですから。ここから、律法戒律などの意味が読み取れてくる場合があります。一つはそれらの障害の「霊」が何世代にもわたり、後代に現れることがあるからです。(キリストはこれを遮断したのです!)

◆人には自分でありながら、自分の思いがどこから来るかなど考慮できないことがあります。その人の「霊」以外に誰がその思いを知ることができるでしょうとパウロの手紙にありますが、当時者はそのことには普段気づいていないものなのです。一人の肉をもつ人なのにその内に「あなたは神の聖者なのだ」とイエスを認めている墓場に鎖でつながれた一人の狂人の話が出てくる。彼はイエスによりその彼の悪霊を豚に乗り移されて正気にもどる。この男の中の矛盾!。今を生きている僕らは決してこの話を昔の話だったで済ませてはいけない。

◆キリスト者以外の方がこのブログジャンルを読まれるとすれば、ここまで読まれた方に説教じみた話にはならず淡々とお尋ねしたいのです。ほとんどの方は家の風習に倣い、この国は仏教だと思います。何宗ですか? キリスト教も歴史において宗派ができてきましたが、その時代の必要性に迫られ、同様に上からの促しにより起こされてきたものだからと言えましょう。天地創造のキリストの父なる神、人間をも創造した唯一の神は、ご自分のもとに、創造された人を永遠の不死の世界に共に過ごさんために帰還されようとして、「わたしが神であること知りなさい」と地上に災いをももたらす方であることを知ることです。だから、キリスト者には実に重い課題が負わされていることになります。

◆イエスは言うのです。「私は見なくなるが『聖霊』を送る。『聖霊』はあなたがたにすべてを教えてくれるであろう」と・・・・ Ω 


世界のベストセラーを読む(403回目)脱線:「あなたの罪は赦された」〔ルカによる福音書第5章17~26節〕

2017-08-01 02:00:00 | 聖書・聖句
 旧約聖書を読み始めて、創世記第三章にきて脱線中。ここはまさに、人類に罪が入った時の場面であるのですが、新約聖書においても特に「罪」という言葉が目に入ってきます。「罪」については特にイエスを信ずるという場合、無論、他人から言われる筋合いのものでは決してありませんが、「自分の十字架を背負いわたしに従いなさい」とイエスが言われたことに対して、個々人が考えざるを得ない事柄でもあります。

◆今まで、旧約聖書、天地創造において、否、それ以前、父なる神とその独り子イエス、聖霊(三位一体)が天上界にて永遠にあるということ考えてきました。そして、罪については、前回のブログで考えました。ルカ福音書の中にそれらのことを提示する話がありますので、今回は脱線して、その話を掲載したいと思います。表題は、イエスの言葉です。(文中、アンダーラインは僕)

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 ある日のこと、イエスが教えておられるとファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気を癒やしておられた。すると、男達が中風を患っている人を床に乗せて運んできて、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前にイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人達の信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者達やファリサイ派の人々はあれこれ考え始めた。神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ、神の他に、いったいだれが罪を赦すことが出来るだろうか。イエスは彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』というのと『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。(ルカによる福音書第5章17節~26節)

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 ・・・中風を患っていた男が、運んできた男達とどういう関係でつながれていたか、突拍子もない行動に起こさせるまでに男達にイエスに直していただきたいと思われたその男のすべてをイエスは、すぐさま深く感知したのではなかったでしょうか。・・・ そして、イエスの言葉、改まって静かに深く自分の言葉で読んで心に留める言葉です。・・・・Ω   

世界のベストセラーを読む(370回目)脱線:やみの世の主権者(エペソ人への手紙第6章12節)

2017-06-20 21:39:00 | 聖書・聖句
 前回から一転、今回の内容はかなりアンダーグラウンドの内容です。ですから、純粋にその道を求めようとされている方は、他のブログを参照ください。しかし、・・・・今回のブログは意味深だぞ! 僕らは全くその仕組みにはまり込んで一応幸せに暮らしていることになっているのだから。(だから、旧約や新約の手紙、黙示録などを架空の物語などと思わず、光の浮世に流されないでしっかり、その陰から覗いている者の姿も捉えておかなければいけないものと思う。)
◆光が強ければ、また闇は深し・・・。アメリカ大統領第28代ウィルソンのことを書きましたが、彼は、国際連盟を創設したことで知られていますけれど、男女や、宗教に拘わらず人類に不変な仕組みを取り入れていく中に、それは最上の神を信ずればこそとして設立の彼に遡る建国の父たち、ピューリタンは、宗派(基督教)は問わなかったが、フリーメーソンだったのだろうか。
◆フリーメーソンは「宗派」ではなく「至高神」を考え「宗教」を問わなかったのです。仲間同士の秘密は守るということで(その歴史をたどればそのようになったのは理解できる、城を作る職人<石工>は多くはなかったから、敵の城を作って内情をゲロする職人は飯が食えなくなるから仲間同士で決めごとと秘密を守ったとされる)、いかがわしい組織のように思われているが、実際は、かなり高度な考えを持った方々が、世界のいかなる国の人々もそのシステムに同調すれば(社会や国家を改良すれば)、普遍的人道主義的な世界共和国を建設する事ができると考えていたようです。宗教も問わないとなれば、一応仏教の国であるとたいていの方は、お寺さんにお墓参りに行くこの国の人々にとっては、ハッピーで受け入れると思われる考えではないだろうか。それでたまたま、アメリカを創立した人々は先んじて基督教を受け入れていただけだと言うことになる。
◆それで・・・中世カトリックからも追い出され、宗教改革の基督教からも追い出され、あとはどうしたら普遍的神の国の実現が、無論完全とはいかないだろうが、自分たちも住めるその仕組みを導入しなければ我々の存在はなくなって良いはずはないと考えた人々(神はそのようなことは望まれないと信じて生きてきた人々)、そういう人々(とにかく先を読み、大衆を扇動し、しかも共存共栄の平和を望んでいた人々)はどういう人だったのかと考えらと消去法で考えるまでもなく、残るは天地創造の神、全能の父を信じてきた神の選民族ユダヤ人ということになります。フランス革命での人権宣言をご覧になってください、一番てっぺんにピラミッドに万物を見通す目があります・・・アメリカの一ドル紙幣にあるマークと同じです。
◆・・・しかし、これあまり公にしてはいけません?ので、興味をもたれた方はお調べください。但し、決して暗い思いはされないように、決して悪く思ってはいけません。そのシステムにいかに我々は、助けられていることだろうと思う。(ここで、複雑に黙示録の「偽ユダヤ人」などという言葉、終末「バビロンの滅び」などの興味もたれて、その辺から聖書を学ばれる方もあるでしょうが、まずは、「自分の救い」についてはどうなのかを念頭に入れてください(地上の僕らは必ず死ぬので、おそらくその方が早いでしょうから)
◆僕は何を言いたいのか、世界の金融システムに影響、銀行家の指摘銀行制度、連邦準備制度(FRB)の設立。
 ウッドロー・ウィルソンは就任式直後、特別会期を招集してクリスマス休暇でほとんどの議員たちが帰省中に民主党が提出したオーウェン・グラス法という連邦準備法を可決させ著名しました。実はこれ彼はひっけられたのです。以前、共和党が提出のオルドリッチ法と名前は異なるが内容は同じで民主党が反対していた内容なのでした。彼は晩年になって連邦準備制度設立に加担したことを後悔してこう言い残している。
「わたしはうっかりして自分の国を滅亡させてしまった。大きな産業国家は、その国自身のクレジットシステムによって管理されている。私たちのクレジットシステムは一点に集結してしまった。従って、国家の成長と私たちのすべての活動は、ほんのわずかな人たちの手の中にあります。私たちは文明化した世界においての支配された政治、ほとんど完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです。」 悪く考えるとお金を動かすには、とにかく戦争でもおっぱじめろ!ということ。
◆エペソ人への手紙第6章12節、続く13節「神の武具を身につけろ」とは「キリストを着なさい」ということです。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(369回目)「母の日」を制定した第28代アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンのこと 

2017-06-18 20:35:18 | 聖書・聖句
 昨日18日は「父の日」6月の第三日曜日でした。「母の日」は5月第二日曜日は成り立ちもネットで見れますが、よく知れらています。これを制定したのは1914年時のアメリカ第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンです。彼が、「母の日」(5月第二日曜日)を制定したのは母を思う特別の思いがあったからだと思います。
◆教会で子供たちへのお話の時間がもたれますが、そこで、彼についての次のようなお話が残されています。1950年代のお話なので古い言い回しです。「母の日」はアンナ・ジャービスさんが自分の母親に感謝してカーネーションを追悼記念に教会の皆さんに配ったことから始まったとのことですが、これを国の記念日に制定したウィルソンの母親に対する思いはひとしお強かったのだと思わされるエピソードです。
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 「金メダルはお母さんへ」
 五月の第二日曜日は「母の日」といって、お母さんのご恩を特別に感謝する日です。わたしたちはお母さんのご恩に深く感謝し、お母さんを、もっともっと大事にする人になりましょう。
 あるところに。貧乏なお母さんがありました。お父さんが早く死んで、たった一人の男の子があるばかり、お金もお道具も着物もありませんでした。
 お母さんは他の家のせんたくや裁縫をして暮らしを立てました。そして一人の息子を育てましたから、どんなに苦しかったかわかりません。そのうちに息子が学校へあがるようになりましたが、いつも成績がよくて一番。それから、だんだん進んで大学でも優等で、いよいよ卒業する時には、みんなを代表して卒業演説をすることになりました。
 「お母さん、いよいよ楽しい卒業の日が来ました。明日はぜひ卒業式に出かけてください。」
 けれど、お母さんは着物がありませんから、
 「せっかくだけれど、わたしは家にいましょうよ、みなさんがりっぱにしていらっしゃるだろうから・・・・。」
 「でも、お母さん、行ってください。わたしが卒業したのも、お母さんのおかげですから」と息子が言って、
 「着る物なんかどうでもかまいませんよ」と熱心に誘いました。
 そこで、お母さんは色のあせた型の古くなった着物を着て息子といっしょに出かけました。
 やがて式が始まり、順番が来て息子の卒業演説が始まりました。それは実にすばらしいもので、みんなが拍手して褒めました。そして一番りっぱな賞品の金メダルが授けられました。息子はその賞品を受け取るやいなや、お母さんのそばへかけていき、
 「お母さん、お母さん。これはあなたのものです。あなたのおかげで貰えたのです」
と言って、お母さんの胸につけてあげました。
 こうして息子は貧乏な粗末な身なりをしたお母さんを少しも恥ずかしいとは思いませんでした。
 これを見た何百人もの来賓や何百人もの学生は、涙を流して関心いたしました。この感心な息子はだれでしょう。それは後にアメリカ大統領になったウィルソンだったのです。
 
 「なに、ウィソンって聞いてような名前だ。そうそうアメリカの大きな汽船の名前!(1950代から60年代にかけて太平洋航路の汽船で名前が知られていた)」とおっしゃる方もあるでしょう。そうです。今(当時)アメリカと日本との間の太平洋航路に用いられているあのすばらしい汽船も大統領ウィルソンを記念してつけたものです。大統領ウィソンに負けないようにいたしましょう。
                    野辺地 天馬 (キリスト教例話集 児童伝道同志会編 CLC暮らしの光社 1979年)

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