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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(672回) (#3):ヨセフの物語は地上の宗教などには無関係に・・・

2020-06-14 06:00:15 | 聖書・聖句

◆異邦人というのは、天地創造のイエスの父なる神様を知らない人、正しく言えばその歴史性の中で生きて働いて人類を導かれた神、その先理解が全くない人と言えるかもしれません。「異邦人」という小説は、ムルソーという主人公が、お母さんが亡くなった時も、浜辺で女性と遊び、友人から借りた拳銃でアラビア人を殺しまい、裁判でその理由が「太陽が暑かったから」というような返答をする。死刑の判定を受け、監獄に司祭が壁のシミに主のお顔が見えないかなどとも言い、懺悔の言葉を促しにくるのですが、面倒くさいことはいうな、自分は自分の人生だと胸倉をつかんで追い出してしまい、あぁ、すっきりした、あとは死刑がまっているだけだ・・・というような内容の小説です。しかし、この日本の国の人々は未信者の方でも完全なる異邦人ではないと思われるのは僕だけではないはずです。

◆キリスト教でもカトリックではなく、カミュがプロテスタントであれば又、ちがったのかなと思いますが、いずれ、当時、巷に知られているキリスト教でも、そのベストセラー聖書のその内容を深く、しかもその歴史性において、神が過去から現在、そして未来までの人類の歴史をつかさどり、動かされているのであると理解するその理解の程度は、現在の私たちもその動きの中で、読みつつ、祈りつつ、歩み続けなければいけないのだということの再認識を示唆ているように思われます。このような普段の深い理解、その世界のベストセラーの語りは過去のものではなく、わたしたちが命を持ち、今生にこのようにあることに、そしてこのような世界の情勢にあるがゆえに益々、真摯に受け取らなければならないと思わしめられているところです。

イエスご自身が「わたしについて律法(五書)、預言者の書と詩編に書いてあることは必ずすべて実現する。」(ルカ:24:44)と言われている訳ですから、その歴史の中で、今も働き、一直線に天上界へレールが引かれているその導き、その歴史の中で昨今のようなイエスの再臨が近いのではないかと思われる時、天の父なる神と呼ばれる方がどういう方なのかということを異国の地での創世記のヨセフの信仰を学ぶことは、この地上という異国の地で天の故郷を求めるすべての人々の再確認になろうかと思いますし、僕が”しがらみ”から解放と思っていることに連なるわけです。それは、すべての国々の天の故郷を求めている人々へのメッセージなのです。・・・続く 


世界のベストセラーを読む(671回) (#2):8月に礼拝でお話をすることになりました

2020-06-13 06:00:13 | 聖書・聖句

◆私たちが物事を理解するということの中には、聞く自分が前もって知られて分かって関連している内容に対して、今、相手が話されている内容が何らかのつながりがあれば分かる、ということになるのだと思います。まったく無知だったことがらに対しても、心の中で知りたいとか、疑問に思っていたという事柄に話が合えば分かったという満足につながります。ところが、まったく思ったこともない、知りたいとも思わないことがらに、実はそうなのだ、そのようになっていたのだ、と他人から言われたことには反発したくなるものです。特にこころの事柄に関係する宗教という内容に関してはです。人という生き物はその自由ということにおいて、すべて自分の思い、考えに障害となるであろうことがらを排他し前進しようとするものです。批判者は優位になる気分を持つものだからです。

◆人の「理解と納得」は、哲学用語ではアプリオリとも言いますが、先(前)理解(先に理解していたこと)、経験や学習によって覚えていたことが、改めて学んだ、学ばされた時に頭の中で関連するすることができた時、分かったという自分の意識として確認できるものです。その中には体験して身についた言葉も含まれるでしょう。経験として学ぶということです。ここで、まったく見ず知らずの外部から来る言葉に対して共感できることと、そうではないまったく排他するという気持ちが起こるのは何故なのでしょう。

ここで、殆どの人が共感する仏教についてはどうでしょうか。そはもともと葬式仏教ではありませんでした。この国には神仏習合といってその目指しているものは同じなのだろうと多くの人は殆ど屁理屈こねて面倒臭くすることをよいこととしていません。僕はこれを日本の国のよい点だと思っています。一点を除きですが。人が天上界のことを人の言葉であれこれと他人に対し定義し始めたときに腐敗が必ず始まると考えているからです。歴史上で海外からの政治がらみの外国のキリスト教が入って来たことによって(オランダは進んでましたから宗教にこだわらなかったから出島に来ることが赦された)、多くの殉教者がでたことは、その後、お寺に役所と同じような働きをさせ、檀家制度を作ったのはやむを得ないことだったと思います。そこで先祖の葬儀、法要も季節ごとに行われるようになり、今も夏には殆どの方が参加しています。ご先祖様を心情的に思う気持ち、その命の繋がりが今の自分の存在でもあるということは「先理解」がそのように身体に結びついているからとても強い信仰心の要となっています。

◆このような話をはじめにするのは、不条理の哲学を創設したと言われたノーベル文学賞を採られたアルバート・カミュが1947年に書いた「ペスト」という小説が新型コロナウイルスの流行で世界で140万部も売れたというニュースが流れていたからです。この小説にはペストが流行ってロックダウン(都市封鎖の自分の故郷のアルジェの町)の話がでてきます。その都市の中で、リューという医師や聖職者その他、様々な人々の思い、考えが語られていきます。ぺストという病気は14世紀に流行りヨーロッパでは三分の一の人々がその他の国々にも流行り22年間も続いたと言われた疫病で、政治、経済に多大な影響を与えた怖い病気でした。そのカミュの初期作品に「異邦人」という小説があります。・・・続く 

 


世界のベストセラーを読む(670回) (#1):8月の礼拝でお話をすることになりました

2020-06-12 11:25:24 | 聖書・聖句

★訳あって教会の聖日、礼拝でお話をすることになりました。

◆キリスト教国ではないこの国の人々によく考えていただきたい内容です。youtubeでは、日本の古代神道は遠い昔大陸からの多くの渡来人がキリスト教(ネストリウス派)を伝えた人々であったと言われているものがあり、古代ユダヤ人の埴輪が日本に見つかるとか、この国の人々のDNAが40%も近隣諸国には見られないユダヤ人に類似している(古代に渡来人があの西方から来ていた)というようなお話が流れています。ひと昔前はこのような話をすると欧米神学しか学ばれていない若い牧師さんからは石を投げられそうな状況でした。今では学問的にも解明されてきていることを嬉しく思いますが、このようなお話は礼拝ではできませんし、やりません。しかし、この国の人々の信仰心とはどういうものなのか、旧約の本当の神様にも近いイメージではなかったのかと思いを馳せ、それをお話します。

◆それで、今回のお話の焦点は、”ヨセフの信じて異国の地で生きたその神とはどういうお方であったか”です。その要旨を記録として残します。それは、僕が信徒であるから言える内容で、聖職者になってしまったらおそらく言えないことだろうと思いますし、この点を強調することはおそらくないだろうと思われるからですが、夏になり永眠者記念の礼拝もあり、これをお話するのは日本のお盆でもあり、終戦記念日でもあり、又、おそらく多くのクリスチャンの方もそうであろうけれど、ご先祖のお墓に詣でる月にもなっているからです。

◆欧米では、聖書の内容自体が教養の常識となっているのですが(深く理解しているかは別)この国においてはクリスチャンは聖書の内容が常識としても、その核心に至る前にその内容の物語をお話しなければなりません。しかし、部分のみのお話ではその背景として、必ず聖書はその背景の物語を読んでください、という条件が牧師さんが言わなくても付帯条件がついているのです(言っているその方が深く読んでいるかどうかは別)。いつもみ言葉に触れてくださいとのお薦めは、聖書を読んでくださいということです。それは一時、礼拝のみのお話で終わる内容ではなく、過去から(極端に言えば天地創造からとなりますが、実際のところそれ以降の神が選ばれたアブラハムからの歴史として語られているのですが)の歴史性の中で現在も信仰されている内容だからです。

◆自分の言葉で神の言葉と言われる聖書を読むこと「自分の言葉」でです。そして最終、今も生きておられると言われるあの十字架にかかられ復活したと言われる今のイエスとお話するというのが目標です。他人からいわれるのではなく、各人が内なる主体的な受け取りが必要になる、その方との会話です。このように書いたからといってあぁ、やはりそちら側の人(キリスト者だけ)の話なのね、ではないことはこれも聖書を深く読まねばならないということになりますが。そのことも含め、ヨセフの語はどういう物語で彼の信じていた神とはどういう方であったのかをお話してみたいと思います。・・・続く

 


世界のベストセラーを読む(658回) (その2)ヨセフは故郷の墓に埋葬された

2020-04-25 10:08:02 | 聖書・聖句

(あらすじ)ヨセフはヤコブの子供達の内、年寄り子だったので特別にかわいがられた。兄弟達は自分に頭を下げるようになるだろうと夢見る幼いヨセフに言われ、やっかまれて野において死んだことにされてヨセフは兄弟たちにエジプトに売られてしまったのである。しかし、夢を解く力が与えられていたヨセフはエジプトで試練にあいながらもその先を読む能力によってエジプトの宰相までのぼりつめ、作物のまったく育たない不況のなかで父ヤコブから言われ食べ物をエジプトに請いにきた兄弟たちに会うことになる。幼い夢は現実となった。しかし、兄弟達はまさかヨセフがこれほどエジプトで偉くなっているとは気がつかない。耐えられなくなったヨセフは身を明かす。父は元気か、みなは元気かと。そこで、不作つづきのカナンの地から父、兄弟一族を豊かなエジプトの地に呼び寄せたのである。やがて父ヤコブもそこで死ぬが、カナンの地で壮大な葬儀が行われた。***** 創世記37章から50章

◆(創世記50章12節~14節 ヤコブの埋葬) 「それから、ヤコブの息子たちは父に命じられたとおりに行った。すなわち、ヤコブの息子達たちは、父の亡きがらをカナンの土地に運び、マクペラの畑の洞穴に葬った。それは、アブラハムがマレムの前にある畑とともにヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになったものである。ヨセフは父を葬った後、兄弟たちをはじめ、父を葬るために一緒に上って来たすべての人々と共にエジプトに帰った。」****(父がなくなって、昔、ヨセフを売り飛ばした兄たちはヨセフが仕返しをするのではと恐れた。・・・そこで人を介してヨセフに言わせた。)

◆(創世記50章16~21節)「お父さん(ヤコブ)はなくなる前に、こう言っていました。『おまえ達はヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎(とが)と罪を赦してやって欲しい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たち(自分たち)の罪を赦してください。」・・・これを聞いて、ヨセフは涙を流した。・・・「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか、恐れないでください。。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、やさしく語りかけた。(創世記50章16~21節)

◆(創世記50章22節~26節)ヨセフは父の家族とともにエジプトに住み、百十歳まで生き、エフライムの三代の子孫を見ることができた。マナセの息子マキルの子供たちも生まれると、ヨセフの膝に抱かれた。・・・ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」・・・それから、ヨセフはイスラエル(天使から与えられたヤコブの名前)の息子たちにこう言って誓わせた。*****「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。その時にはわたしの骨をここから携えて上ってください。」・・・ ヨセフはこうして百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。

・・・それから長い時が流れ、ヨセフも知らないファラオも現れ、エジプトの地で増え続けるイスラエル人を恐れて、奴隷として使うようになる。神は、民の苦しみのあえぎに応えるようにして、モーセという人物を起こしたのです。「神は必ずあなたたちを顧み・・・」その言われたことを成就せんがために・・・。そして、ヨセフの亡きがらは、故郷の墓に上るために、あのモーセの引き連れた脱出の一団とともにあの割れた紅海を渡ったのである。実は、モーセは神の示された地には直前で入れなかった。後を継いだヨシュアがその目的を果たすのだ。

◆(ヨシュア記24章32節)イスラエルの人々がエジプトから携えてきたヨセフの骨は、その昔、ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された。それは、ヨセフの子孫の嗣業の土地となった。

****僕は、誰でもが行くであろう別の世界、その眠るお墓のことを思うと、いつもこの壮大なドラマを思い感動するのです。


世界のベストセラーを読む(657回) (その1)ヨセフは故郷のお墓に眠った

2020-04-25 06:11:25 | 聖書・聖句

 ◆山があり、海に囲まれ、清い水が流れ、太陽が海から昇る国で。この季節、自然に接し、青空のもとすべてがワクワクしているなぁ、と陽の下で感ずることはこの国に生まれてよかったなぁ、といつも思うこと。・・・京都の大原という所に、山菜だけを自然から採ってきて料理するお店があるのをテレビで見た。ツクシは食べられるのだったなと思いながら先日、田舎にいった途中で採取したツクシと小さい蕗のとうを採ってきた。ツクシはおひたしにしカツヲ出汁でいただき、蕗のとうはすり鉢ですって味つけお味噌に混ぜていただく。いい香り、ちょと贅沢な気分・・・。さて、この国、日本の田舎の現場から突然に聖書の世界のだ、しかもお墓の話。前のブログに書いた聖書の疑問について、僕は聖書に書かれたその数行を読んだ時にとても感動したのだ。

◆彼らは、聖書の選民族は遊牧の民。そもそも固定化された定住地をもともと持たなかった。それに、歴史上の離散もあり、大変な辛酸を嘗めた。今も、何かと物議を醸している。しかし、人をも創造されたと言われるその神は、世界中にこの地球上の三次元のフィジカルな現場で、天地を創造した神を知らない世界(全人類)に、永遠の世界へと導こうとされている、その為の状況設定ではなかったかと思いを巡らすと思わされてくる。まさに、壮大なドラマであると。・・・いつもの前置きはこれくらいにして

◆その疑問と、その応えを読んだ時の感動は、次のことだ。僕が聖書など読んでいない昔、映画で見た「十戒」、それは旧約に書かれたモーセが現れて海が割れてのエクソダス(脱出)、それはエジプトからの脱出だったろうに、今のイスラエル(昔カナンの地)とは違う場所だろうにと。聖書とは、なにやら神と呼ばれる物語を集めたものなのかと。その断絶していると僕が思っていたことなのだ。

◆しかし、その応え。その箇所は、創世記37章からヨシュア記24章まで関わる。聖書に多数の名で人がでてくるが、掲題のヨセフとは、旧約ヤコブの子でエジプトの宰相まで上りつめたあのヨセフである。ヨセフも死に、それから以降のモーセが出てきてのドラマの中で、断絶の時間と思われていた長い長いその時代も、とうに忘れられても当然のようなさまざまなドラマの中で、彼らは決して故郷(ヨセフとっては故郷のお墓に入るという願い)に帰還することを忘れてはいなかったことだ。あの壮大なドラマの中で、奴隷たるイスラエルの民に賛同した多くの民がエジプトからの脱出をはかるが、紅海が割れて脱出をはかる示されたカナンの地、その父ヤコブが眠る故郷の墓にヨセフの遺体を運んだのはあのモーセなのだ。ミイラとなったヨセフの遺体はあのドラマの中で紅海を渡り願いどおり故郷の墓に埋葬されたのである。・・・僕はこの話を感動的に思い出す。 ・・・ 続く