記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

朝ドラ「らんまん」で楽しむ印刷美術や内職・燐寸の歴史

2023年08月26日 10時40分33秒 | 演劇・音楽

2023年度上期のNHK連続テレビ小説(朝ドラ)らんまん。花好き、植物好きの人だけでなく、私のように「印刷美術」やデザイン史、鳥瞰図絵師・吉田初三郎を研究している者にとっても、時代考証に沿った演出が随所にあって目が離せない。7月21日には「燐寸(マッチ)ラベル貼り」の内職が登場して興奮した。

昔の燐寸(マッチ)箱は木製で、60歳代以上の方なら表面に広告やデザイン絵柄を印刷した紙を糊貼りしていたことをご存知かもしれない。私の手元にある1960年代までの福岡市関係のマッチ箱も、ほとんどがそれである。

すでに5月には主人公・万太郎が植物学雑誌などを刊行する過程で、当時脚光を浴びていた石販印刷(リトグラフ)の技術を学ぶことになり、印刷会社や画工、職人が登場していた。史実に沿って、主人公は石版印刷機を購入し、植物図鑑の発行へと突き進む。

1890〜1900年代に人気内職となったのが「燐寸(マッチ)ラベル貼り」と「モノクロ写真を印刷した絵葉書のカラー彩色(手彩色)」で、カラー絵や写真を観たい触れたいという人々の願望がうまくドラマに加えられていて、感心して観ている。

「燐寸(マッチ)ラベル貼り」内職そのものは、マッチ箱が木製から紙製になる1960年代まで全国各地で続けられた。1970年代になると二つ折りタイプのマッチも登場するが、明治中期から昭和期にかけては最も身近な商店などの広告媒体がマッチと絵葉書だった。以下のマッチ箱も、全て木製の箱に印刷紙が貼られたものだ。

広告マッチは、実用(着火)と趣味(コレクション)を兼ねた最も身近なもので、水に浸してラベルを剥いで乾かし、コレクションにする方も多かった。昭和の終わり頃までグラフィックデザインを学ぶ者にとっても、最初の仕事はマッチやショップカードのデザインだったし、駆け出しの画家やイラストレーターの作品発表や修行の場でもあった。

そういえば、どこかで「あれ?牧野博士と吉田初三郎の特集を見たぞ」と思い、蔵書雑誌を見返すと1999年10月7日号の小学館「サライ」では「大原富枝『小説 牧野富太郎〜在野の天才植物学者』」と、「吉田初三郎〜大正・昭和のパノラマ観光鳥瞰図」が一緒に特集掲載されていた。

「大正広重」と呼ばれ日本の観光イメージを創り出した吉田初三郎と、日本の植物学黎明期から活躍した牧野富太郎。一見すると2人に共通点は無いように映るが、二人とも「石版印刷(リトグラフ)」の技術を取得し後に「20世紀最大の発明」と呼ばれる印刷技術を武器に、在野から出世した点が同じだ。牧野博士は小学校中退、吉田初三郎は尋常小学校卒で丁稚奉公に入っている。

明治期の日本の芸術文化に革命を起こした「石版印刷(リトグラフ)」については、印刷博物館の過去の特別展や図録に歴史や進化が詳しく紹介されている。博物館に行けば実際の印刷技術の進化を、印刷機や原板などを見て学ぶことができるので、ドラマで興味を持った方は訪れるのもいいと思う。鳥瞰図絵師・吉田初三郎の研究を進める過程で、私は何度も同博物館へ通った。私の場合、印刷業界がデジタル化される前のアナログ時代のオフセット印刷の知識があるので、すんなり理解することが出来た。

8月22日(たぶん)の放送でも、妻・寿恵子が燐寸(マッチ)箱の内職を続けていることが伝わってきた。ドラマの些細な演出・小道具であるが、ほぼ手抜きなく再現している美術担当さん達のこだわりも見逃せない。

細かく言えば、あの時代に燐寸を入れる紙製の大箱は無いだろうし、あんなに白い印刷用紙も良質なインクも無いはずだけど、そんなことはドラマの本筋には関係ない。あの時代の空気感やワクワク感がなんとなく伝わってくる裏方さん達に拍手を送りたい。だから朝ドラは面白く楽しい。

 

天神の過去と今をつなぐ(西日本新聞meの連載)

・にしてつWebミュージアム(企画構成を担当)

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