きょうの朝日新聞の夕刊に、「閉塞感のほぐし方5」美術家森村泰昌さんの提案、「自分を笑う」があった。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200904150231.html
自分を笑う目は、確かに、深い人間愛と生きる底力あってこそ持てるものだ。
恥、屈辱、悲惨、八方塞がり、、、そんなときに人間がしてしまうさまざまな意味不明の言動を、いとしく面白いと感じる心。
胡桃沢耕吏氏の『黒パン俘虜記』は、シベリア俘虜生活の極限の悲惨を描いているにもかかわらず、笑っては申し訳ないと頭は諌めるのに我慢できず畳をかきむしって笑ってしまった。それは、きっと胡桃沢氏の揺るがない確かな人間愛の筆致のなせることだと思う。
俳人正岡子規氏が脊椎カリエスの痛みに七転八倒する自分の姿を滑稽に描くのに、小学校時代のわたしは驚愕し、「精神が肉体を超えた」と思ったものだった。けれど、今は、超える超えないではなく、彼の愛の深さに頭を垂れる。
不真面目になるのではなく、真面目をちょっと離れて、映画を見ているように自分を見て、笑う目を持つと、次の一歩の可動域と方向の選択肢が多くなるように思う。そして、そんな笑いができるのは、人間だけなのではないかしら?
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200904150231.html
自分を笑う目は、確かに、深い人間愛と生きる底力あってこそ持てるものだ。
恥、屈辱、悲惨、八方塞がり、、、そんなときに人間がしてしまうさまざまな意味不明の言動を、いとしく面白いと感じる心。
胡桃沢耕吏氏の『黒パン俘虜記』は、シベリア俘虜生活の極限の悲惨を描いているにもかかわらず、笑っては申し訳ないと頭は諌めるのに我慢できず畳をかきむしって笑ってしまった。それは、きっと胡桃沢氏の揺るがない確かな人間愛の筆致のなせることだと思う。
俳人正岡子規氏が脊椎カリエスの痛みに七転八倒する自分の姿を滑稽に描くのに、小学校時代のわたしは驚愕し、「精神が肉体を超えた」と思ったものだった。けれど、今は、超える超えないではなく、彼の愛の深さに頭を垂れる。
不真面目になるのではなく、真面目をちょっと離れて、映画を見ているように自分を見て、笑う目を持つと、次の一歩の可動域と方向の選択肢が多くなるように思う。そして、そんな笑いができるのは、人間だけなのではないかしら?