下記に宣べることは一般論ではありません。あくまで僕が経験から教えられたことです。当たり前のように工学系の仕事もしてきて、海外にも行かせてもらいました。日本中も出張で、北は北見から南は鹿児島まで、殆ど大手の電気系のメーカーに行きました。普段の仕事では行くことはよほどのことが無い限り日本中を廻り歩くことはないでしょうから今思えば感謝なことでした。ただ。一点教えてもらったこと。それは、漠然としか言えませんが、企業もすべては「人」にあると思わされたことです。
◆ブログを投稿する方も熱心に肉体的修行といわれるものを積んだ者でもありませんでしょう。キリスト教は仏教とは異なるのですから。しかし、若い方には今も、修行を行うような「道」を求めている多くの方がいるのです。時折、そういう若い人に会うのですよ。(キリスト者よ、時は迫っていますので急がねばなりません!。)
◆普段、人は生き物の習性として一般論の中の評価判断を頭の中で捜し、自分の意中の思いに波風がたつと、その反論をするように心が出来ているものです。ましてや宗教という魂の、霊の、命に関わるような言論についてはまず、言葉に出さないことが肝要であるということは、この国はその経験から学んだものであるようです。(このことについて教えられたことはいつか書きたいと思います)。
◆キリスト者は一番、理解しているのですよ。人に聞くな!第一には、まずあなたに語りかける声に聞けということになるのですが、その、そのまま根源の声を謝ると大変な事態になることは、周知の事件で見られるとおりです。「あなたは信じると言われましたね、誓ったんだからこの花を街角に立って全部売ってきなさい」などと昔、どこぞやの宗教団体が行っていた、いわゆるカルトと呼ばれるものとは、実はキリスト教は真逆の事柄なのです。キリスト者はまさに光を装った悪魔と戦わねばならないのです。
◆人に聞くのではなく、生きているイエスに聞くのです、と書けばあなたは笑われますか? 僕のブログで以前に書いたS・ヴェーユは「神を待ち望む」という本を著しました。そこで僕は彼女がカトリックではなくプロテスタントであれば、違った考えをもたれたであろうと述べました。神はあのときからすでに来て臨在しているのですよ! 我々が気づいていないだけなのです。
◆我々は弱いですからキリスト者であってもすぐ横を見て一般論に解消して判断しようとしてしまうのですね。ヨハネの福音書の終わりに何のことかという不思議な話が書いているのです。この終わりに書かれた福音書としては不釣り合いのようにも考えられる物語が何をいっているのか、何を第一にキリスト者は自分のことばを育まなければならないかを考えてみる必要がありそうです。
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「ペトロは振り返ると、イエスが愛しておられた弟子(でし)がついて来るのを見た。この弟子はあの夕食の時、イエスの胸近くに寄りかかって・・・・尋ねた人である。ペテロはこの弟子を見てイエスに言った。「主よ、この人はどうなのですか」イエスは彼に言われた。「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。(ヨハネによる福音書21章20~23節)
****************************** 長年、信仰を持たれた方(92歳)が24日夕 天に召されました。記念にこれを記します。・・・・
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